第36話 エピローグ

 その後、被疑者死亡で捜査は一応、終了した。香島良一は何らかの罪に問われるだろうが、それほど重くないのは確かだ。だがこの事件は彼の心に深いきずあとを残した。それを記憶の底に押し込めるのか、それとも向き合って生きるのかは彼自身がこれからの人生で選択せねばならないだろう。

 日比野舞子の骨は詳しく調べられた後、丁重に静岡の日比野家の墓に埋葬された。もちろんそこには一足先に香も眠っていた。その墓地からは浜名湖が望め、春にはそこは桜の花で覆いつくされる。そこで2人は両親とともに静かに永遠の眠りにつくのだろう。


 一方、あの山奥の桜の木は事件当時、美しい花をたくさんつけていたが、あの後すぐに枯れてしまったという。まるで生命力を奪い取られたかのように・・・。


「根元をあんなに掘り返したら、どんな木だって枯れてしまうさ」


 久しぶりに現場を見に行った堀野刑事はそう言っていた。だが佐川刑事はそう思わなかった。


「桜の根元に埋まっていた遺体が掘り出されたからさ」

「じゃあ、遺体が桜の栄養になっていたというわけか?」

「いや、違う。あの桜の木は日比野舞子の怨念であんなに妖艶に咲いていたのさ。復讐が終わり、それが消えていったためだ」

「気味が悪いことを言うなよ」


 佐川刑事の言葉に堀野刑事は眉をひそめていた。そんなことを言った佐川自身もそう信じているわけではないが、何となくそう感じていた。


 捜査が終わりになり、木の下に掘った大きな穴は埋められ、周囲もかたづけられて事件の形跡は消えてなくなった。あの大きくなった桜の木もない。ここは本来の山奥の静かさを取り戻しつつあった。多くの人たちを傷つけたこの事件の記憶も、ほとんどの人の頭から次第に薄れて消えていくのかもしれない・・・。




 佐川刑事は湖国の展望デッキに上がって四方の景色を眺めていた。そこは比良下ろしの風が厳しく吹き付ける。。今、湖国は大津港を出て北上している。ちょうど琵琶湖の真ん中と言ったところだ。桜の花はもう散り始め、もう葉桜になってきている。今年も桜の季節が終わったのだ。多くの人の命を奪い、多くの人の心に傷跡を残して・・・。


「ここにいたか」


 その声に佐川刑事が振り返ると、そこには大橋署長が立っていた。


「署長」

「この度はご苦労だった」


 大橋署長は佐川にねぎらいの言葉をかけた。だが佐川刑事の表情は冴えない。


「これでよかったのでしょうか?」


 佐川刑事はずっと思い悩んでいたのだ。その言葉に大橋署長は一呼吸おいてから話し始めた。


「考えてみると不思議な事件だった。痛ましくもあったがね。11年前の高校生があんな恐ろしいことをしでかしたり、今頃になって11年前の妹の復讐を始めるというのは」

「確かにそうですね」

「それになぜか、事件に桜が付きまとう。犯人の日比野香がどうしてそこまでこだわったのか・・・」


 佐川刑事は山形警部補に化けた日比野香のことを思い出した。確かに彼女は桜をよく眺めていた。その心の中では何を考えていたのか・・・。


「日比野香はどんな風に考えていたか…今となってはわかりませんが・・・」


 佐川刑事がそう言うと、大橋署長は話し始めた。


「あれから静岡県警に問い合わせて、いろいろと話を聞いた。日比野香は職場では勤務態度はまじめで事務職員として捜査1課のサポートをしてきた。よく気が付いて誰にも優しくて、誰からも好かれていた。あんな恐ろしい殺人を犯すようには全く見えなかったようだ。職場や近所の人がそう証言している」


 佐川刑事はまた日比野香の姿を思い起こした。演技していたのかもしれないが、出会ったころは優しい普通の女性に思えた。しかし次第に彼女の中に狂気を感じていた。特にあの山奥の現場では・・・。しかし普段の彼女はそうではないらしい。そんな人がなぜ・・・佐川刑事には疑問だった。

 大橋署長は話を続けた。


「ついでに山形警部補のことも聞いておいた。彼女は本当に優秀な警察官だったらしい。捜査1課で凶悪な犯人を多く上げ、警部補として一つの班をまとめ、上からは信頼され、部下からの信望も厚かった。だから今回の事件に優秀な彼女が派遣されてきたようだ。そんな彼女にあんな過去があり、また容疑者を殺そうとしたなんて信じられないそうだ」

「そうだったのですか・・・」


 佐川刑事は本当の山形警部補に会ったことはない。香島の証言や香の話では、過去の事件を隠ぺいするため殺人を厭わないような恐ろしい女性のように思えていた。しかし実際の彼女は違うようだ。このギャップをどうして説明したらいいのか・・・。

 そんな佐川刑事の疑問に大橋署長は呟いた。


「桜の花は人の気を狂わせる」


 佐川刑事は思い出した。山形警部補に化けた香も彦根の現場でそんなことを言っていた・・・。


「まさか・・・」

「まあ、私にはそう思えるんだ」


 大橋署長はそう言って展望デッキを後にしていった。佐川刑事は、舞子が埋められていたあの桜の木を思い浮かべた。生き生きとして周りの木より大きくなり、妖艶な花をたくさんつけていた。あの木に舞子の魂が宿って人を狂わせたのだろうか・・・。


 結論の出ないまま、佐川刑事は展望デッキを降りて行った。その後には1枚の桜の花びらが落ちていた。比良下ろしの風で運ばれたものかもしれない。そこはもう桜が散ってしまったというのに・・・。


         ( 完 )

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びわ湖桜の名所殺人事件 ―湖上警察よりー 広之新 @hironosin

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