第35話 佐川刑事の決断

「拳銃を捨てるんだ! 抵抗するなら君を撃つ!」


 その佐川刑事の姿を香は目だけで追っていた。彼女の構えは変わらず、清彦に拳銃を突き付けていた。清彦は青ざめて、口を半開きにして震えていた。


「拳銃を捨てろ! そうしないと君を本当に撃つぞ!」


佐川刑事は拳銃を空に向けてパーンと威嚇射撃した。その音は辺りに響き渡った。だが香は動じなかった。


「撃つがいいわ! でもあなたには私を撃てない。殺されて埋められた舞子のことを知っているなら、私の気持ちがわかるはず・・・。やさしいあなたには私を撃つことはできないわ。」


 香はそう言った。佐川刑事は心の中でうなずいていた。ともに捜査して、いろんな話をしたから、香は佐川刑事のことをすべて見通している。


(確かにそうだ。彼女の妹の舞子のことを・・・いや彼女の気持ちを考えれば、拳銃で彼女を撃ちたくないし、撃つことができないだろう。彼女がやめてくれるのを待っているだけだ。神に祈りながら・・・)


 佐川刑事はそれでも拳銃を構えていた。殺人を見逃せるはずがないという警察官という自覚だけが彼をそうさせていた。

 だが香もなかなか拳銃を撃てないでいた。初めて拳銃を撃つのもあるが、恐怖でおびえる人を撃つのがなぜか、ためらわれた。それに良一が自分をかばって捕まってまで復讐をやめさせようとしたこと、そして目の前の佐川刑事が必死に止めているからでもあった。


(せめて佐川さんだけでもこの場を目をつぶってくれれば、復讐を成し遂げられるのに・・・)


 そう思った香は佐川刑事に頼んでいた。


「お願い。あと1分、いえ10秒だけでも見逃して!」

「ダメだ! これ以上、殺させない!」


 佐川刑事は大声を上げた。そんなことは警察官として許されることではない。どんなに同情する犯人であったとしても・・・。だがこのままでは自分の前で4人とも、殺されてしまう。誰かが応援に来て香を撃ってくれるのを待つしかないのか・・・だがもう時間稼ぎはできない。もう決意するしかない・・・佐川刑事は覚悟を決めた。彼の額に汗が流れた。

 すると遠くから草むらを踏み分けてくる足音が聞こえてきた。ようやく応援が来たようだ。銃声を聞いて駆けつけてきている。佐川刑事はもう少し、もう少しと思いながら捜査員が現れるのを待っていた。

 一方、香はもう時間がないことを悟った。早く復讐を遂げなければ、時機を逸してしまう・・・。香は大きく息を飲みこむと、体を緊張させた。そして彼女の引き金にかかる指が動いた。


「バーン!」


 拳銃が火を噴いた。だがその弾は香の拳銃から発射されたものではなかった。その弾は香の胸を貫き、真っ赤な血が周りにパッと飛んだ。香が撃つ前に佐川刑事が彼女を撃ったのだ。


「ああっ!」


 香は悲鳴を上げ、拳銃を放して胸を押さえた。桜の花びらが空中を舞って散りいく中、香はまるでそこを舞台に舞い踊るかのようにゆっくりと回りながら倒れていった。だが動かなくなることはなく、地面でいた。


「ま、舞子・・・」


 香はそう呟きながら、なんとか顔を上げた。彼女は這いつくばりながら腕で体を引きずって、舞子の頭蓋骨のところまで来た。そして血だらけの手でそれを抱えた。彼女の脳裏には元気だったころの舞子の姿が浮かんでいた。


「ま、舞子、ごめんね・・・」


 そう呟きながら香は涙を流した。そしてまた笑ったかと思うと、そのまま顔を伏せて息絶えた。

 佐川刑事は自分がとっさに撃ったことが信じられなかった。彼はただ茫然としていた。その心の内には、香に向けて拳銃を撃ったことに対するうしろめたさと4人の命を救った達成感が混在しているのだ。穴の底では清彦たち4人は上で何が起こったかを敏感に感じて、その恐怖に震えていた。



 その後すぐに荒木警部と警官たちが木の枝をかき分けて現場に駆け付けた。彼らが目にしたのは、大きな桜の木の下で拳銃を構えたまま立っている佐川刑事と血を流してうつぶせに倒れた日比野香、そして穴の底で震えている清彦たち4人だった。荒木警部はその現状を見てすべてが終わったことを理解した。


「佐川! しっかりしろ!」


 佐川刑事は拳銃を撃った姿勢のままで、半ば放心状態だった。荒木警部が声をかけてやっと我に返った。


「荒木警部・・・」

「佐川! しっかりしろ! どうしたんだ?」

「警部。私が撃ちました。私が日比野香を射殺しました・・・」


 佐川刑事は力なく言った。それからおもむろに拳銃を下ろして、左わきのホルスターにしまった。彼にはこの拳銃がずっしりとひどく重く感じられていた。香を撃ったことが心の奥底にのしかかっているのだ。

 荒木警部は佐川刑事の様子を見て、それ以上、説明を求めなかった。ただ大きくうなずいて、


「よくやった」


 と言って佐川刑事の肩をポンと叩いた。

 狙われた4人は警官たちの手で穴から出されて、保護されて連れて行かれていた。彼らは長かった恐怖と緊張感で青ざめて震えており、まともにしゃべれる状態ではなかった。その様子から十分に過去の罪と向き合ったようだ。だがまだあの悲惨な場所を直視することはできなかった。彼らはそこから逃れるかのように、ただうつむいて歩いていた。その足取りは鉛のように重かった。彼らは山奥の木々をかけ分け、また明るい場所に出るだろう。だがその心に刻まれた恐怖の記憶と過去の罪を背負ってこれから生きて行かねばならないのだ。


 ◇


 事件はこうして幕を閉じた。最後は犯人を射殺という痛ましい結果を迎えてしまった。多くの死者を出したが、最後に4人だけでも助けることができたのがわずかばかりの救いだった。

 現場には多くの捜査員や鑑識が入り、いつもは静かな山奥は騒々しくなっていた。地面には大きくて深い穴が掘られ、スコップや袋があちこちに散乱していた。だが事件現場と言うのに陰鬱な雰囲気は全くなかった。それはその頭上に大きな桜の木の花が咲き乱れ、花びらを舞い散らせていたからだった。ここが事件の出発点であり、終着点でもあったのだ。

 その場所から11年前に埋められた舞子の骨やカバンはすべて回収されて持ち出された。そして香の死体は布をかけられ、現場から担架で運ばれてきた。木々が生い茂る暗い道を通り、桜の木が並ぶ明るい場所に出てきた。比良下ろしの強い風が吹き、桜の花びらを舞い散らせて香を覆った布に落ちていた。そこにはあたかもピンク色の花を咲かせているようだった。

 その先には呆然と立ち尽くす男の姿があった。それは手錠でつながれた香島良一だった。彼は運ばれてきた布で隠された担架を見て、香の身に起こったことを知ったのだ。


「香・・・」


 良一はつぶやくと、手錠でつながれた岡本刑事を引っ張りながら、すぐにその担架のそばに駆け寄った。そして震える手で担架を覆う布をめくった。そこには白く青ざめた香の顔があった。その顔は深い悲しみと復讐を遂げられなかった無念さ、そして舞子をこの手に取り戻した安堵の気持ちが表れていた。彼は変わり果てた彼女の姿を見て、出会ったころから今までの彼女との思い出が走馬灯のように頭を駆け巡り、やがて深い悲しみに襲われた。彼の目から涙がこぼれ落ちた。


「香! 香! 香・・・」


 良一は何度も呼び続けた。だが彼女が目覚めることはなかった。白く冷たくなった香はただ顔を空に向けているだけだった。彼は彼女の亡骸にすがっていつまでも泣き続けていた。 



(日比野香はあの世で舞子に再会できているのだろうか・・・)


 その光景を遠くから沈痛な面持ちで見つめながら、佐川刑事は心の中でそう思っていた。


(なぜこんなことに・・・)


 彼は事件を思い返してみた。しかしいくら考えてみても、彼が止めることができただろうか? すべての者が何かの力で動かされているような気がして仕方がないのだ。彼は大きなため息をついた。



 これですべてが終わった。11年前の事件が膿を出してようやく解決したのだ。深いきずあと残して。だが桜の木だけは満開になった花を華麗に咲かせて、その花びらを風に乗せて舞い散らせていた。

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