笑う川
安江俊明
第1話
ゾンビのしわがれた手のような大椛(おおかえで)の枯れ葉が、強めの風に煽られてガラガラとアメリカ東部の舗道の上を転がっている。
アメリカ先住民の少年プリティ・ロックは休日を利用してルームメイトの白人少女カレンとデートを楽しんでいた。
二人が何故付き合い始めたのかは馬が合う、あるいは気が合うという言葉でしか表現できない。アメリカ社会に巣食う人種差別や偏見など、彼らにとってどこ吹く風なのだ。
二人は風に封じ込められるように肩を寄せ合い、風に抗いながら脚を踏ん張って歩を進めていた。
プリティはよりにもよってデートの日に限って何故こんなに強い風が吹くのか、少々腹立たしかった。
砂埃が目に飛び込んで来るのを避けるため、目をギュッと閉じてカレンの柔らかい手の感触だけが、彼の心をようやく支えていた。
カレンは一体どんな表情をしているのか気になり、うっすらと目を開けてみる。
少し歯を食いしばるような表情が目に入る。髪が乱れっ放しだ。何処かに落ち着くところはないだろうか。
山頂付近に雪を抱いた連山が遥かに聳え、視線を舗道に落とすとガランとした通りを大椛の枯葉が風に追われてゆく先の右手に、傾いた看板が強風に揺れている。看板の文字にはカフェとあるので、青いペンキが塗られた木製の古びた建物はどうやらコーヒーショップらしい。
「お茶でも飲もうか」
プリティはカレンに声を掛けると、そばかすの浮いた満面の微笑みが返って来た。
建物と同じ青のペンキが塗られた重いドアを二人で開いて中に入ると、コーヒーのいい香りが鼻をくすぐり、夫婦らしい年老いた男女が向かい合ってサンドウィッチを食べていた。彼らと店主との会話から、二人は地元に住む夫婦で毎朝その店にやって来るらしい。
老夫婦の姿が見える席に座り、改めて二人を眺めると、お爺さんは鼻の下に胡麻塩の髭を蓄え、金属製のカップから美味しそうにコーヒーを飲んでいる。お婆さんはサンドウィッチから皿に落ちた生ハムを指でつまんで口に放り込んだ。
「あの時は怖かったな。本当に死ぬかと思ったぜ」
お爺さんが店主に向かって言った。
「そうさなあ。まさかあんなことが起きるなんて夢にも思わなかったからな」
店主はプリティらの方を見やりながら注文が決まるのを待っていた。
プリティは一体何があったのだろうと三人の会話に興味を引かれていたが、カレンに促されてコーヒーを注文し、ピーナッツバターを塗ったトーストを半分ずつ食べることにした。
注文したものはテーブルに直ぐに揃い、店主は軽く「エンジョイ(ごゆっくり)」と言い残してカウンターの中に引っ込み、老夫婦との会話を続けた。
プリティは湯気を発している濃いコーヒーをマグカップから一口飲み、カレンに微笑んだ。
「ああ、温かい!」
コーヒーを味わった彼女の脳裏にはプリティが道すがら話してくれた先住民イロコイの話が浮かんでいた。
イロコイは先住民の言葉で『ガラガラ蛇』ということだが、東部に住む先住民の連合体のことだった。
ニューヨーク州ハウズ・ケーブというところにあるイロコイ・インディアン・ミュージアムには彼らの創世神話や男女の役割が紹介されている。
男の世界は森の中。狩猟が終われば交易へ。
女の世界は村の中。栽培するのは豆、かぼちゃ。
もひとつ大事なとうもろこし。
族長決めるの、忘れるな。
イロコイの世界で族長の任命は女性の大切な役割だという。族長は男性が圧倒的に多いが、それを選ぶのは基本的に女性だという。
男性は結婚すると妻の住むロング・ハウスというとっても大きくて広い住居に移り住む。
男性が持つ武器や衣服などを除き、ロング・ハウスも含めてイロコイ社会の全ての物は女性が所有するという典型的な母系社会だ。
イロコイの創世神話には男神と女神が登場する。
男神と女神が天空から一緒に、海を泳ぐ大海がめの背中に舞い降りた。
すると、大海がめは、あっという間に大陸になった。それが北米大陸だ。
白人がこの大陸に到着する遥か昔に彼らはこの大陸を創造したのである。
イロコイをはじめ、アメリカ先住民は北米大陸を海がめの島(タートル・アイランド)と呼ぶ。部族の創世神話には、しばしば海がめが登場する。自由に大海を泳ぎ回る海がめの姿は、新しい世界をもたらした使者として神話に織り込まれている。
「ねえ、プリティ。さっきあなた言ったでしょ? 川が笑っているって」
カレンは現実に戻り、コーヒーを口に運んでから、プリティに眼をやった。
「ああ、さっき歩いていた時に中州に大きなタワーがあったあの大きな川のことかい?」
「そうよ。川が笑うって一体どういう意味なの?」
「あの川は先住民イロコイの言葉でサスケハナっていう名前の川なんだ。『笑う川』っていう意味なんだよ。ほら、感じなかったかい? あの川、笑っていただろ」
カレンはトーストの耳を口に運び、飲み込んでから少し残念そうな表情を見せて言った。
「実はわたしね、川が笑うって面白い表現だなと思ったけど、何で川が笑うのかわからなかったのよ。そうか、そういう意味があるのね。先住の人たちは大昔から自然と共に生きて来たから、名前を付けるのが凄くうまいわね」
「この広いアメリカのほとんどの地名や自然にはサスケハナみたいに先住民の言葉が隠れているってお父さんから聞いたことがある」
「そうなの? わたしも帰ったら調べてみようっと」
「折角だから何で川が笑うっていうか確かめに行こう。一緒に水面を良く見つめてみようじゃないか。ボクの言った意味が直ぐにわかると思うよ」
二人はおしゃべりが終わると、店を出て川
の方に引き返して行った。風は嘘のように静
まっていた。
二人の目の前に再び豊かに水を湛えた川が現れた。中州の巨大なタワーの傍に展望所がある。カレンはプリティと展望所から水面を眺め渡した。
名も知らない白い羽毛の鳥が中州の草むらから飛び立って、川の端に降り立ち、長い嘴(くちばし)で水をつついたと思ったら、嘴に魚を挟んでいる。
カレンは何かヒントがないかと、水面を眺めている。
「どうだい? 川を見て何か感じないかい?」
プリティは彼女のそばかす顔に目をやった。カレンはちょっと首を傾げながら言った。
「風で水面にさざ波が立っているわね。それが太陽のせいでキラキラ輝いているわ。あっ、そうか。それを『笑う』って表現したのね。プリティの先祖は自然のあり様をよーく見て名前をつけたんだ」
カレンは水面のきらめきを眺めながら頷いた。
翌週の休日、カレンはプリティを前回立ち寄ったあのコーヒーショップに誘った。
「気に入ったのかい?」
するとカレンはこう言った。
「ほら、わたしらが座ったテーブルの窓から山頂付近にうっすら雪を抱いた山々が遠くに見えたでしょ。もう一度見たくなったの。それとね、老夫婦が仲良くコーヒーを飲んで寛いでいたじゃない。お店もとってもいい雰囲気だったし……」
「君も自然と人間が好きなんだね」
青いペンキが塗られた木製ドアを開けて中に入ると、老夫婦がこの前と同じ席に座り、向かい合ってコーヒーを飲んでいた。テーブルには、くしゃくしゃに丸めたティッシュペーパーとパン屑が転がっている。
二人は前と同じテーブルに座り、注文を済ませ、窓から連山を眺めた。その日その時間、山々には長く棚引く雲がかかっていた。
胡麻塩髭のお爺さんの声がした。
「あの時は怖かったな。本当に死ぬかと思ったよ。暫くは立ち入りも出来なかった事故現場に突然防護服を着て現れたのは何と合衆国大統領だった。何でわざわざこんな田舎までやって来たのかと思ったよ」
店主のおじさんの声がした。
「本当だな。まさかあんな酷いことが起きるなんてな。電気のエネルギー源は太陽光発電もまだまだ心許ないし、やはり原発しかないと大統領は考えていたんだろう。だから原発事故の様子を自分の目で確かめようと遠路はるばるホワイトハウスから足を運んで来たんだよ」
注文したミックスジュースを作りにおじさんがカウンターの奥に引っ込んでから、プリティは腰を浮かせ、向かいに座っているカレンの耳元で囁いた。
「ほら、今話していたあんな酷いことって何のことだかわかる?」
カレンは不審な目をプリティに向けた。
「決まっているじゃない。原発事故のことよ。わたしらが生まれる前にこの近くにある原発が大きな事故を起こしたのよ」
「原発って?」
「原子力で電気を生み出す大きな仕掛けのことよ。ほら、展望所から見たじゃない、あの大きなタワー。あれは原発を冷やす機械よ」
「へえ、知らなかったよ」
「学校で習ったじゃない」
「ボクは知らない。きっと病気で学校を休んだ時に先生が教えたんだね。でも、こないだあのタワーを見た時、何で教えてくれなかったのさ?」
「だって、当然知っているって思っていたんだもの」
プリティはこっそりと周囲を見渡した。
美味しそうにコーヒーを飲んでいるお爺さん、お婆さん、それにミックスジュースを作ってくれた店のおじさん。みんなその原発事故を体験した人たちだったんだ。それで会う度に「死ぬかと思った」などと事故の記憶を辿っているんだな。
自分が生まれ育ったところでそんな大事故が起こっていたなんて、父さんも、母さんもちっとも教えてくれなかったなあ。プリティは知っておく必要があると思った。
「カレン、あのタワーのところにもう一度行ってみたい」
「いいわよ」
ジュース代をそれぞれ支払って、二人はコーヒーショップを後にした。
川沿いに曲がりくねった道を暫く歩いていくと直ぐに巨大なタワーが姿を現した。
「あれがさっき言ってた原発なの?」
「あれはクーリングタワーっといってこの川の豊富な水を使って原発を冷やすのよ」
前に来た時と同じように、サスケハナ川の川面にはさざ波が立ち、陽光がキラキラと笑っていた。
「原発が熱くなるから冷やすのか、なるほど。流石によく知っているね」
「お父さんが原発関係の仕事をしているからね。家での会話に出て来るの」
振り向くとコーヒーショップで一緒だった老夫婦の姿が見えた。僕らに近寄ってお爺さんが尋ねる。
「君らは建屋とタワーを見に来たのかい?」
「ええ、彼がタワーを見たいっていうから……」
そう言ってカレンはプリティの方に目をやった。
「こいつが原発事故を教えてくれたから、早く避難が出来て命拾いしたんだよ」
お爺さんがタワーを眺めながらそう言うと、お婆さんも大きく頷いた。
「えっ! このタワーがですか?」
カレンが驚いた。
「うん。このタワーは見ての通り、中州で、もくもく蒸気を上げている。ところが、あの大事故の時には蒸気が止まっていたんだ。ちょうどラジオの生中継でランドクルーザーが原発の前を通り過ぎたんだ。そしたら交通情報のリポーターがそれに気づいて、放送でリポートしたんだ。これはおかしい。何か起こったのでは、という話がスタジオで広まり、消防無線や救助隊の連絡をモニターしてみたら、原発で大事故が発生したことを確認したのでラジオ局が中継車を出した。メルトダウンと言って炉心が溶ける大事故らしい。それでニュースを聞いたわれわれ住民が避難を始めたってわけさ。放射線を大量に浴びたら死んじまう。俺も婆さんも必死で原発から逃げた。出来る限り遠くにな。あの時は本当に恐ろしかったよ。だから今でもつい挨拶代わりに事故の話をしてしまうのさ」
降って湧いたように原発事故の話が目の前で始まり、プリティは呆気にとられていた。
「事故の後、原発反対運動が盛り上がったよ。こんな危険なものは要らないってね。でも、それなら電気はどうするんだってことになって、結局地元の電力を賄うため、事故を起こしてからも原発は生き残ったのさ」
お爺さんは残念そうに唇を咬んだ。
プリティはもっと話を聴きたいと思い、老夫婦の名前と連絡先を尋ね、メモしておいた。
マイク&ローズ・マーノフ。それが老夫婦の名前だった。
「コーヒーショップのマスターも体験者だから話を聴けるよ。彼の名はロッド・ネルソンだ」
マイクは親切に教えてくれたが、興奮してつい長々と喋ったせいか、かすれ声になり、首にもしこりがあると教えてくれた。お婆さんは首の辺りを庇うようにして言った。
「首のリンパ節が腫れて痛むの。何か原発事故と関係あるのかしらね」
「お医者さんに診てもらったらどうですか?」
カレンが心配そうな表情で老夫婦を見つめた。
暫くして地元の自治体が原発事故十五周年の日というのを設けて、避難訓練をするというお知らせが回って来た。お爺さんが話してくれたあの原発事故から十五年経ったのだ。
プリティの家でも家族で避難訓練に参加することになった。
「父さん、母さん。ボクが生まれる前に大きな原発事故があったそうだね。その訓練なんでしょ? 何故ボクに事故のことを教えてくれなかったのさ」
つい両親を責めるような口調になった。
父が悪いことをしたように頭を掻いた。
「お前もここで生まれ育っているわけだからこの地で起こった大事故のことはしっかりと知っておくべきだったな。まだお前が生まれる前のことだからそのままになってしまっていた。スマン。今日の訓練をきっかけに、原発のことを一緒に勉強しよう」
十五周年の当日はいざという時の避難法が紹介され、大勢の住民が訓練に参加した。
指定された集合場所までは徒歩や自転車で移動すること。集合場所から避難中継所までは避難用のバスを利用すること。やむを得ない場合以外は自家用車での避難は控えることなどの注意があった。
ラジオを聴いていたら、年月が経ち、原発事故の体験者も随分高齢になっていると報道されていた。
それから十二年の星霜が流れた。原発もその後は目立った事故も起こさず、あの大事故の記憶も次第に薄れて行っていた。
プリティもカレンも州を離れ別々の大学で学んでいたが、デートは続けていた。
夏休みにプリティはカレンと示し合わせて一緒に久しぶりに里帰りをした。
再び原発で事故が起こったのは丁度そのタイミングだった。社員全員即刻避難するようにという親会社からの緊急連絡で原発の現場は騒然としていた。
カレンの父・ジャックは悪夢の再来かと恐れ、避難訓練の要領に従って、従業員と家族に一斉に事態を知らせると共に、住民の避難誘導を開始した。
クーリングタワーを見上げると、蒸気が止まっている。周辺の地域では避難が始まっていた。臨時バスが何台も避難する住民を乗せて出発していた。カレンと母親のサラ、プリティも着の身着のままリュックを担いでバスに揺られている。隣町から出発するバスにはプリティの両親と妹の姿があった。
メルトダウンが起こり、災害の規模も甚大とラジオのニュースが伝えている。カレンはそのニュースを聴きながら、マイクとヘレンが教えてくれた最初の大事故のことを思い出していた。
サスケハナ川では魚が大量に死に、白い腹を見せて川面に浮かんでいる。清らかな流れが泥の川と化したのは、自然を司る神の怒りを買った証拠だ。その後太陽が出ても川は決して笑わなかった。川は死んでしまったのだ。人々は、口々に「世界を創造された神に対する冒涜の所業だ」と叫んだ。
更に歳月が流れ、二度の原発事故を体験した住民は避難先からさらに全米各地に親戚を頼るなどして散らばっていた。
コーヒーショップの老夫婦は二度の避難を経て亡くなっていた。プリティとカレンは二人の死因が果たして原発事故と関係あるのかどうか知りたいと思い、二人が相次いで入院し、亡くなった病院を訪ねた。治療に当たった医者には何とか会えたが、死因は個人情報であり明かせないという一点張りだった。
「何か怪しいね。調べる必要があるな」
プリティが言った。
「あの病院に伯父さんが勤めているから何とか調べてもらうわ」
カレンが言う。伯父さんは診察の間の空き時間を利用して、老夫婦を担当した医者のカルテを保管室で閲覧した。二人とも死因の欄には甲状腺がんと記入されていた。
カレンが伯父さんに尋ねたら、甲状腺がんと原発被爆には深い関係があるということだった。伯父さんはその点をプリティとカレンに説明してくれた。
「旧ソビエト・ウクライナ共和国で起こった原発事故の際、大量の放射性ヨウ素が放出され、汚染地域で小児甲状腺がんが急激に増えたんだ。放射性ヨウ素は呼吸や食べ物と一緒に体内に入ると血液を介して甲状腺に溜まる。甲状腺内で細胞が被爆してがんの原因になる。マイクとローズのケースも甲状腺のリンパ節が腫れ、がん化して肺や他の部位にも転移し、がんが広がったのが死因と考えられる」
「わたしらが知り得た範囲だけでももっと調べてみようよ」
カレンはプリティとサンフランシスコで商売しているマスターのロッドと家族に連絡を入れたが、ロッドの妻は、彼は亡くなったと告げ、死因はやはり甲状腺被ばくによるがんの転移だったことを知った。
「みんな原発事故の被爆が原因で死んでいる。トースターでパンを焼いたり、夜に明かりを灯したりして日常当たり前に使っている電気の源が事故とはいえ人を殺すなんて信じられないわ!」
カレンは無性に腹立たしかった。父親のジャックがその憎き原発から収入を得、自分もその収入で暮らしていることに大いなる矛盾を感じていた。
「お父さん、原発で働くのはお願いだからやめて! 事故が起これば、殺人に手を貸すような仕事は!」
ジャックはカレンを宥めたが、彼女はどうしても納得しなかった。
プリティは二度目の事故の際、先住民居留地から避難して来た両親それに妹と避難先で合流し、カレンの家族と一緒に隣の州に逃れ、取りあえず隣同士の借家に仮住まいしていた。カレンは父との衝突で借家を出て、アルバイトをしながら大学寮で暮らす道を選んだ。
ジャックは原発が立ち入り禁止地区になり、企業活動が困難となって如何に生計を立てるか腐心する毎日を送っていた。
地元の自治体は原発の将来に大きな不安を感じて連邦政府の潤沢な補助金を元手に原発の代替エネルギー開発の道を選んでいた。
二度にわたる大事故を起こした原発は廃炉が決まり、企業として立ち行かなくなり、
倒産した。
プリティとカレンはラジオ局を訪ね、原発事故の特別番組を制作したニュース・ディレクターに話を聴くことにした。ディレクターはボブ・フォアといい、若いが敏腕ディレクターと評判の人物で、特別番組の内容を話してくれた。
「原発の炉心が溶けるメルトダウンは起こっていないとラジオを通じて地元民に落ち着いて行動するように繰り返し呼び掛けました。地元から偶々ニューヨークに出張していたあるサラリーマンはラジオから情報を得ていましたが、うちのラジオのネット放送を聴いて落ち着きを取り戻し、帰宅を決めたという番組宛てのファクスを貰いました」
そう言ってディレクターは胸を張った。
しかし、実際には原発事故周辺住民の約四十%が緊急避難しており、後になって実際にメルトダウンが起こっていたことも明らかになった。
彼から貰ったネームカードをよく見ると、州政府の役人も兼ねており、原発事故の核心を曖昧にしたがる政府側の意見を代弁したに過ぎないことがわかった。
二人は原発事故の報道最前線にいたもう一人の人物にも会って話を聴いた。ボブ・フォアと同じAMラジオ局に勤める部長職のロイド・B・ローチ氏だ。
「世界中のマスメディアがアメリカ史上最大の原発事故を取材にやって来ましたが、殆ど報道されなかった事実があります。それは、かの原発が航空機墜落事故の可能性が充分に考えられる国際空港の直近に位置しているという厳然たる事実です」
原発は一時メルトダウンを起しながらも、事故が起こったユニット1を閉鎖したままユニット2だけの片肺で事故後約三年で再稼働され、今度はそのユニット2で大事故を引き起こしたのである。
ジャックは仮住まいの借家近くでスーパーに勤め始め、経営のノウハウを学んで自らのスーパー一号店を立ち上げた。川の再生を願って店を「スーパー・サスケハナ」と名付け、最近七号店がオープンするまでになった。
プリティ・ロックの家は父母がドリームキャッチャーなど先住民グッズを製作・販売する店を開いた。プリティも休暇には実家を手伝ったが家計を助けるため思い切って休学し、スーパー・サスケハナでも働いた。その働きぶりからジャックはプリティの人柄を知り、カレンの将来の伴侶にしたらどうかと妻のサラと話し合うまでになっていた。それにはまず娘と仲直りしなくてはならない。
ジャックはやっとの思いで娘と会い、スーパーを自営していることを告げると、カレンは納得し、父親を受け入れた。
二人はそれぞれの親に背中を押され、結婚を決めた。そして息子と娘が生まれた。
あの笑う川はその後一体どうなったのか。事故以来カレンとプリティの心にいつも引っかかって来たことだった。
廃炉が決まった原発では作業が微々たるスピードで進められようとしていた。
その記事を載せた新聞を見ると、サスケハナ川は徐々にではあるが、元の水質を回復しつつあるという一節がカレンの目に飛び込んだ。
死んだ川が息を吹き返そうとしている。
川が懸命に生き返ろうとしている。
カレンはプリティにもその記事を見せた。
プリティはその記事を読んで微笑んだ。
「僕らが最初にあのコーヒーショップを訪れた時、あの川はキラキラと太陽に輝き、笑っていた。でも、あとで聞いたら原発事故で一度あの川は死んでいたんだ。笑いを失ったんだ。お爺さんからそう聞かされた。また川が笑う日がやって来るかもしれないぞ」
あと何年かしてから一緒に川の姿をこの目で見て確認したい。でも、果たして実現するのだろうか。きっと放射線が強くて、見ることさえ無理じゃないだろうか。
そう思いつつ、川の笑う日をひたすら待った。タワー付近の除染作業も進んでいたが、サスケハナ川の記事を目にすることはなくなっていた。テレビニュースにも出て来ない。やはり生き返るのは無理だったのだろうか。
ある日、子供が学校に出かけた後で、カレンはスーパーが休みで家にいるプリティに声を掛けた。
「今度の休みに子供たちを連れて笑う川を見に行かない?」
「……でも放射線で立ち入り禁止なのじゃないのか?」
「調べたら立入りは出来るようになっているらしいわ。川を挟んだあのタワー展望所側は大丈夫みたいよ。だから一度眺めてみたいの」
「立入りが出来るんなら行ってみるか」
四人家族は車でタワーのある川沿いの展望所に向かった。原発に近づくにつれて、空き家が目立つ。草も伸び放題のままだ。昔と変わらないのはうっすらと山頂付近に雪を抱いた連山の景色くらいだ。当時でさえ古びていたコーヒーショップの建物は看板が腐り、地面で朽ち果てている。
その昔、二人で開いた青のペンキが塗られた木製の大きなドアも外れて傾いたまま時の流れに身を任せていた。
そこから直ぐ近くにあるタワーに車を走らせた。プリティは放射線に曝されないようにもう一度車の窓が完全に締まっているか確かめた。
カレンの立ち入り可能という情報は間違っていたことがわかった。タワーの周囲は展望所側も全面的に立ち入り禁止のままだった。それを示す札が強風に煽られて音を立てている。
「展望所までは行けないから、せめて車の中から眺めよう」
みんなは車窓から流れる川を眺めた。陽が差している。一時は死んだように泥水ばかりが流れていたという川面は随分と清らかさを取り戻しているようだ。
あの被爆の日から必死に生き延びようと、人々が姿を消した土地で清い流れになれる明日を信じて少しずつ息を吹き返して来た姿が確認出来た。
吹く風で川面にさざ波が起こり、陽が当たってキラキラ輝いているのがはっきりと目に映る。川が笑っている。死んだはずの川が再び息を吹き返し、笑っている。
「ほら、ご覧。川がキラキラ笑っているでしょ。自然って凄いね」
カレンはじっと川の方を見つめている子供に声を掛けた。
「ホント、笑っているね」息子が微笑む。
「うん、キラキラ、きれい!」妹が笑う。
「あっ、魚がはねた! 笑う川さん、もう二度と原発の冷却水なんかに使われないようにね!」
カレンとプリティはお互いを見つめて微笑んだ。
原発事故による被爆で命を失うことになったマイク&ローズ・マーノフ夫婦とサンフランシスコ在住のロッド・ネルソン氏の遺族および関係者はプリティとカレン夫婦のこれまでの調査結果と入院と死亡時のカルテをもとに原発事故と彼らの甲状腺がん発症との因果関係の立証を求めて全米各地に散らばっているアメリカ史上最大の原発被害者らと共に連邦政府などを相手取り集団訴訟を起こしたのはそれから半年後のことであった。
了
笑う川 安江俊明 @tyty
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