抜歯に纏わる話

「見せつけてくれちゃって、やぁね」首筋に出来た噛み傷を見たのだろう。定子さだこが腕の中で身をよじりながら呟いた。力を込めたら折れてしまいそうな華奢きゃしゃな肉体をき抱く。そんな風に言わせたくはなかったし、思わせたくもなかった。愛情なんて不確かな文句は嫌いだったが、この肉体に宿る熱が伝わればいい。だから、ちょっとだけ力を込めて抱き締める。「苦しいけれど嬉しいわ」

 定子さだこは笑いながら揶揄からかったが、首筋の傷の具合は酷いもので、わずかにひねっただけでもジクジクとしたしびれが走る。いつの間に出来た傷なのかは分からないが、誰が付けたあとなのかははっきりしている。

 妻以外にはありえない。定子さだこが知らないというのなら、そういうことなのだろう。僕の肉体に好んで触れる者は多くないし、そういったある種の当てつけめいたやり方――物言わぬ抗議が、いかにも妻の陽子ようこらしいと言えなくもない。

「あまり、僕をイジメないでくれ」と言うと、定子さだこは首を振って嫌々をする。歳頃の娘らしい素振りが嗜虐心しぎゃくしんあおり、身体の内側を熱くさせた。僕は愛人の頬にそっと口付け、代わりに両腕できつく腰を引き寄せた。既に全てが終わった後なのに、情熱は尽きるところを知らないようだった。

 


   ※        ※        ※

 

 

「おかえりなさい!」そう言って娘の和美かずみが胸の中に飛び込んできた。僕は手にぶら下げていた鞄を床に放り出し、いとけない我が子を強く抱き締めた。キャッキャっとはしゃぐ娘を一頻ひとしきり愛でた後、僕はようやくネクタイを緩めて玄関に上がった。「遅かったねえ」

 定子さだこの移り香が身体に残ってないか念入りに調べ、いでサイドテーブルに置かれた鏡で身だしなみを整えた。そうして、良き夫としての体裁をつくろっているうちに、娘の二の腕に絆創膏ばんそうこうが貼られていることに気が付いた。

和美かずみ、怪我したのかい?」僕が訊ねると和美かずみは小さく頷いた。絆創膏ばんそうこうの大きさから察するに、決して軽い傷ではないだろう。が、妻の不手際ふてぎわを責められるほど自分は立派な夫ではないことに気が付き口をつぐんだ。「痛くないかい?」

「痛くないよ。和美かずみはママと血が繋がってるから、パパみたいに痛くならないってママが言ってた」

 天真爛漫てんしんらんまんな笑みをたたえた子供の口から飛び出してきた言葉は耳を疑うような剣呑けんのんなものだった。和美かずみ陽子ようこは血が繋がっているから、僕のように傷が悪くならない――ということだろうか。もしかしたら、この絆創膏ばんそうこうの下には僕と同様に噛み傷が刻まれているのか。だとしたら、不手際ふてぎわどころの騒ぎではない。

「パパ、最近、帰ってくるの遅いね」

 ほど、妻を掴まえて怒鳴どなりつけてやろうかと考えたが、娘の無邪気な一言で怒りは急激に失われていった。これもまた、妻の物言わぬ抗議の一環なのだろうか――という疑念が脳裏にひらめいた。夫婦の間に掘られた塹壕ざんごうは深く、そこらかしこに地雷が埋められていた。

 きょとんとした顔つきで見上げる娘の髪をきながら、僕は料理にいそしんでいるだろう妻の後ろ頭に向かって、大声で帰宅した旨を告げた。が、遂に妻の返事は聞こえることはなかった。


 

   ※        ※        ※

 


 橙色だいだいいろともしびがベッドに横たわる定子さだこの寝顔を照らしている。程よく肉の付いた唇の隙間から一筋のよだれが伝っている。僕はそれを指ですくい、しばらく悩んだが舐めてみることにした。が、異常とも言える喉の渇きは癒えることはなかった。定子さだことの行為が終わった時から喉が渇いてしようがない。

 ベルニーニが手掛けた彫刻を類想させる定子さだこの安らかな寝顔を見ているうちに、僕はとある誘惑に悩まされるようになっていた。自分でも何故そのようなことを考えてしまうのか皆目かいもく分からない。

 

「この女の喉笛に噛み付いて血をすすりたい」

 

 そして、娘が思いがけず漏らした言葉が邪念と共に脳裏をぎる。血が繋がってるから痛くならない――という理屈から、僕はとある妄想に取り憑かれるようになっていた。もしかしたら、と思い立ち、僕はベットサイドに置かれた手鏡を取った。

 唇を引きらせながら犬歯を調べてみる。予想通り、上下二対の糸切歯いときりばやすりを掛けたかのように鋭く伸び、とぼしい光を受けて濡れたように輝いていた。首筋の噛み傷、肉体の異常、犬歯の発達――恐らくはそういう事なのだろう。そして、僕を変化させた者について思い当たらないこともない。

 妻以外にはありえない。だとしたら、彼女はいつから変化していたのだろう。毎日のように顔を合わせている夫婦であっても隠し事の一つや二つは互いに抱いているものである。僕が愛人と破廉恥はれんちな行為にふけっている間、彼女もまた密かに不貞を働いていたのかもしれない。きっと陽子ようこも誰かに噛み付かれたのだろう。

 そんなことを徒然つれづれと考えていると、定子さだこが小さなうめき声を漏らしながら寝返りを打った。白磁はくじ首肌デコルテに浮き上がった静脈から目が離せない。が、妻が夫に施した呪いを繰り返すつもりはない。「明日になったら」と僕は思う。「明日になったら歯を抜いてしまおう。そして、妻と娘をほうむって定子さだこと暮らすのだ」と。


                                      (了)

                                 


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泥水を啜る・クトゥルー神話掌編小説集 胤田一成 @gonchunagon

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