逆巻く宇宙の揺籃歌

 生きることに飽きている――と言うと「贅沢ぜいたくな悩みだ」と鼻白はらむ者がほとんどだ。が、《不幸》に明確な基準が設けられていない以上、それは相対的な性質を帯びてしかるべきだし、「世界にはもっと苦しんでいる人々がいる」などという文句はお門違いもはなはだしい脅迫のようなものなのである。

 数ヶ月前まで、僕はとあるオーケストラに所属するフルート奏者であった。が、不景気が祟って解散となり、わずかな金を押し付けられてお役御免やくごめんを言い渡されてしまった。仕事の斡旋あっせんを約束したオーナーも雲隠れしてしまったらしい。こうなったらどうしようもない。

 慢性的な《不幸》に疲れた結果として、僕は生きることに飽き始めたのだ。袋小路ふくろこうじに迷い込んだねずみ――それが現在の僕の姿である。壁に沿って走り回ってはみるが、その高さと厚さに絶望しない日はない。そろそろ、解放されたいと願うことは果たして罪なのだろうか?

 せみの鳴き声が五月蝿うるさい。太陽はとっぷりと暮れて久しい時間が流れているはずである。が、そんなこと構うものかと言わんばかりに森に住まう昆虫たちは悲鳴を上げて止めようとしない。

 このロッジに泊まるようになってから一週間が経とうとしている。バブル経済によって産み落とされ、そして、忘れ去られた数多くの副産物の一つ。左団扇ひだりうちわで暮らしていた時期には楽団員と頻繁ひんぱんに利用したものだが、こうしてドン底に落ちてから訪れるとは思わなかった。華々しく散りたいとは言わないが、せめて、心穏やかな眠りにつきたい。

 四十八錠の睡眠剤が胃袋の中で泡を立てて溶け始めている。どれくらい飲み込めば死ねるのか分からないから、自分の歳の数だけ服用することにした。脳髄の芯がれぼったく、触れるもの全てが薄い皮膜に覆われているみたいだ。他人の肉体を操縦しているような感覚に酔ってしまう。

「ああ、このまま死ぬのか」と呆然と考えていたら、黒樫くろかしの扉を叩く音がかすかに聞こえた。睡眠剤を四十八錠も飲んでいるはずなのに、その音は奇妙なほど明瞭めいりょうに聞こえた。頼りない足取りで玄関まで行き、思い切って扉を開いた。どうせ、露と消える命なのだから怖いものなどない。「どちら様ですか?」

 黒樫くろかしの扉の向こうに半身半獣の牧羊神であるパーンが立ち尽くしていた。あれほど騒いでいたせみたちが一斉に鳴き声を止めた。ロッジを囲む森が束の間の静寂を取り戻した。

「やあ、お邪魔させていただくよ」パーンは私の返事を待つまでもなく、コツコツとひづめを鳴らして部屋に上がり込んで来た。やがて、彼は部屋にしつらえられたソファに身体を沈めると、小脇に抱えていた革の鞄からタバコを取り出すと百円ライターで火をともした。「これは失敬、君も吸うかい?」

 僕は差し出されたパッケージからタバコを一本抜き取ると、手渡されたライターで火を着けた。銘柄はごく平凡な大衆向けの品物だった。彼は本当にギリシア出身の神様なのだろうか?

ふくろうから聞いたよ。君、自殺するんだって?」

「ああ、その通りだよ」

「勿体ないなァ――君ほど腕の良いフルート奏者は珍しいから」

「評価にあたいしない奏者だったから仕事を失ったんだ」

「そりゃ、過小評価というやつだよ。君、音楽に未練はないのか?」

「……ないさ。すっぱり諦めたよ」

「なら、何で自殺なんて真似まねをしたんだ?」

「それとこれとは関係ないよ」

「関係ないと思い込もうとしているだけじゃないか?」

「……違うね。それは全く違う」

「ふむ、それならば後悔はないわけだ」

「何でそんなことを尋ねるんだ。もう解放されたいんだ」

「君は音楽を諦めることで解放されると思い込んでいるようだ。が、それこそ全く違うのだ。君は音楽に執着している。解放とは執着を捨てることから始まるもんだ」

「そうだろうか――自分は音楽に執着しているのか?」という疑問が脳裏を過ぎったが、朦朧もうろうとした意識が考える力を根こそぎ奪ってしまったようだ。或いは、理屈を練らなければパーンの指摘を否定できない時点で間違っていたのかもしれない。

「さあ、私の手を取って――今から君を素晴らしい場所に案内しよう」

 僕は言われるままに差し出された手を握った。肉体がふわりと軽くなると同時に視界が暗転する。が、闇に馴染なじんできたのだろうか――次第に黒一色だった視野の中にうごめく物が見えてきた。また、かすかにヴィオラやクラリネットの旋律せんりつも聞こえてくるようだ。

 それは酷く陰鬱いんうつ狂態きょうたいじみたメロディで――何故だか自分も演奏しなくてはという心持ちにさせる不思議なもので――ああ、闇がうごめいている。グネグネとのたうちながら微睡まどろんでいる。


『アレを起こしてはならない。決して眠りを妨げてはならない』


 いつの間にか手にしていたフルートを唇に添えると、一心不乱に息を吹き込んでいた。フゥルルル、という音が漆黒の空間に響き渡る。闇にうごめく物の肉体がビクリと跳ねて、やがて痙攣けいれんは収まった。宇宙の中心で陰惨いんさんな演奏会は延々と続く。焦燥と不安が奏者たちの背中を焼きながら……。

 

 

                 (了)


            



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