骨壺

「お父さんはまだ帰ってこないのかしら?」布団に包まれていた母親がちょっと顔を覗かせて訊ねる。もう、幾度となく繰り返されてきた会話である。が、彼女の虫食いだらけの脳髄は多くの機能を失っている。父親が亡くなって久しい歳月が経っているが、僕はいつも通りの曖昧な解答で誤魔化ごまかした。「帰りが遅いくせに給料は少ないんだから」

 この二人は本当に愛し合っていたのかと疑問に感じない日はない。また、とろけた脳髄の奥隅にわずかに残された伴侶への思いが《怨嗟えんさ》であることにいきどおりも覚える。「けた老人の世迷言よまいごとだ」と自分に言い聞かせてきたが、それもそろそろ限界に近づいてきていた。

 愚痴を垂れ続ける母親を寝かし付けた後、すっかり伸びきってしまっただろうインスタントラーメンをすするために居間に戻った。床には足の踏み場もないほど大小のゴミ袋が散乱している。いずれ片付けなければならないと理解していながら、日々の忙しなさを言い訳にして先延ばしにしてきた。人が生活を営むべき空間とは思えない惨状だが、心の隅で人並みの暮らしを諦めかけている自分がいる。

 砂を噛むような食事を済ませるとポケットの中をまさぐり、タバコの箱を取り出した。その拍子に一枚の紙片がハラリと床に落ちた。それは懇意こんいにしている介護士から手渡された物だった。僕が生活苦にあえいでいることを知って世話をしてくれている女性なのだが、人間不信に陥って職を辞した経験を持つ自分からすれば、何かをたくらんでいるように見えて仕方がない。

 

「ここにあなたを救ってくださる方がいます。お母様を連れて行ってください。」

 

 紙面には何処どこかの住所とメッセージが走り書きされていた。母親を連れて行けというからには介護施設か何かを紹介してくれるつもりなのだろうか。「あなたを救ってくださる方がいます」という胡乱うろんな文句が気になるが、そこが彼女らしいと言えなくもない。まるで何かを信仰しているような言い様である。

 ――こんなものが役に立つとは思えない。誰かが救ってくれるなんて考えは捨てたんだ。それよりも、明日は朝一番で職業安定所に行って仕事を探すべきだ――

 しかし、そのような決意は呆気あっけなく崩れ去ることになった。母親が寝ているはずの隣室から金属を引っ掻くような叫び声が上がったからである。腹の底に溜まった泥水が煮詰まって泡をしているのを感じる。何か大きなあやまちを犯してしまう前に手を打たなくてはならない。

 

   ※          ※          ※

   

 介護士から手渡された紙片に走り書きされた住所は意外な場所を示していた。「〇〇葬儀社」と印字された看板はおびただしいまでの錆で汚れており、何と書かれているのか判然としないほど風化している。ただ、鼻腔をしたたかに打つ御香の匂いが、そこが死者を扱う施設なのだと如実にょじつに語っているようだった。

 自動車の助手席で昏々こんこんと眠っている母親の横顔は安らかなものだったが、それがかえって僕の中で膨れつつある暗い感情を刺激した。しばらくの間、逡巡しゅんじゅんしていたが決意して母親の肩を揺さぶった。昼寝を妨げられた母親は不機嫌をあらわののしってきた。僕はいつも通りの曖昧な返事で有耶無耶うやむやにしながら、足腰が弱った母親を抱き上げてアスファルトの上に立たせ、手を引きながら葬儀社の中へと導いて行った。

 こじんまりとした受付に背の曲がった老人が座っていた。ここまで来たもののどうしたら良いものか。母親の皺だらけになった小さな手を握りながら狼狽うろたえていると、老人の方が何かを察したらしくしゃがれた声で話し掛けてきた。

「何か、御用ですかな?」

 僕はポケットから件のメモを取り出して老人に差し出した。すると老人は全て合点がてんがいったように鷹揚おうように頷いて言った。

「お母様のことはお任せください。これから儀式を執り行います。お母様はあの方のお導きで病んだ肉体から解き放たれることになります」

 老人は受付から出ると建屋の奥に通じているらしい扉を開いた。僕は母親の小さくなった手を老人に預けた。母親は不安げに僕の顔を見上げたが、やがて全てを許したようなかすかな笑みを浮かべて、老人に導かれるようにして扉の奥に消えて行った。

 それから数時間後、気が付くと僕は自動車の運転席で白磁はくじの壺を抱えてむせび泣いていた。壺の中には先程まで母親だったもの――真っ白で細やかな灰が収められている。僕は浅ましくも自身が生きることを優先したのだ。

 それにしても、葬儀屋の老人が骨壺を手渡した時に扉の隙間から見えたはなんだったのだろうか。子供の背丈ほどの真っ黒な木乃伊みいら。キチキチキチという鳴き声を上げて、呆然と立ち尽くす僕を見て笑っていた。の正体は皆目見当もつかない。が、が母親を灰に変えたのだろうことは想像が着いた。

 邪悪な怪物に頼ってまで自分は生きようとした自身が情けなくてしようがなかった。骨壺に収められた灰の上に涙が降り注ぐ。葬儀屋の奥に潜む怪物の嘲笑あざわらう声が聞こえてくるようだ。キチキチキチキチという、あの声が――。

 

                          (了)


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