夢に慄く

 粘るような潮の臭いが鼻腔をしたたかに打ち、僕はようやく重たい両瞼を開けた。濡れた壁に掛けられた常夜灯じょうやとうがジリジリとかすかな音を立てている。

 僕は首を回して部屋の様子を仔細しさいに観察しようとしたが、それは無駄だとぐに理解した。額に巻かれた革のベルトがきつく食い込む。手足は重厚な樫材で作られた椅子に荒縄で縛られている。

 

 ――ああ、またこの夢か――

 

 これから行われる事は理解しているようで判然としない。薄靄うすもやが掛かったようにかすかな印象ばかりが残っている。だが、それが自身にとって凶事きょうじであることだけは確かである。僕は得体の知れない不安から声を荒らげて叫ぶ。「誰でもいいから僕を助けてくれ!」と。

 途端とたん、重苦しい空気がわずかに揺れるのを感じた。不安に駆られる僕の後ろで何者かが息を潜めて見つめていたのだ。僕は散々喚わめき立てて、助けを求めたが、そいつは一向に行動しようとしない。顔をのぞかなくとも、そいつが現状を楽しんでいることだけは不思議と伝わってきた。しばらくの後に、そいつはようやく口を開いた。

「また、お会いできましたね」耳障みみざわりな声でそいつは言う。脳髄を掻き乱すような金属質な声だったが、そいつが男性である事だけは何となく察せられた。そうだった、僕は何度も彼と会っている。だが、彼の顔はきりが掛かったようで思い出せない。ただ、不愉快な男だったことだけは覚えている。「どうして、何度もここを訪れるか分かりますか?」

 冷たい手で心臓を鷲掴わしづかみされた気分だった。どうして、僕は同じ悪夢にうなされ続けているのか。しばらくの間、金属質な声の男は僕が返事するのを辛抱強く待っていたが、やがて飽きてしまったのだろう。深い溜め息を一つくと影に溶け込むように黙ってしまった。微細びさいな空気の揺れから彼が椅子に座ったらしいことを知った。背中を焼くような不安に駆られて、僕はまたしても声を荒げずにはいられなかった。

 どれほどの時間が経ったのだろう。咽喉のどは枯れ果て、ほのかに血の味が交じり始めている。もはや、抵抗する気力も湧かないほどに疲弊ひへいしていた。ただ、拘束されているだけなのに、どうしようもない閉塞感へいそくかんが肉体をさいなんでいた。僕が無様ぶざま足掻あがく姿を見て、金属質な声の男は楽しんでいるらしい。

「そろそろ、あの方がいらっしゃる時間ですね」

 青色吐息あおいろといきあえぐ様を見ながら、金属質な声の男はポツリと言った。森閑しんかんとした部屋の中で彼の声は大きく響いた。その瞬間、僕の肉体が発条仕掛ばねじかけのようにビクリと跳ねた。これから何がやって来るか、僕の脳髄は確かに知っているらしい。だが、これも容易には思い出せそうにない。正体不明の不安は恐怖に変わりつつあった。

 ジットリと濡れた天井が薄く照らされたが、扉が閉まる重い音と共に明かりはぐに消えた。ペタペタペタ――という粘性の足音を鳴らしながら何かが階下へと降りてくる。やがて、それは僕の前にやって来るだろう。僕は両瞼を固くつむって直視しまいと努めることしかできない。

 足音が止まった。胸が悪くなるような潮の臭いが辺りに漂っている。「決して見てはいけない」と僕は自身に言い聞かせていたが、その決心は容易に崩された。

 暗がりに控えていた金属質な声の男が飛び掛かって来たからである。男は頭蓋とうがいに巻かれた革帯をつかむと乱暴に後ろ側へと引っ張った。僕の顔は無理矢理に上向きにされ、その拍子につむっていた両瞼が裏返ってしまった。

 それは灰褐色はいかっしょくの肌をした蛙を思わせる姿をしていた。常夜灯じょうやとうの光を受けて、その死人のような肌がヌラヌラと濡れている事が分かった。頭に当たる部位からは幾本もの赤い触手が伸びており、嫌らしく脈打ちながらも跳ね回っている。肉体の大きさに対して不釣り合いな小さな手には一本の鉄杭てつくいが握られていた。先端は爪状に折れ曲がっていて、漁師が屡々しばしば取り扱う「鯨鉤くじらかぎ」を彷彿ほうふつとさせた。

「これでも、思い出せませんか?」

 金属質な声の男が冷たく言い放つ。頭蓋とうがいに巻かれた革帯を手から離すと、次に後ろから覆い被さるようにして、僕の両膝を強くつかみ、ゆっくりと開かせ始めた。僕は蛙の化け物に向かって、大きく開脚するような姿を取らされた。途端とたんに嫌な想像が脳裏をぎる。

 ヒヤリとした鉄棒の先端が肉に当てられる。僕はこれから行われる苛烈かれつな拷問を想像せずにはいられなかった。遂に蛙の化け物の腕が大きく引かれた後に、鋭く突き出された――。

 

 目を覚ますと殺風景な部屋にしつらえられたベッドの上にいた。隣では裸に剥かれた恋人が安らかな寝息を立てている。僕は下腹を濡らす淫猥いんわいみつを見つめながら思う。

 

 ――あれはほうむったはずの記憶による復讐ふくしゅうだったのだな――

 

 僕はかつての恋人に嬰児えいじ堕胎だたいさせた事実を思い出していた。隣で安らかに眠り続ける女はその事を知らないはずだ。

 僕は彼女の寝顔を見つめながら考える。「いつか、この女も俺の子を孕む時がやって来るのだろうか」と。漠然とした不安が僕の背中を焼いている。まだまだ、悪夢は終わりそうにない……。

                                 

                     (了)



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