第31話 うえのくに新聞--春は終わりの始まりのやっぱり始まりの
掃除の仕事はキリがなくて、この世になにかを足す作業じゃなくて、ひたすら消す、消す、消す。
あったものを、なかったことに。
掃除なんて向いていないと思ったのに、この奇妙な清々しさに取り憑かれた私は、一年前まで自分が、寝たきりで、布団の中にずっといて、朝も夜も分からず、昼はないもので、カーテンの隙間から漏れる光にも満たないものも、拒否して、iPhoneは電源を入れなかったのに、今日は掃除機で、階段の埃をひたすら。
「もう過去のことやから、仕方ないやろ」
「終わったことやから」
飽きるほど言われた言葉が身体中を刺して、目に見えるものは確かに布団の裏だから、まぶたの裏なのだから掃除だってこんなに気持ち良いのだから間違いないと思うようにしたかったけれどそうはいかず、だったら、とノートを開いたのが一年前だった。
はじめは多くても一言しか書けなかった。
なにが書きたいか、書きたくないのかさえ分からないまま、ぽつり、ぽつり、言葉を探す。
そのうち、寝転んで書くのがしんどくなって、布団に座って書くようになった。そうしたら、腰が痛くなって、久しぶりに椅子に座り、真夜中、漫画喫茶に出かけて行った。財布に千円ちょっとしかなくて、カウンターで良いですと言って、背もたれのない椅子に座った。そして書いた。窓の外には、まだ歩いている人々がいた。それがとても安心した。私は朝まで書き続けて、気付いたらお金が足りなくて、「お金、下ろしてきます」と言った。そしてタウンワークを持って帰った。
面接、落ちて、キャンセル、受かって、ドタキャンして、きちんと行って帰ることができない自分に絶望した。簡単なことがなぜできないんだろうと、もういいかなあと、窓の下を見るけれど、怖い。とてつもなく怖い。
それでまた、書く。ほんの少しずつ、物語は、進んでいるのか、いないのか、どこを目指しているのか、いないのか。
何回目か分からないバイト先で、落ち着いた。行って、帰った。行って、帰った。そうしていたら気付いたら時間が経っていた。それは布団の中の時間とは違っていて、同時に走る紙の上のペン。
声に出すとたちまち消滅する言葉たちはけれど、ノートの中では、生きている気がした。
私はもう大人で、いい大人だった。子どもは、とっくに終わっていた。子どもだった頃のことは、果たして、ほんとうに自分の身に起こったことだろうか、そう思うくらい、記憶は、これだけは完全に不確かで間違いない。覚えていること、覚えていると思い込んでいること、忘れてしまったこと、忘れたくなかったこと、なかったことに誰よりも自分自身がしていたこと--。
子どもだった頃は、もうずいぶんとおくまで離れて、みんなそれぞれ抱えて、大人を、続きを、なぜならどんどん子どもはあたらしく、生まれる、生まれる、と書いてるそばから生まれるのであり、私はもう子どもじゃない、子どもは今日もスーパーを駆け回る、家の押し入れでひっそり隠れる、ぶたれる、そんなことが、これは、まぎれもない事実で、耐えられるわけがないのに、どうかしている。
逃げて、諦めて、いったん私は帰る。ゼロに帰る。ゼロの向こう側。ゼロの奥の奥。すみっこ。小さくなってまあるくなって、それで誰のお腹にも入らず、進むことを拒否して一ミリだって動かない。ここにいる間はどんな言葉も受け入れない、そうじゃなきゃ、この体、嫌でも止まらない秒針、どうしてくれる。
窓の外を見て怖いと思って、でも本気だったあの数秒間、いや一日、人生から一年経った。
私はノートをぱたんと閉じた。
窓の下はまだ怖いだろう。
けれど今日はまだのぞいていない下は、雪が積もっている。
ずっと探していた本。
一冊の本。
おぼろげな記憶の中の絵本は、色とりどりで、だから残酷だった。そんな本が欲しかった。誰に借りた言葉でもない本を開きたかった。この手で閉じたかった。
私はノートを裏返し、一年前、おそるおそる書き始めた一行目をひとさしゆびでなぞる
--保健室で待っていたとき、時計の針がいつもより大きく聞こえた。
左手で表紙を閉じた。
そしてそこに、「まばたき」と書いた。
【完】
まばたき yuri @watashitomoon
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