第30話 まばたき


 私がポケットから出したのは百円玉おばあちゃんにいつかもらったマッチだった。

「たまには、火遊び、してみぃ」

 そう言って百円玉おばあちゃんは「くくく」と笑った。

「火事になったらどうするんですか」

「そんなもの、渡すかいな」

「じゃあこれは、大丈夫なんですか」

「それは“気持ち用”やがな。カイロみたいなもん」

「はぁ」

 そんなやりとりを忘れていたけれど、ふと思い出して取り出す。

「ひみつきちの、ひみつ?」

 シロちゃんが言った。

「そう、ひみつのひみつ」

「の、ひみつ?」

「の、ひみつ」

「の、ひみつ」

 二人でいつまでも言い合った。

 マッチを箱にスーと優しく擦り付ける。マッチなんて使ったことがない。怖くて、ほとんど力を入れなかったのにスーと共におれんじが、ぼわあっとついた。

「わぁ」

 シロちゃんの目が光った。

「わぁ」

 私もおれんじを見つめた。

 そしてその火を、焚き火にかざした。

 百円玉おばあちゃんのいうとおり、火は燃え広がらなかった。そして、落ち葉と合体して、おれんじと、おれんじが曖昧なところと。

 二人で枝を拾ってきて更に石で囲った。

 そんなことしなくてもおれんじは逃げなかったけど--もっとおれんじが二人の味方になって、増した。

 五分か、十分か、それ以上か、手をかざして、なにも言わず、座っていた。 

 向こうのほうで、カランコロン、バケツの中の音。入ってるのはおそらく恐竜のシャンプーだから、てらてら光るにじいろが、目の前のおれんじと混ざる。

「そろそろお風呂行かなぁ」

 私はおれんじに言う。

 おれんじは、当然なにも言わないけど、シロちゃんも「なんで」と聞かない。ただ一心に、見てるおれんじの、奥のほうから、ぱちぱちと鳴る音。バケツのカランコロンという音。

「シロちゃん、お風呂行かなぁ」

 私だって行きたくないけどなー。と心で付け足しながら。

「だってさぁ」

 シロちゃんはこっちを向かず言った。

「うん」

「これさー、なくなったら、どーする?」

「なくなるっていうか、お風呂行く前に、消さな」

「あかんで」

「あかんの」

「うん、あかん」

「でもさ、シロちゃん今はあるやん、大丈夫」

「今はあるよ」

「そやろ。この今のを、覚えといたら、いいやん」

「忘れちゃうやん」

 こんなに喋ったのはいつぶりかなぁと、うえのくにの施設では話したかなぁと、思う。

「こんなに、いい感じやのに」

 シロちゃんが充血しそうなほど言いながら見るからおれんじだって、圧倒されているようだった。

「いい感じやなー。ひみつきちの、ひみつの」

 私は言う。

「ひみつの」

 とシロちゃん。

「ひみつの、ひみつのひみつの」

「ひみつの、ひ」

「終わらんやん。ほら、あと五分で行こう。はるも、ちゃんと覚えておくからな。明日、また来よう。そんでこのおれんじ、二人でつける。次はシロちゃんマッチしてな」

「でもこれ、終わっちゃうんかぁ」

「だからな、今はまだ、あるで」

「あるか」

「うん、ある。一回だけ、まばたきしてみ」

「まばたきってなに」

「まばたきは、ほら、こうやって、ぱちっ、やってみ」

「まばたきってなに」

「だからこっち見てよ、こやってな、ぱちっ」

「いやや」

「ちょっとだけやん。一瞬やで。一瞬にもならんで。一秒のジュウブンノイチノイチノ」

「なんで」

「なんでも。はるな、まばたきめっちゃ早いねん。見ててや」

 私は高速まばたきをした。世界と目の裏の暗闇がものすごい速さで入れ替わる。したのくにのおれんじ真っ暗の手前したのくにのおれ、暗闇の手前の手前のしたくのにのおれんじ……

「ほらほら、これすごいやろ。誰にも負けへん自信あるで」

 いつ披露すればいいだろう。ちょっとおかしくなって、でもシロちゃんはちっとも笑わなくて、むなしくなって、今度は片目だけでまばたき。まばたき。まばたき。

「一回だけ、やってみ、まだあるから、大丈夫やから、やってみ」

「いやや」

 おれんじだって呆れているほど繰り返して私たちはほとんど喧嘩のようになる。

「シロちゃん、たまにはまばたきしんとな、目がおかしくなるで」

「なんで」

「なんでってさ、目のさ、充血とかさ、ドライアイとかさー」

「なんで」

「だからさー、赤くなるやろ」

「なんで」

 なんてことを言っていたら私は、自分のほうが、間違っていて、いっときも目を離さないシロちゃんは、見逃さないシロちゃんは、手放さないシロちゃんはそれでいいんだって、そう思えてきて、棒で地面に絵を描いて遊んでいたら、「じゃ、いくで」シロちゃんが言ったから、あわててそっちを見る--するとシロちゃんは私の高速まばたきなんかより軽やかに、でも決意して、たった一回きりの、えいえんに訪れることのない、まばたきを、した。

「シロちゃん、まばたきした」

「まだあるわ!」

 シロちゃんが呑気に笑った。

「ほんまや、まだあるわー」

 まだ言ってる。

(シロちゃん、まばたきした)

 私は心で叫ぶ。叫ぶ。あのまばたきを、私は、忘れない。おれんじよりも、あのまばたきを、シロちゃんのきれいなまつ毛のお辞儀を、再び開かれた世界と対峙するまんまる二つを、忘れない。まばたきを。「シロちゃん、まだあったやろ」「はるちゃん、しつこいな」「なんでよ」「なんでよ」「こっちが聞いてんの」「なんで」--早くお風呂に行けよとおれんじは揺れている。

 いつまでもここにいたい、シロちゃん、一緒に、でもそれはシロちゃんの見る景色、私には私の、ひとつ限りの、そんなことを思っていると突然、うえのくには開かれて、嫌だ、まだ待って、みんなにさよならを、さよならを、言うことはできない、だってここが“うつくしい”だけの場所じゃなかったから、巻き戻しできたんだ。

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