月影とレイシィ

汐海有真(白木犀)

月影とレイシィ

 ――自由とは、美しいものなのだろうか?


 時折そんな問いを、虚空に向かって投げ掛けてみる。当然答えは返ってこないし、自分で答えを出すこともできない。


 気付いたときには、俺は奴隷だった。俺にとって「おかあさん」や「おとうさん」は、物語の中で語られる空想の存在で、いるのは主人のエニガー様と、エニガー様に仕えている数多の使用人だけだった。


 俺の仕事は、エニガー様に抱かれること、ただそれだけだった。幼い頃はよく意味がわかっていなかったその行為も、書物によってある程度の知識が備わった今は、考えるだけで心をいたぶられているような、苦しいものに変貌していた。


 鏡で、自分の姿を見つめたときがある。頭から生えた獣に似た耳、さらりと伸びた長い黒髪、青空を閉じ込めたように澄んだ瞳、ふっくらとした桜色の唇。きっと自分は綺麗な容貌をしているのだろうと、思う。そう思う度に、胸が締め付けられる。もっと、もっと俺が、醜ければ。


 女らしいとされる一人称や口調を使うことに、あるときから途方もない嫌悪感を抱いてしまうようになった。乱雑な言葉を使うことで、エニガー様が俺を捨てることを夢見た。でも、それは叶うことはなかった。


 ナイフで頬を切ろうとしたことがある。キッチンに赴き、銀色の刃を顔に当てて、ゆっくりと呼吸を繰り返した。冷たい金属の温度に、背筋がぞくりとした。でも、いつまで経っても赤色の線を走らせることができず、やがて一人の使用人に見つかった。俺は、狭い部屋に閉じ込められるようになった。抱かれるときだけ、エニガー様の寝室に呼ばれた。


 小さな部屋の小さな窓から見える夜空を眺めていると、どうしようもない哀情に支配されるときがあった。浮かんでいるほの白い月に、手を伸ばした。届く訳などなくて、でも手を下ろすことが、できなかった。


 ――自由とは、美しいものなのだろうか?


 また、問いかける。わからなかった。自分はこれからずっと、エニガー様に支配されながら、生きていくのだろう。過去に自由だったことがなくて、今も自由ではなくて、自由になる未来も見えなくて、そんな自分が、その答えを見つけられるはずなどなかった。


 ◯


 過度に装飾された寝室で、俺は下着姿になりながら、ベッドに横たわっていた。


 エニガー様の脂ぎった顔が、目の前にあった。禿げかかった金色の髪は、汗によって乱れていた。俺は目を合わせないようにしながら、柔らかな布団に右手で爪を立てた。


 彼の手が自分の身体に触れる度に、自分が少しずつ、少しずつ、殺されていくような心地がした。透明なナイフで、俺の本当に大切な何かを、ゆっくりと、削り取られているようだった。それが全てなくなってしまったとき、俺は死んでしまうのかもしれなかった。


 そっと、目を閉ざした。何か楽しいことを考えようと思った。でも、楽しいことって何だろう? それすら見つけることのできない自分が、ひどく愚かに感じられた。


 そのとき、エニガー様の叫び声がした。


 ぽたぽたと、何かが自分の顔に降り注がれているのを感じた。俺は驚いて、目を開けた。


 銀色の髪をした男の人が、俺のことを見ていた。雨が降り出しそうな曇天のような、ダークグレーの瞳。綺麗な色だと、思った。


 男の人の黒い衣服には、濃い染みができていた。俺はようやく、上体を起こす。自分の隣に横たわっている、首と脇腹から大量の血を流しているエニガー様を、どこか呆然と見つめた。ふと右手で濡れた顔を拭うと、鮮やかな赤さをした液体が付着して、息を呑んだ。


「ねえ、君」


 男の人の声は、男性にしては少しかん高くて、不思議な音をしていた。


「君が、エニガー=トリティヒルに所有されていた奴隷で、間違いないよね?」


 その問いに、俺はゆっくりと、頷いた。

 彼は口角をつり上げて、楽しそうに微笑んだ。


「おっけ。ちょっと失礼するね」


 そう言うと、男の人は易々と俺の身体を抱きかかえた。それから窓を開けて、飛び降りた。俺の視界に、濃い夜の空が広がった。三階の高さだったというのに、彼はいとも簡単に着地して、鼻歌をうたいながら走り出した。


 背の高い鉄門を飛び越えて、「よっと」と声を零しながら、彼は再び駆ける。視界を、葉の落ちた樹々が流れていく。身体に夜風が触れて寒かった。でもそんなことすら気にならないくらい、ぼんやりとした気持ちに満たされていた。ふと、自分の頬をつねってみる。痛いことは多分、夢でないことの証明だった。


 男の人は幾らか走り続けたあとで、ようやく速度を緩める。近くにあった樹に寄り掛かって、ゆっくりと息を吐きながら、俺のことを下ろした。


「はあああ、まじで疲れた……あ、そうだ」


 彼は何かを思い出したように、俺のことを見る。彼は着ていた真っ黒のコートを脱ぐと、ばさっと俺の方に放り投げた。俺はその行動の意味がわからなくて、何度か瞬きを繰り返した。


「着なよ。下着姿じゃ寒いでしょ? それに僕の目にも毒」


 彼はそう言って、楽しそうに微笑んだ。ああ、優しくされたのだと、ようやく理解した。恐る恐る、袖を通した。真っ黒なコートはぶかぶかで、しかも血の匂いがして、でもとても……暖かかった。


「ところで君、名前何て言うの?」


 俺は彼を見上げながら、のろのろと口を開いた。


「……レイシィ」

「ふうん、レイシィね。よろしく、僕はノエル。まあ偽名なんだけど」


 くくく、と彼――ノエルさんは笑った。銀色の髪は暗い森の中でも、微かに煌めいて見えた。


「貴方は……何者、なんだ」


 俺の問いに、ノエルさんはほのかに首を傾げてから、口を開いた。


「殺し屋」


 彼はそう言うと、愉快そうに目を細めた。


「正確には、奴隷解放組織の実行班かな。君は知らないかもだけど、この国に蔓延っている奴隷制度に対して否定的な輩は、一定数存在してるんだよ。そういう物好きが集まってできた組織のうち一つに、僕は所属してる。こんな感じの説明でいい?」


「……うん」


 俺の首肯に、ノエルさんは満足げに、大きく伸びをした。


「ところでさ」


 ノエルさんは少し屈んで、俺と視線の高さを揃えた。


「この後どうする?」


 その質問の意味が理解できなくて、俺は困ったように、視線を彷徨うろつかせた。


「……どういうこと?」

「いや、言葉通りの意味だけど。レイシィは、なんかやりたいこととかない?」


「やりたい、こと」

「そ。……もう君は、奴隷じゃないんだ。要は、自由なんだよ。それを記念して、なんか行きたいとことか食べたいものとかあったら、付き合いますよーってこと。あ、でも今ド深夜だから、明日以降ね?」


 ノエルさんはそう言って、楽しそうに笑った。


 ――自由なんだよ。


 その言葉が、自分の心に深く突き刺さっているのに、気付いた。


 視界が段々と滲んでいく。涸れてしまったと思った涙がぼろぼろと溢れて、止まらなくなって、そのことに驚いている自分が、いた。


「あーあー、泣かないでよ。はい、ハンカチ」


 ノエルさんが差し出したハンカチを、嗚咽の合間に感謝を述べながら受け取る。自分の両目に押し当てると、ほのかな石鹸の香りが鼻をくすぐった。


 自由。


 ずっと手に入らないと思っていて、それでも確かな憧憬を向けることをやめられなかったそれを、俺は今手にしたのか。


 ……ああ、美しかった。

 美しかったよ。


 俺はハンカチを持った手を下ろして、ノエルさんに向けて泣きながら微笑んだ。


 夜空に浮かぶ月が、彼の瞳に淡く映り込んでいた。

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月影とレイシィ 汐海有真(白木犀) @tea_olive

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