ありさ

小説さん

第1話(完結)

愛してるって言ったら本当になるのよ。本当なの。

 ありさは言った。血まみれの腕を差し出しながら、虚空をさまよう魚のように瞳をギョロギョロと泳がせて。

 愛してるって言ってよ。愛して無くても、愛してるって言って。

 かみそりの刃が、傷だらけの腕にやんわりと押し付けられる。皮膚がたわみ、しばらくするとはじけたように血が盛り上がってくる。オレはやめろと言うべきだった。そう、言うべきだった。

 愛してるって言って、愛してるって言って。

 一筋の光すらない、ありさの瞳は泥の闇に飲み込まれてしまったのだ。ぼろぼろの白いワンピースが血に犯され桃色と紅色のまだら模様になってゆく。びちゃびちゃと無遠慮な音を立てて、ありさの素足が自らの血溜まりを踏みつける。

 愛してるって言って。愛してるって言ってよ。

 オレは右手を上げた。そして振り下ろした。その右手はありさのちょうど首辺りに命中した。がぼ、と、ありさの喉元が奇妙な音を立てる。ありさの首から上が、床に落ちた。きれいだった。長い黒髪が血で濡らされてゆく。ビクビクと、俺の目の前でありさの胴体が痙攣する。そして――倒れていった。


 オレは目を保護するゴーグルのせいで、ぬれた瞳をぬぐうことも出来なかった。高性能の酸素マスクの下で、流れる鼻水をふき取ることも出来なかった。床に転がり、双眸を見開いたまま、かすかに動くありさの首を、抱きしめてやることも、出来なかった。

『終わったか』

 耳元で声がした。先輩の声だ。オレは、『終わりました』と簡潔に答えた。

『血液を採取しろ』

『了解しました』

 オレは胸元のカプセルをありさの流したまだぬくもりの残る血液に浸した。ほんの少し吸収させると、カプセル設置装置にひねり付ける。下部の赤いランプが点る。

『赤です……先輩』

『やはりな』

 先輩の声はしかし、落胆していた。何かを期待していたのかもしれない。まだ、どこかに希望があると、信じていたのかもしれない。

『……よくやった、健一』先輩はやわらかくそう言った。『十分以内に集合地点に戻れ。対策会議を開く』

『了解』ぷつり、と回線の切れる音がした。

 オレは部屋を、振り返った。夜が迫っている。窓から差し込む夕焼けがまるで人形のように横たわる、ありさの身体を照らしている。

 愛してるって言って。愛してるって言って。

 鮮血のような強烈な色味で耳元に残る声がある。防護マスクのせいで、オレの鼓膜はありさの声をひろったり出来ないはずなのに。


 愛してるって言って。愛してるって言って。

 その唇は、喉は、声は、瞳は、身体は、すべて現していた。ありさが現したかった感情をそのままに。

「さようなら、ありさ」オレは声に乗せてそう言った。そして部屋を後にした。


 二XX二年、人類は未曾有の伝染病に冒された。アメリカのロサンゼルスを発祥の地として、二XX三年四月には日本にも上陸した。その伝染病は、人の脳を破壊していった。人は感情的になり、理性で抑えていた欲望を放出させる。世界は犯罪であふれ、統治も不可能な情勢になっていった。そして、パンデミックの末、脳の萎縮が高速で進行し狂いながら死んでゆく人々が増えた。そして収束したかに見えた第二波の頃に、ネオ・ヴィクテムと呼ばれる症状を持つ人々が出没した。ウィルスがよりどころとなる人間を生かすべく、脳を狂わせながらもゾンビのように生かし始めたのだ。

 病をかろうじて免れた人々は、ネオ・ヴィクテムを消滅させるプロジェクトを立ち上げた。ネオ・ヴィクテムはウィルスの温床であり、危険であると判断された。そして、オレはそれに選ばれたのだ。


 抗菌室に入り、徹底的に消毒されから、部屋に入る。すでに何百回と繰り返されている習慣のうちの一つだった。扉を開けると、先輩が椅子に座り待ち構えている。プロジェクトに抜擢された日本チームの全員がその場にそろっている。

「健一、早速だが、報告をしてくれないか」

 先輩が言った。日本プロジェクトチームの司令官だ。華奢な身体のまだ若い女性であることに、世界中が驚いていたが、今では誰もがその実力を認める立派な指導者である。

「はい。本日午後五時三十五分二十二秒、東京都千代田区高島平、平塚氏宅で、ネオ・ヴィクテム、平塚ありさと接触をいたしました。研究どおり、生前強烈に前頭葉に残った言葉のみを繰り返し、自傷を繰り返していました。右手装備の新型破裂式刀で首を落とし、血液を採取いたしました。結果は陽性です」

「つまり、千代田区にもネオ・ヴィクテムが確認されたのですね」誰かが言った。

「うむ」先輩がうなづいた。「平塚健一は身を挺して、自身の生家にネオ・ヴィクテムが居るという可能性を確認しに行ったのだ。このたび殺傷したのは、当人の妹にあたる。この勇気、みなも見習うがよい」


 ――さようなら、ありさ。もう、涙は流れなかった。

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