鬼の真っ赤な死にざま

血の来訪

 来訪は唐突だった。やけに風の強い日だった。扉を強く叩く音が聞こえた。

 遠のいていた意識が呼び戻された。布団にもぐったまま、手探りで見つけ出した小瓶を握ると、中に注がれた真っ赤な液体を一気に飲み干した。口の中に鉄の風味が流れ込んできた。

 扉はなおも音を奏でる。雑音という最悪なモーニングコールを。

 一度目は無視した。最初は何かがぶつかる音だと思った。風も強いみたいだし、飛ばされてきた何かがたまたまうちの扉にクリーンヒットしているのだと思った。未だに僕の手を引く睡魔に誘われるようにゆっくりと目を閉じた。

 二度目でようやく体を起こした。どうやら気のせいではないらしい。それでも、もうもう一度布団に潜り込んだ。昨日は遅くまで忙しかったのだ。さっき床についたばかりだというのに、なんだってこんな時間の来訪に耳を傾けてやらなければいけないのか。

 三度目が響くころには、既に扉の前にいた。もう我慢の限界だった。

 取っ手にかけた手は脱力していた。静かに扉は開かれる。わずかばかりの隙間に食い入るように流れ込む猛々しい勢いの風に身震いしながら。向こうの世界の眩しさに目が眩みながら、極めてゆっくりと、僕と彼らを線引きする壁を。

「ようやく開いたっ……!」

 まず耳に届いたのは嬉しそうに跳ねる高い声音だった。芯の通っていながら人を魅了する透き通った声は僕でなければ心を揺らがせる力を持っていた。けれど僕にはその魅力が伝わることはなかった。

「あの、こんな時間からすいませ──!?」

 人一人が辛うじて入れるかというくらいの隙間ができた途端、扉の向こうで待っていた我慢しらずの来客は、我慢の限界だと言わんばかりに勢いよく体を挟み込んできた。透明性の高い声が何か言い終わるより先に、ガシャン、と金属の音が響いた。

「……当然、これかけてるから。」

 呆れた目線を扉の間から送る。来客は焦った勢いで、防犯用のチェーンに顔をぶつけていた。赤くなった鼻先を押さえながら目に涙を浮かべているようだった。眼鏡が無事だったのは幸いだろう。

 再び扉を閉めようとすると、違和感を覚えた。足元に目をやると、薄汚れた革靴が扉の開閉を阻止していた。ばっと顔を挙げると眼鏡の少女は鼻先を赤らめたまま、にやりとしたり顔を浮かべていた。

 思わずため息が漏れた。眠気も一緒に抜けていくようだった。

「全く、今何時だと思ってんの。見たところまだ高校生とかそこらだろう。こんな時間に良い子が出歩いてるってのは良くないぜ。ここにいるといろいろマズイし、早く帰りなさい。」

 やれやれ、と諭すような口調で手をヒラヒラさせる。まだ眠気が残っているのか軽く欠伸が出た。できる大人として最大限振るまったつもりだった。しかし、眼鏡の奥には困惑の色が見えた。まだ鼻先はほのかに赤かった。

「いえ、あの、私は良い子ではないですし、その……ええと……」

 言葉を詰まらせる彼女を、今度は僕が涙を浮かべながらきょとんとした顔で眺める。彼女は歯切れの悪そうに口をもごもごさせると、前髪を弄りながら小さく口を開いた。

「今、まだ八時ですけど。朝の……」

 きゅっと苦笑いを浮かべる彼女。すっとポケットから端末を取り出す。確かに時刻は彼女の言うとおり、八時を少し過ぎたところだった。僕はそれきり、しばらく黙ってしまった。このとてつもない勘違いも何回目だろう。これをするたび、僕には外の世界がいっそう眩しく感じるのだった。




「……時間なんて関係ないよ。」

 バツの悪い表情を隠す。

「えー、でもさっき……」

「関係ないったら関係ないのさ。」

 途中だった少女の言葉を思い切り遮った。不満げな表情を浮かべてこっちを見られても、僕にはどうすることもできやしない。

「つーかきみ、どこの誰だい。少なくともこんな朝早くに押しかけてくるような知り合い、僕は知らないぜ。」

「あ、ずるい。」

「……何が。」

「なんでもっ。」

 ふい、と目を背けた。彼女の純真な瞳から逃げた。

「それより、自己紹介をさせてください。私は――」

「いーや、いい。聞かせてくれなくて構わない。」

「えー、またぁ!? 今度は自分から聞いたくせに!?」

 玄関先でジタバタする女の子。まだ中に招待してもいないのにこの暴れよう、知り合いでもないのに豪胆極まりない。いくら今が早い時間だといっても、さすがにこんな朝っぱらから騒がれるのも迷惑である。人の目もあるし。

「いいじゃないですかっ、お隣、誰も住んでないんでしょう?」

「なんで知ってるんだよ。」

「ふふん、さっきお隣にもインターホン鳴らしましたから!」

「それ、自慢げに語ることじゃないぜ……第一、居留守使われてるかもとは思わなかったのかい……」

 少女は納得したように、ぽんと手を叩いた。どこまでも楽観的な考えに、僕はフリーズしつつも、またなんとなく眩しさを感じた。ここまでやって来たのだから、当然招待してくれるだろうという考えもなんとなく理解できたような気がする。

「だからって騒いでいいってことにはならないだろう。」

「近所迷惑にはならないんですし、問題ないじゃないですか!」

「こっちは大迷惑なんだよ、言ってみれば現地迷惑なんだ。」

 怒号をいくら浴びせても引き返す素振りを見せない少女。それどころか僕の拒絶が呼び水になったのか、逆に扉の隙間に指まで入れて、彼女はムキになってしまったようだった。

 とっくに我慢の限界はきていた。静寂な眠りを妨げられた時点で、堪忍袋など破れていた。今まで扉を開けたままにしていたのは単なる温情だった。帰れとは言うものの、朝早くからやってきた来客に対してのせめてもの思いやりだった。

 しばしの沈黙が流れたのち、やんわりと扉は閉まり始めた。こちらの顔色を伺っていた少女はその行動にぎょっとした。急いで隙間に入れた指に力を入れて思い切り扉を引っ張り始めた。引く力と引く力のぶつかり合いだった。少女の顔が真っ赤に染まる。対して僕は取っ手を握ればいいのに、と思いながらも、涼しい顔をして、片手でその取っ手を引いていた。

 ぐぐ。と次第に外の力が弱くなっていく。少しずつ外の明かりが遮られていく。少女はぎょっとしながらも、指と足を退けようとしなかった。

「い、いいんですかっ。このまま閉めちゃうと、私の指と足がっ、犠牲に、犠牲に、なっちゃいますよっ。いたいけな女子高生を痛めつけちゃいますよっ、良心ってやつが痛むことになっちゃいますよっ!」

 頬を染めながら必死で全身に力を込め続ける少女は、性懲りもなくまたしたり顔を浮かべた。吊り上がった口角。彼女の考えが透けて見えるようだった。

「悪いね。生憎、良心なんてものは持ち合わせていないんだ。」

 思惑とは裏腹に冷たい言葉を吐きながら、勢いよく扉を引っ張る。足も指もへばりついたままで、このまま閉め切ってしまえば痛いで済むわけがない。最悪、指は骨と肉とさよならすることになるはずだ。覚悟のときはのんびり訪れる。開いていた扉が閉まる。実に一瞬の出来事だろうが、それでも彼女にとってはその刹那が長く感じられただろう。意地を張り続けるか、折れてさっさと踵を返すか。僕は当然、後者に賭けた。

 完全に光が途切れる寸前、重たい扉はぴたりと動きを止めた。指と骨はさよならしていなかった。

 少女は決死の覚悟で目を瞑っていた。頬に涙が伝っていた。悲鳴一つあげずにいた。

 僕はちょいちょい、と手を払って指を抜かせると、チェーンを外して改めて扉を開いた。もう一度合わせた顔は決壊しそうになっていた。溜まっていた涙は今にも溢れそうだった。

「いいぜ、入りな。歓迎するぜ。」

 僕はすっかり彼女に舌を巻いてしまった。だから不本意ながら、仕方なくとはいえ、自分の部屋への侵入を許すことになってしまったのだった。


 自室は実にシンプルな光景だった。薄い黒の壁紙に、幾何学模様のフローリング。中央にはノートパソコンが置かれた一人用の机と、少し脚の高い高級感のあるソファ。テレビなんてものはなかった。隅に置かれた名も知らぬ観葉植物が唯一の色彩だったかもしれない。

 少女はなんの面白みもない空間を呆然と見つめていたかと思えば、はっとして一言「お邪魔します」と言って礼をした。脱いだ靴は二足、きちんと揃えられていた。

 少女はふちのない眼鏡を整えながら、年齢に似合わぬ大人びたショートの髪をなびかせていた。真っ黒で艶やかだった。それでいて、真っ白な純粋さを感じた。

 コートを脱ぐ彼女を見下ろしながらソファに座るように促すと、そそくさとキッチンへ向かった。

 リビングとは対照的に、キッチンには彩りがあった。赤と黒のシックな感じの電子レンジ。液晶画面が表示される冷蔵庫。電気が主流になり始めた今でも、我が家のコンロはガスがメインだった。引き出しからティーパックを取り出し、電気ポットの電源を点ける。

「ちょっと待ってな。すぐに紅茶を淹れるから。」

「いえ、あのお気遣いなく……?」

 さっきまでの対応との変わりように彼女はまだ呆気に取られていた。あれだけ徹底的に、暴力を使ってまで追い返そうとした相手が自分に茶をふるまおうとしているのだから、呑み込めないのも無理はない。

 お気に入りのアンティーク調のカップに紅茶を注ぐと、小さじ一杯くらいのはちみつを溶かしてから彼女の前に置いた。

「で、今日はいったいどういった用件で?」

 椅子を適当に引っ張り出してくると、彼女に向かい合うようにして腰かけた。

「あの……噂で聞いたんですけど、ここって、その、お祓いとかしてくれるって……」

 少女は両手でカップを握る。湯気がほんのり立ち込めて、彼女の顔をわからなくした。きっとかけている眼鏡が曇ったからだろう。けれど持つ手にはぐっと力が入って、心なしか震えているようにも見えた。

「まあまあ、リラックスリラックス。それでも飲んで、まずはきみの名前と、年齢を教えてちょうだいな。」

 今まで弱々しく潤んでいた少女が、怪訝な瞳をこちらに向けた。

「……なんだよ。変なものは入ってないぜ。」

「いや、その。ちなみにここって、情報管理は徹底されてますか? でないと個人情報を教えるのは、ちょっと……」

「勝手に押しかけて、悩みを解決してほしいって言われて、けど必要な情報は教えたくありませんって。きみ、なかなか肝が据わってるな。」

「それほどでも……」

「……今すぐ帰るかい。」

不破透子ふわとうこ、十六歳です! 住所は……」

「言わなくていいよ。名前と年齢がわかればそれでいい。」

 耳にしたことを手際よくキーボードに打ち込んでいく。透子はテキパキとした手の動きを感心するように見ていた。時折、後ろに目をやって何かを気にしているそぶりを見せた。

「で、お祓いって?」

 全て打ち終えると、目を画面から彼女に移す。透子ははっとしてこちらを向き直ると、紅茶を一口啜ってふーっと息を吐いてから、カップを音一つ立てることなくソーサーの上に置いた。

「その前に、教えてほしいことがあります。」

やけに真剣な眼を向けられて、少しだけたじろいだ。何か含みを感じた。

「なんだい、お祓いの仕方なら、まだなんとも……」

「あなたの名前です。」

「……名前?」

「はい。私にだけ名乗らせて自分は名乗らないって、不公平な気がします。それはよくありません。二人しかいないのだから、なおさら公平にしておくべきだと思います。」

不安の中に隠れていたきっちりとした口調。然とした姿勢と目線。あまりにも筋の通った言い分に僕は返す言葉もなかった。僕自身が確かにそうだと頷いてしまった。こうなればもう、言葉を返すのは野暮だった。

「僕は奏音かなね。それ以上でもそれ以下でもない男だよ。」

色の抜けた髪をなびかせながら、吐き捨てるように言った。思えば、自分から名を名乗る行為は記憶に新しかった。だからこそ、それはもう僕を示す記号ですらなかった。

「奏音さん、ですか。そうですか。」

彼女の表情はわからなかった。何かを噛み締めているようだった。僕の名前に違和感を覚えたのかもしれなかった。男らしくない名前だと唾棄しているのかもしれなかった。僕の中にはそれを追求したい、やはり野暮な心があったけれど、あえて何も言わなかった。彼女とは今回だけの関係だと、そう思った。

「……実は私、呪われてるかも、しれないんです。」

 笑えない冗談だと、笑い飛ばすこともできた。聞かなかったふりをすることもできた。そうしなかったのは、眼鏡の向こう側にあった眼差しが酷く真っすぐだったからではない。心の興味がゆっくりと傾いていくのが自分でわかった。

「ふうん。で、心当たりは?」

「え?」

 淡々と言葉を送る。

「呪われてるかもしれないんだろう? だったら呪いをかけた相手がいるはずだ。そういうのに心当たりはないのかい?」

「それが……」

 またもや、彼女は言葉を詰まらせた。前髪をクルクル弄りながら、薄ら笑いを浮かべて。言いにくいことも確かにあるだろうし、話したくないことを隠したくなる気持ちもわからなくはない。けれど、壁に突き当たるたびに足踏みをされては話が進まない。

「それが?」

「……ある日突然、仲の良かった子がみんな具合悪くなったんです。」

 目が泳いでいた。声も小さかった。

「それだけだと、単なる集団感染の疑いで終わる話だ。けれど、そうではないと?」

 少女は俯きつつもゆっくりと頷いた。

「友達みんな、体には何の不調もないって、お医者さんから……精神的なものから来ているかもしれないって。でも、休む前の日まで、なんともなかったのにっ。しかも、一週間以上休んでて。私、お見舞いに行ったんです。そしたら、その子が言うんです。『私は呪われた』って。」

「……そりゃまたずいぶん唐突な告白だね。でも、本当に精神的なものが原因の病気って可能性も捨てきれないぜ。」

「そんなわけっ!!!」

 か細かった彼女はいきなり声を荒げて、ばっと立ち上がった。顔は真っ赤だった。しばらくそのまま立ち尽くした透子を呆然と眺めていると、消え入るような声で「ごめんなさい」と呟いて、力なくソファに座り込んだ。水死体を見ているようだった。

「……聞いたんです。どんな症状なのか。苦しいのか、痛いのか、辛いのか、しんどいのか。そしたらあの子、『全部だ』って。急に腕とか足が引っ張られている感覚がするって。おなかを強く押されている気がするって。布団で寝てたら、溺れてるみたいに苦しくなって、誰かに体を触られているかもしれないって。でも、自分しか部屋にいないって。」

 ただ黙って聞いていた。手も動かしていなかった。彼女の語り口に、みるみる熱がこもっているのがわかった。

「で、そのお友達の呪いを解いてほしいってこと?」

 椅子に深く腰掛けながら紅茶を一杯、喉に流し込んでから眼鏡の奥を見た。やはり瞳は潤んでいた。僕の大方の予想からくる発言を受けて、彼女は小さく首を振った。その行動に僕は驚きを隠せなかった。透子は確かに首を振った。繰り返し振った。

「解いてほしいのは、です。」

 僕は呆気にとられた。脳が一瞬、理解を拒んだ。今まで彼女から語られたものが、ハリボテのように感じた。

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