第五話(前)
高い空には雲一つない。
美観のために植えられた街路樹や背の高い生垣は緑に萌え、紅葉も落葉もまだ遠いと涼風に笑う。朝晩の冷え込みを知らない昼下がりは、そうして夏の顔をしていた。
都心のただなかにあるにもかかわらず、自然豊かな街並みはいつ訪れても異世界のようだ。
実際、異世界なのだろう。周囲を高い塀に囲まれ、一階をガレージにした高床式の住宅郡はその一つ一つが城めいている。
そのうちの一城のインターホンを、織葉進作は押した。脇には『東雲』と彫りこまれた大理石の表札がある。
そこは、不動産を持て余した資産家の夫婦が末息子に大切なものを納めさせるために贈った城塞だ。
そして今は姉――
歩の子供の頃の口癖は「家が欲しい」だった。
誕生日やクリスマスに何が欲しいかと聞かれれば、彼女はそう答えてよく二人を引き取った親族を曇らせた。姉が中学を卒業してすぐ、二人で移り住んだアパートで夜な夜な隣家から馴染みのない外国語が聞こえたときも、成長期でぐんと背が伸びた弟のために広さも家賃も一段上のアパートに引っ越したときも。
覚えているかぎり、姉はどこに移っても必ず「家が欲しい」と言っていた気がする。
そんな姉を、弟は長らく理解しがたく思っていた。
たしかに姉弟が暮らした家は、壁に画鋲ひとつ差すこともままならない賃貸ばかりだった。だが家としての機能に画鋲を差せるかは重要ではない。重要なのは雨風を凌いで夜を越せること。それができるなら、所有しているかどうかも関係ない。むしろこのご時世に持ち家なんてデメリットの方が多いだろう――と、少なくとも弟はそう思っていた。
その考えが改まったのは、姉の口癖がぱたりと止んだときだった。
夫となる男の横で、姉が幸せそうに笑っていたとき。
織葉は、彼女が本当に欲しがっていたものは『安心』だったのだと理解した。
疲れたときに自分の全てを預けて寄りかかり、それを受け入れてくれる場所。どんなに遠くへ出かけても、最後には必ず戻ってくる場所。そんなものが存在するという根拠のない確信。――大半の子供が最初から当たり前に持っているものを、『家』という言葉で表現していただけ。
思い返してみれば、自分もまたそうだった。
親族の家を出て、家族で暮らそうという姉の誘いに乗ったこと。中学を卒業したらすぐに働くつもりが、気付けば結局姉の勧めどおり大学まで進学し、一般的な商社に就職を決めていたこと。
いつだって人と違う生き方をすることが不安だったから、安心を求めてきた。
――だから、そのインターホンをもう一度押すことにも躊躇いはないはずなのだ。
姉はこの家が織葉にとっても我が家であるように招く。義兄も温かく迎え入れてくれる。ここには安心がある。
内と外を入念に隔てる造りで護るに相応しい、何よりも価値のある『安心』。
ただ織葉は、その外側に立っている。
もう一度試して、やはり反応がなければ帰ればいい。そう思うすぐそばで、このまま立ち去ってしまおうという考えが鎌首をもたげる。そうしたことは既にもう何度もあったのだから。
だがその日、織葉の左手には紙袋が下がっていた。
人に渡す物として食べ物を選ぶときは、なるべく保存が利くものを選ぶ。どのみち姉には否が応でも会う機会がある。日を改めてはいけない理由はない。ないのだが――。
見えない壁と妙な使命感の板挟みで動けない男の耳を、不意に軽やかな音が叩いた。
どこか懐かしく、頭の裏を刺す――ピアノの音。
弾かれたように織葉は顔を上げた。
「さくちゃんおじさん!」
極度に集中した聴覚が次に拾ったのは、弾むような明るい声だった。
油断しきった視覚に飛び込んでくる、玄関前のなだらかな階段を駆け下りる声の主の姿。子鹿のような足が段を蹴るたび、お団子髪がぴょこぴょこと小動物の耳めいて動く。
少女は目の前までやってくると、躊躇いなく二人を隔てていた柵を開けた。
「おかえりなさい!」
外側にいた男は一瞬面食らう。
「暑かったでしょう? ほら、早く入って!」
疑問も返答も、どんな反応も許されず――半端な場所で止まっていた右手が小さな両手に捕らえられてしまえば、織葉はもう見えない壁の実在を否定せずにはいられなかった。
「お母さんに聞いたよー。今週は出張だったんでしょ」
安心を家に例えるなら、そこに生まれる子供は何とするのだろう。
うんと年上の大人である叔父を面食らわせたことがよほど嬉しかったのか、ふふんと得意げに笑う彼女を見ていると、そんな問いが浮かぶ。
「でもね、どこに行ったかまでは聞いてないんだ。どこに行ったの? また外国?」
「いや、国内だ。四国に行ってきた」
「四国? ええっと、四国って海に囲まれてるところ? 船乗った?」
「船には乗っていないが――」
一回りではきかないほど大きな叔父をリビングのソファまで引っ張って行く間、そうやって会話を広げていたものの、本題は輝きをおさえきれない目が語っていた。
キッチンカウンター越しにちらちら投げかけられる視線の先は織葉――ではなく、織葉がローテーブルの上に置いた紙袋。思わず笑みがこぼれた。
「ところで美羽、姉さんは……いないのか?」
「え? うん」
中年男の手のひらよりまだ小さな顔が、トレイに乗せた二つのグラスから叔父の方を向く。押さえきれない好奇心と期待に輝いていた瞳に、不思議そうな色が混ざる。
織葉はソファに腰かけたまま周囲を見回した。
キッチンと地続きの広いリビングダイニングには、織葉と美羽の二人。手を引かれるまま歩いた家の中は、昼間だというのに薄暗く、しんと静まり返っていた。
――そもそも、この家のピアノは防音室にある。ドアを開けたとて、外まで音が漏れることはありえない。
では、家の前で聞いたあの音は?
隣家から漏れた音? この辺りの家なら、やはり防音の備えがありそうなものだが。
「さくちゃんおじさん、今日は土曜日だよ?」
土曜日。
それなら無理もない。姉は毎週金曜の夜に愚弟を訪ね、独り身の男が忙しさにかこつけて溜め込んだ一週間分の面倒を一日で片付けるのだ。だから――だから?
「はい、どうぞ」
目の前にコースターが敷かれる。ストローのささったグラス。氷が渇いた音を立てる。透明な水底に輪切りのレモンが沈んでいた。
その爽やかな黄色と対照的な色が目に留まる。
客を待たず飲み物に口をつけている美羽の前に、織葉は紺色の紙袋を寄せた。
「お土産だ」
「わぁい、お土産!」
「これはみんなで食べてくれ。それから……」
袋から、日を改めることを――できることならすぐに渡したかった理由を取り出す。
袋と同じ色の包装紙に白いリボンをかけた長方形の小箱。
「これをお前に」
「わたしに?」
美羽は差し出された箱を物珍しそうに両手で受け取る。すかさず開けようとして――一度手を止めた。
「あっ。――開けてもいい?」
「ああ」
最低限の行儀をギリギリで思い出したらしく、織葉はその様子にまた小さく笑った。
待ちきれない様子で包装紙をせっせと剥がす。破かないように丁寧に、爪でテープをカリカリやる。もどかしい時間。
「……美羽。今日は土曜日だが、姉さんには今週は出張だから来なくていいと連絡してあるんだ」
よほど集中しているのか、聞こえていないようだ。
だが美羽がこの様子であれば、姉はおおかた買い物にでも出かけているのだろう。車はあっただろうか。姉の車。それから――。
「
「えっ――これ」
しかし問いは戸惑い気味の声にかき消された。
小さな両手でかかげるように持ってもまだ余る大きさ。明るい黄色の生地。オレンジ色のチャック。
「ペンケース?」
「お前ももう次の春には中学生だろう?」
続く反応は『きょとん』だった。
駅で土産を物色している最中、たまたまこの手の工芸品売り場が目に止まったのだ。なんでも瀬戸内地域振興企画とかで、各地の特産品がコラボレーションした商品が山のように展開していて――。
「丈夫な帆布生地を使った耐久性に優れた製品――と書いてあったんだ。せっかくなら中学高校と長く使える方がいいだろうと思って……」
「高校生になってもキャラクターものかぁ」
しみじみとした呟き。帆布生地の真ん中に大きく刺繍された、丸々太った黄色い鳥と神妙な顔でにらめっこしている。
出張先では町中から駅まで見かけないところはなかったご当地キャラクターだ。
織葉は後頭部を殴られた気分になった。
言われてみれば、年頃の娘が持つには確かに少し子供っぽいかもしれない。
「……気に入らなければ、他の用途で好きに使ってくれていい。……もちろん使わなくてもいいんだ」
そもそも、美羽への土産は最初『そいつ』のぬいぐるみにしようと考えていた。それを途中で変えたせいで、デザインを選ぶ思考が回らなかったのだ。
そんなものを日を改めず直接渡したいなどと――姪の喜ぶ顔が見れるだろうと期待した気恥ずかしさが、素直にぬいぐるみにしておけばよかったという後悔に変わり始める。
かくなる上は長居は無用。話好きな取引先相手に培った自然な退席演出術で、午後の仕事に戻るのみ――と、織葉が腕時計に視線を落としかけたときだった。
くすくすという小さな笑い声が聞こえたのは。
「――ううん。使うよ。大人になってもずっと使う」
ちら、と笑い声の方に視線をやる。
昔日の姉を思わす仕草で肩を揺らしながら、しかし彼女は大切そうにペンケースを胸に抱いた。
「いや、大人になったらさすがに……」
「だって今すっごく嬉しいんだもん。この気持ち忘れたくない」
織葉はふと、美羽という名前は天使をイメージしてつけたのだと姉に昔聞いたことを思い出した。
由来はもちろん、初めて腕に抱いた我が子が天使に見えたという意見で夫婦が一致したから――というのもあるが、天使のような子に育ってほしいという願いも込めたらしい。
悪を知らず、いつまでも無垢で、天使が人を守護するように、誰かを守ってあげられる強い子になりますように――。
「ありがとう、さくちゃんおじさん」
姪はまっすぐに叔父を見てはにかんだ。
叔父もまた彼女に微笑みを返す。おずおずとぎこちなくはあったが、不思議とその胸中にはわだかまり一つ残っていなかった。
――小さな違和感のひとつさえも。
「本当にバカだな」
知らない男の声がした。
織葉は咄嗟に辺りを見回す。
声の主の姿はどこにもない。
「どうしたの?」
叔父の異変に気付いたらしい美羽は小首をかしげた。
「いや……なんでもない」
「ふ――はは」
姿なき声は笑う。
織葉は美羽に心配をかけまいと、その声を無視することにした。ここにいるのは織葉と美羽だけだ。見えないものは存在しないもの。
なにより、家の中は『内側』だ。何人も侵入は許されない――許されていいはずがない。だって、この家の造りは外からの干渉を拒むためのものだ。
その内側にあるものを護るために。
内側にある、大事な――。
「他人より、自分が大事なんだろ?」
そこで織葉は、これが経験していない場面だと気が付いた。
何故ならあの日、東雲家を訪ねた土曜の昼は――美羽が嬉しそうに抱いたあのペンケースは――。
「……俺は死んだのか?」
「変なさくちゃんおじさん」
美羽は灰になったはずのペンケースを抱きしめ直し、無邪気に笑った。
「死んだのは美羽たちでしょ?」
夜の国 泥舟 @funaya
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