第四話(後)

 ガラスの割れる轟音は、まもなく外の喧騒に飲まれていく。

 欲望渦巻く夜の街において、ある種の緩衝帯と化していた診察室に破片の雨を降らせたのは、真っ黒なミサイルの弾頭――ではない。

 ただそうと見紛う速度とパワーを持った物体だった。それはブラインドカーテンを突き破ってなお勢い衰えず、目標地点へと確実に着弾した。

「ぐッ――!」

「死ねやクソムシ!」

 炸裂に等しい衝撃のまま、着弾地点に立っていた男は引き倒される。

 だが、男はつい今しがたそんな『非常識』に通じる手段を知った。おまけにその手には、依然としてぬぐいきれなかった疑いが握られていた。

 馬乗りになった強襲者の横っ面へ、丸椅子の座面が叩きつけられる。

 例によって生まれた一瞬の隙をつき、織葉は強襲者を力任せに引き倒し返す。

「――ッ!」

 そして、

「くっそ――あ?」

 遠慮も容赦も躊躇いすらなく直径二センチあまりの細い杭が貫いたのは、『人間の胸部』だった。

「あァァァァッ――!?」

 少なくとも、そう呼んでしかるべき形をしていた。

「なッにすんだ!? 何すんだよックソ野郎ォ!」

 ただでさえ怒りに歪んでいた顔をさらに歪ませ、胸部の持ち主がわめく。それは少年だった。年の頃は正確にはわからない。ただ黒いパーカーと同系色のズボンを合わせた出で立ちに、主張の激しい髪色は、近くの路地裏でたむろしている若者らに混じっても違和感がない。

「どきやがれ! どかねぇと殺すぞこのッ!」

 椅子の座面に重石のようにのしかかった男を退かそうと、少年は暴れた。椅子ごとひっくり返されるのは時間の問題だと感じさせる力。

 

「――それ以外の、どんな傷でも、死ぬことはない」

 それを初めに唱えた男は、最後に見た時と同じ姿勢で床に丸くうずくまっていた。発作めいた症状は緩和したのか、しかし今度はピクリとも動かない。

「オイどこ見てんだよクソムシ!」

 か細く空気が漏れる音をたてる白衣の男。そんな男が同じ空間に存在していることすら知らなそうな少年。二人を交互に見比べて、織葉は眉をひそめた。

「どういうことだ」

「あァ?」

「ちょっと!」

 問いに対する答えはない。それどころか、今さらどうしようもない行き違いを嘲笑うように、状況は混沌を極めていく。

「何遊んでんの!? マジありえないんだけど! 早く殺せって!」

 冷たい夜風が吹き込むばかりだった窓に人影があった。少年とそう変わらない身なりと年頃の少女だ。窓枠に手をかけてよじ登り、室内へ入り込――もうとしているが、窓枠に残ったガラスが短いスカートから伸びる季節を知らない足を掠めるのを嫌がって、少年とは対照的に侵入に難儀している。

「ッるせぇな だったら見てねぇで手伝えやブス――」

 足手まといな仲間にどなり返す声が途切れる。

 やがて少女は室内に入り込むだろう。数の不利。それも、思わず仔細に語ることを放棄してしまうような逃亡劇を演じた追跡者たち――化物が相手の。

 だから、織葉はあらゆる疑問や感情を全て捨てて落ちていたメスを掴んだ。一人の胸は穿たれていて、あとは首を切るだけだと知っているのだから。

 つられるように首を捻った少年の瞳に、誰よりも早く最適解にたどり着いた男が映った。

 手の中のメスが閃く――ただそれは同時に、少年を縫い留めていたくびきの弛みも意味した。

 少年の口角が裂けんばかりに釣り上がる。

「ンのッ――」

 バキンっと小気味よい音がする。

「なっ――!?」

 見えない縄に引っ張られるように、勢いよく少年の上体が起き上がる。

「クソムシが」

 一拍のうちに吐かれたのは聞き飽きた安い暴言。だが不思議と織葉には、これまで少年の口から出た言葉の中で、最も意味があるように聞こえた。

 その理由を知るより先に、手元でメスが爆ぜた。

 ――そんなわけがない。

 メスは金属だ。細長い金属の棒だ。破裂するわけがない。現象としてありえない。ありえないなら、なんだというのか。

 少年は織葉を見て歯茎を剥き出している。笑っている。機嫌がいいにしては、あまりに獰猛だ。歯だって妙に尖っているし、銀の差し歯が異様に輝いている。

 ――いや。真実を求めるならば認めるべきだ。それが差し歯などではなく、歯の間にくわえた金属片であることを。

 彼が金属製の刃を噛み砕いたことを。

 いや――いや。ありえない。ありえないというならば、少年が跳び起きたとき織葉は彼の胸に突き刺さった丸椅子に衝突しなかった。狙い通り、首めがけてメスを振るった。振るうことができた。――それが少年の狙いだった。

 その胸に生える細いパイプが原型を留めていたなら、織葉は座面にぶつかって腕の軌道は逸れていただろう。イレギュラーを防ぐため、少年は自ら皮肉な盾を放棄した。軌道が分かっているなら捉えることなど造作もないというわけだ――いや、そんなわけがないだろう。

 頭が必死に否定を繰り返しても、少年の形をした現実は織葉を――虫けらを嘲笑う。

 胸を潰して首を切れば死ぬ。

 

 小枝のようにスチールパイプを片手でへし折り、最速で振り抜いた刃物に食らいつき、顎の力だけで金属を破砕する者の胸をどうやって潰し、どうやって首を切る?

 相手の自由を奪う策を弄す。トドメをさせるだけの高威力な武器を用意する。それを自在に操る。

 具体性を欠いた文字の羅列。

 織葉が立っているのは、そんなものでどうにかなる虚構フィクションなどではない。

 そう意識した途端、目の前に見えない壁が見えた。壁には穴が空いている。その向こうに広がるのは、途方もない闇だった。あまりに途方がなさすぎて、闇としか認識できない膨大な未知フィクション

 壁は織葉からずっとそれを隠していた。隠さなければならなかった。そうしなければ虫けらの頭は破れてしまう。きっとこんな風に――頭の中でパンッと破裂する音が。

「あ」

「あっ! テメー何通報してんだよ!」

 思いがけず口から漏れた一音を、少し離れた場所にいる少女の声がかき消す。鈍い打撃音。すぐ横を見知らぬ端末が跳ねていく。気付けば、織葉は再び床に体を打ち付けていた。

「――って よく見たらけっこーイケメンじゃね?」

 ひどい耳鳴りがする。体の制御が効かない。まるで自分の物ではなくなってしまったようだ。あるいは、本当に自分の物ではないのかもしれない。一瞬前まで織葉の見ていた世界はこんなに暗く――狭くはなかった。

「っざけんな! 何やってんだクソ女!」

「何って『お食事』ですケド?」

「勝手なことしてんじゃねぇよ! 殺すぞボケ!」

「うっるさいなぁ こんな機会滅多にないんだからいーじゃん別に! ホントはあんただってノド渇いてんでしょ?」

「――っそれは」

「あたしはコイツ あんたはあのオッサン ねっ?」

「クソボケ女 オレら死体の血は飲めねぇって知らねぇのかよ」

「え?」

「マジで男に股開く以外なんにも知らねぇんだな」

「でもオッサン動いてるよ?」

 鉛のように重い体をうつ伏せに転がして、織葉は腕をついた。肘を支点にするも、前腕に力が入らない。いつまでも熱の抜けなかった指が冷え切っている。それでも強引に手をつく。ぬるりとした何かで手が滑って、体重を支え切れず崩れた。

「マジかよ」

 もう一度、今度は逆の腕を前に出す。肘をつく。そこから先が存在しているのか、自分でもあやふやな部位をつく。今度は滑らない。あとは上体を起こして、足を――足は膝から下の制御権を失っているようだった。それなら制御権のある部位を動かせばいい。まずは膝をついて――。

「ぐっ――」

 空気を切る鋭い音と共に、背に衝撃が走る。衝撃の範囲は極めて小さいものの、体を支えていた各所への接続を切るには十分な威力があった。織葉は三度倒れ伏した。

「ゴキブリ野郎」

 まもなく二度目の衝撃。三度。四度。五度から先は数えるのをやめた。ただ丸めた新聞を振り回して躍起になる誰かの姿を思い出した。

 上体が浮き上がる。襟首をつかみ、胸倉に持ち替えて、強引に引き上げられたのだ。

 半減した視界いっぱいに少年が映り込んだ。胸に突き刺さっていたはずのスチール製の細い杭がない。背中に残る衝撃の余韻から、嫌な想像はいくらでもできた。

「なんでまだ生きてんだよ」

 遠近の狂った視界で自分を見下ろす少年は、言葉とは裏腹に目を細め、口の端をつり上げている。

 少年が大きく口を開ける。暗い口腔で蛍光灯の光を反射したのは、びっしりと生え揃った牙だった。

 彼の目的に凶器は必要ない。固い金属を軽々と破壊する力で、首をへし折るなりねじ切るなりすればいい。人体は少なくとも金属より遥かに脆い。

 しかしその怪力は、織葉を逃さないことにのみ向けられていた。まるでそれ以外の使い道は存在しないとでもいうように。

「――体中の血が全部なくなりゃさすがに死ぬよな?」

 いつか誰かが、大抵の悩みは酒と煙草とセックスで片付くと言った。その言葉に少しも同意するところはないが、織葉は今ある種の理解を得た。

 だがそんな理解には意味がない。そこにあるのが殺意であろうと食欲であろうと、胸ぐらの万力が緩むわけではないし、凍りついた手指の助けにはならないのだから。

 織葉は己の運命を悟った。

「――!」

 ――だが、である。

 本当に意味がないのだろうか。

 もし食欲ではなく純粋な殺意であったなら、獣は倒れた織葉を引き起こしはしなかった。これみよがしに口を開けて、妙な独白などしなかった。

 織葉がここまでの十数秒を生き延びたのは、とどのつまり獣の中で食欲が殺意に勝ったからだ。

 であれば、こうは考えられないだろうか。

「え?」

 ――食欲になお勝る欲があるなら、悟った運命もまた覆されるのでは、と。

「何? なんなの?」

 ガチャッというひどく日常的な音がした。

「特別に介助が必要な方はどちらですか」

 開いたドアの前に女が立っていた。

 少女とも妙齢ともとれる繊細な顔立ち。白く透き通った肌。絹糸のような髪。同じ色の長い睫毛で縁取られた瞳。清潔な衣服の下に隠した華奢な線と相反する肉感。

 美しい女だ。どこまでも美しい。目にしたものに不埒な妄想をかきたてさせるように、その美しさは目には見えない器官にするりと入り込む。

 心を守る術を知らないものなら殊更に、本能を剥き出しているなら言うに及ばず――その美貌は、まさにそういう類の奇跡ものだった。

「ねぇ」

 だから、飢えた獣は獲物を見ていなかった。拘束されたままの獲物はやむを得ず捕食者の視線を追った。

 不意に凪いだ空間においては、同性である少女だけが混乱する権利を持っている。

「ねぇ!」

 ――いや。

 彼女の当惑の始まりは、ドアが開くより前ではなかったか?

 低い位置から上がった一抹の焦りを含む声に答えはない。

 ただその声は織葉にあることを思い出させた。

 窮屈なほど張り出した女の胸の名札――『柏木』の文字。それを見るのがこれで三度目だということを。

「なんか 血が――イヤッ 何 なんで」

 一度目は受付で問診票をもらったとき。

 そして二度目は、床を跳ねたスマホの画面。

「離して!」

「人類守護の名において、その蛮行を赦す」

 織葉が聞いたのは溺れる者の囁き。

 言葉の合間に挟まる泡の音は、声の主の安否を不安にさせる。だというのに、声音には少しも被食者の悲哀や恐怖はなかった。――あったかどうか、吟味する暇はなかった。

 応えるように目の前で女の美貌が頭から二つに裂けたせいで。

「な――」

 さながらサナギの羽化だった。だが這い出して来るのは繊細可憐な鱗翅目などではない。

 ――肉だ。動物の骨を包み、皮に覆われる学術的なそれではなく、概念としての『肉』。白くはりのある外皮とほどよい弾力を持つ柔らかな物体の代名詞。

 女の裂け目をかきわけて、『肉』が溢れる。粘性の透明な液体に濡れ、窮屈に擦れ合いながら。上半身の体積を支えきれず、下半身がよたよたと危ういステップを踏むことも構わずに――。

「――なにやってんだバカ! 早く助けろ!」

 ヒステリックな怒号は届かない。

「――ア」

 不意に織葉の胸ぐらの圧迫が消えた。もう二度と手に入らないかに思われた自由は、凍りついた体を床に叩きつけた。落下の衝撃で意識が明滅する。織葉が立っている場所は虚構フィクションではない――そのはずであるのに。

「ねぇ――何? どうなってんの? ねぇッ」

 織葉は生唾を飲んだ。

「――っ……はっ――」

 一対の男女がもつれあっている。

 何度も角度を変えて重ねられる唇。

 ときおり骨張った手が、手のひらに吸い付く湿った肉を揉みしだけば、女の肉は悦びにうち震えた。

「ムシすんな!」

 違う。

 もつれあっている片方は、豊満な肉だ。

 柔らかな輪郭のどこをたどっても、乳や尻はおろか顔も手足も胴体も、人を表す境界はどこにもない。

 人の要素を極限まで排除した、純然たる雌。実在する概念としての雌。

 だからこそ、それは成熟を自称する社会ほど忌み嫌う原始的な理を、雄の本能に訴える。

 だからこそ、織葉の生唾は機能を失いかけている喉を通った。

 重ねられた唇の正体が、体表に開いた無数のまぶたのうち、赤い瞳ではなく人の歯列を備えたひとつであると知りながら。

 ――そのかろうじて口と呼べそうな器官が、と知りながら。

 雌の概念にくかいは何度も角度を変え、小さく、ぷちゅ、ぺちゅ、と奥ゆかしく少年を噛みちぎる。蛮行――そう呼ぶには、あまりに可愛らしい所作で。

 ただそれでも、少年を都合のいい悪夢から目覚めさせるには十分な痛みがあったらしい。

 始めこそ湿った肉の感触を愉しんでいた彼の手が、次第に肉の底なし沼のなかに拠り所を求めて暴れだす。

「こ この――んっ ば けもん――」

 『前戯』は終わらない。

「がっ――!」

 終わらないなら力ずくで終わらせればいい。際限ない母性に手足が飲み込まれようと、幸い打開の足掛かりは向こうからやってくる。

 少年は再び大きく口を開けた。上唇をなくし歯茎をこそぎとられて剥き出しになろうと、彼の牙は金属を砕く。

 小作りな歯列や唇めいて膨れたまぶたが金物より硬い道理はなく、悪夢の元凶は鋭い暴力を受け入れた。

 白い肉が声もなく仰け反る。

「ッア――」

 生暖かな液体が、大粒の雨になって降り注ぐ。視界を流れ落ちていくのは赤。――だが、少年の一口に対して明らかに量が釣り合っていない。

 赤の切れ間に、織葉は悪夢の続きを見た。

 どこまでも単一の意味しか持たなかった丘陵に、女の下半身の抜け殻がゆらゆらとはためいている。

 それが引っかかっているのは、白い足だった。繊毛に覆われたたくましい。先端の爪は床に食い込み、抜け殻をはためかせる巨躯を支える。支えている。いつの間にか加えられた不純物は、必要だから存在するのだ。失った支えの代わりに必要だから。

 震える肉の下に彼はいた。

 腕、脚、首――胴の付け根という強度の低い部分からちぎれ、残った胴も弾けた果実のように潰れて、欲望の末に彼もまた果てていた。

「やだぁぁぁぁあぁぁあぁっ!」

 そう――果てていたのだ。

 殺されたのではない、という漠然とした理解があった。

 欠けた部分を白く泡立たせたあの口が、少年だったものを変わらず食んでいた。もはや雌の概念足りえないその全容を見てなお、それは愛撫をねだる仕草に映った。

「やだッ――やだ! こんなのッおか おかしいッ 聞いてないッ」

 織葉は穴の開いた壁を思い出す。その向こうに広がる、夜の闇より深い未知。だがそれはたった今目の前で呑み込まれた。――呑み込まれたのだろうか。真っ暗だ。

「離してッ 離してよ離せッ このクソボケッ!」

 少女の絶叫が割り込んでくるから、織葉は真っ暗な世界にかろうじて自分の輪郭を捉えている。

 逃げなければ、と思う。

 どこでもいい。とにかく光の方へ、少しでも明るい方へ、この真っ暗から逃れなければ。

 だが織葉の周囲はどこまでも暗く、天も地も存在しない。

 ――ここは、歓楽街の一角――診察室のはずだ。窓は割れ、室内は荒れこそしたものの、灯りが消えた記憶はない。

「ごめ ごめんなさい ごめんなさいゆるしてあたしなんにもしてない悪いことしてない誰も殺してない」

 では何故こんなにも暗い?

「アイツなの全部アイツがやったアイツが殺した」

 ――なんでまだ生きてんだよ。

 生きているからだ。

 この世に生まれ落ちた瞬間から、大半の人間は生きている。生物だから生きている。それが当たり前だからだ。当たり前だからそれをする。

 だから?

「たすけて」

 意識は暗転した。

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