第四話(前)

「申し訳ないけど、吉岡さんには本当にもうこれ以上僕にできることはありませんって伝えておいてくれ」

「織葉サンの正体も結局分かってないのに?」

 時刻はまもなく日付が変わろうという頃だった。

 古い事務椅子の背もたれを軋ませ、来客用の丸椅子に裸足のかかとを乗せる。

 プラスチック製の灰皿に並ぶ吸い殻の数は、平生なら『診療所』の客足を表すバロメーターだ。だがどんな安息日であろうと、こんなフライドポテトも真っ青の山盛りにはならない。

 加えて言うなら、くだんのカウンセリングの後も――『失敗』の一点張りを食わされた刑事からの熱烈なラブコールを除けば――闇医者の日常に殊更な変化はなかった。

 にもかかわらず、空気汚染機と化した男は右手にした次の頂を例に違わず噛む。

「所見は何度も話した」

「そりゃ聞きましたケド」

「迷惑料としてそれを無償で提供するからさ」

「あのですねぇ……」

 信用第一をモットーとする彼女が考察を商品として扱わないことは承知の上だ。スマホ越しのもの言いたげなため息に、ワタリは天井に向かってたっぷりと煙を吐き出し、力なく笑った。

「――なんにしろ、肝心の織葉が消えたんじゃどうにもできないだろ?」

 『港区一家放火殺人事件』の発生から二週間近くが経った。

 ネットニュースは『土曜朝に現場近くで不審車両の目撃情報――近隣住民の新たな証言<港区一家放火殺人>』という記事がトップを飾ったのを最後に、目に見えて事件を取り上げる回数が減った。

 公示日まで一週間を切った選挙と著名人カップルの結婚へ世間の関心は移り、噂好きの夜の街は野党に電撃合流した『若者の若者による未来のための政治』を掲げる瀟洒なスーツの風雲児たちに夢中で、不気味な第一発見者などすっかり忘れてしまったようだった。

 今ではプロファイリングの専門家とやらが考察した犯人像や夫側遺族へのインタビューなど、捜査とは直接関係のない記事がネットの片隅に散発的に上がるだけ。事件に関心のない者でも、捜査が行き詰っていることは容易に予想できただろう。――予想するような酔狂な人間すら、もういないのかもしれないが。

 そしてそんな世間を尻目に、渦中の男は行方をくらませた。

 聞いてもないのに報せが届いたのは、報道を完全に断ってひっそりと執り行われた東雲家の葬儀の後。

 その頃には、織葉は身辺警護も警察署への出頭も必要なくなっていたらしい。失踪に気付いたのは、パトロールのついでに何気なく彼の様子を見に行った交番勤めの制服警官だった。

 報告を受けた吉岡が確認したところ、職場には既に長期の有給申請が出され、郊外の自宅アパートにもしばらく帰った形跡がなかったのだという。もとより織葉の交友関係は広くない。その上、身内をいっぺんに亡くしたのだから、確かに不意に姿を消してもすぐに気付く人間はいなかった。

 アリバイを理由に疑いが晴れたことは聞いていたが、そんな無法がまかりどおるとは思っていなかった――吉岡からの言付けを話し終えた情報屋は、大体そんな感想を漏らしていた。煩わしく思う気持ちのかたわらで、ワタリにも同じ驚きがあった。同時に、どこか腑に落ちるような感覚も。

「織葉サン、どこ行っちゃったんでしょーね」

「うーん。今頃コンテナにでも詰められて、有明埠頭かもね」

「……センセ、織葉サンにボコボコにやりこめられちゃったの、まだ根に持ってるんスか?」

「なんだよ『まだ』って。別に根に持ってないし、そもそも僕はやりこめられてない。織葉とかいうコシヌケのアホが思ったよりフニャチン野郎だったってだけ」

「めっちゃ根に持ってるじゃないですか」

「だから持ってないって」

 一服吸って吐く。やはりスピーカーの向こうの無言はやはりもの言いたげだったが、結局聞こえてきたのは諦めたような声だった。

「ハイハイ……そんじゃあたしは東京タワーに串刺しで一票入れときます」

 そんな軽口で応じられる程度には、あの日闇医者に植え付けられた不安は薄れているらしかった。

 織葉とは別の意味で渦中の人である吉岡にはせっつかれ、不安の種をまいたワタリには暖簾に腕押しという状態でも彼女が世間の人々と同じ道をたどれたのは、報酬と仲介料を受け取った事実が大きいかもしれない。懐を温める明確な『終わり』は記憶の編集点として作用しやすく、なにより悩みを片付ける嗜好品たのしみは金さえあればいくらでも手に入るのだから。

 ――コンコン。

 そこへ、控えめなノックの音がした。

「おっとすまない。来客みたいだ」

 手短に別れを告げ、ワタリは通話終了の文字をスライドした。画面は即座に着信履歴に切り替わる。情報屋、患者、患者、昔の患者、出前を頼んだラーメン屋、知り合いばかりの列。

 だから、登録されていないその十一桁は妙に目立った。

 目をそらすようにスマホをスリープモードにしながら、入室許可を伝える。ややもせずドアが開き、隙間から白髪に赤い瞳をした女――柏木の美しい無表情がちょこんと覗く。

「先生」

「物置に台車があっただろ? 出してくれ」

 従業員に二の句を継がせず、ワタリはサンダルを履き直した。

 まずワタリの患者たちは柏木の案内を必要としない。診療所に届く荷物は受付で受け取る。そしてその受付係が手ぶらで現れるのは、決まって荷物が一人で運べないときだ。

 灰皿のふちに、ちょうど短くなっていた紙巻を押し付ける。吸い殻山の標高を更新し、事務椅子の背を鳴らして尻を上げたところで、

「あの、新規の患者様ですが……?」

 白い柳眉に困惑をにじませて、彼女は雇用主に押しのけられた続きを紡いだ。

 新規の患者そういうのは大抵、SNSか電話から始まる。後ろ暗い道を歩くとき、匿名という卑怯なくらい堅い鎧を放棄する人間は、この情報化社会においてそうそういないからだ。

 半端に浮いた尻を止めた男と、腑には落ちないが問いただす積極性もない女が数秒無言で見つめ合った後、椅子の背が再度鳴った。男が定位置に戻った音だった。

「どうぞ。お通ししてくれ」

 短い嘆息と共に吐き出された合図を聞いて、ドアをいっぱいに開けた柏木が背後を振り向く。

 ワタリはあまり柏木と個人的な話をしない。

 診察と専門的な施術を除いたほぼすべての業務を彼女に任せているが、交わす言葉は業務連絡かせいぜい彼女に懐いている女児を介した当たり障りない話だ。あとは時折、備品補充のついでに食べたいものはあるかと聞かれるくらい。

 だから、彼女は自分が捨てる吸い殻の量が明らかにいつもと違う理由など知る由もなかった。

 誰に対しても大抵は愛想のいい自称医者が押し黙っていることに疑問も持たず、事務机の上に問診票とカルテを添える。丸椅子に投げ出すように腰を下ろした患者に黙って一礼し、部屋を出て行く。特別に介助を必要とする者が来院した場合を除いて、彼女が診察室に残ることは滅多にない。

 診察室には沈黙が降りた。

 問診票など読む必要がなかった。治療が必要な部分は一目で分かる。

 あの日ぴったりと肌を覆っていた邪魔者は、今はもう半分以下になって、火傷ではない怪我を重点的に保護していた。

 結果、晒されたのはお世辞にも治癒したとは言えない赤く爛れ引き攣れた皮膚。それは同時に、もうほとんどおぼろげな彼本来の造形を明らかにした。

 芸術家が丹精込めて彫り上げたような彫りの深い顔立ち。炎に焼かれなければさぞ見目が良かったであろうそれは、しかしきつく寄せられた眉根の皴と固く引き結ばれた薄い唇ゆえに、却って近寄りがたい雰囲気を放っている。

 その険しさがこうなる以前からだったことは、写真を思い出さなくとも、紙面で見た貧相な交友関係が証明している。

 何より、暗く鋭い眼差しを見間違えるはずもない。

 患者はあの日対峙したミイラ男の中身――織葉進作、その人だった。

「ふ――」

 そしてそれを認識した途端、ワタリの口に笑みがこぼれた。

「ふふ――ははは、あははは」

 思いがけずといった調子でまろびでた一音を皮切りに、ワタリはいつの間にか肩まで揺らしていた。向かいの男は何も言わない。ため込んでいたものを吐きだすように笑う白衣の男を、初めて会った時と同じように――あの時よりも幾分冷ややかに見つめている。

 笑えるところなどひとつもないのはワタリも同じだった。だが、人生において笑うしかない状況は確実に存在する。ワタリのそれは今だった。

「やぁ、いらっしゃい」

 ひとしきりの笑いを収めたワタリが言う。収まりきらなかったにやけ顔も相まって、図らずも親しい友人との再会のようだった。

「どうした? 何黙ってる? 僕に言いたいことがたくさんあるだろ?」

 男はなおも黙ったままだ。

「勃起不全で受診しに来たんじゃないなら話してくれよ。僕だって聞きたいんだ。君が一体どんなをしてここまで辿り着いたのかさ」

 半分近く素顔を晒したことで余計に彫像めいた男は、答えの代わりに右手を上着の内に差し入れた。

 見覚えのある動作だが、今日のスーツは光沢のない深い黒色だった。それが特定の用向きでしか着ない礼装であり――生ごみのような悪臭を放ち、汚れて穴だらけになったりしないことは、世事に疎いワタリでも分かる。

「電話をかけたら、聞いたこともない言語を話す女が出た」

 懐から出てきた大きな手が、主の許可なく事務机の上に置いたのは、裏返された名刺だった。

 本来何も書かれていないはずのその面には、ひどい悪筆で走り書きがされていた。

 返す言葉はなかったが、握りしめた拳はあったので逆上し、しかしその爪が相手の襟を掠めることすらなく取り押さえられた間抜けに、襟の持ち主がそれでも記入を迫って得た名前と連絡先。

「先に住所を訪ねれば国際電話にならなかったものを」

「住所はやたらガラの悪い社員ばかり雇用している建設会社だった」

「現役のころは武闘派で鳴らした暴力団が前身だからね」

「しかもお前が書き残した名前が敵対組織の組長だったから、まずは鉄砲玉と勘違いされた」

「それで乱闘に?」

「いや」

「じゃあその怪我はなんだよ」

「誤解が解けたあと改めて尋ねたら、お前に危害を加える気なら帰すわけにはいかないと凄まれて、乱闘になったときついたものだ」

 ワタリはまた小さくふきだした。机に置かれた悪筆の裏を思い出し、織葉は思ったより話が上手い男なのかもしれないと、心底どうでもいい発見をした。

「昔、組長さんが――今は社長さんか。その人が抗争で撃たれたときに弾を取ってあげたんだよ。もう一刻を争うような難しい手術でさ。輸血が足りないって言ったら、オレの血を使ってくださいってみんな袖をまくるんだ。血液型があってるかも分かんないのに」

 相槌を求めるように覗き込んでも、眉間のしわが音もなく増えるだけで、織葉はやはりにこりともしない。

「結局誰が提供するかで取っ組み合いになって――まぁ、彼らはそういう義理堅い人たちでね。いまだにお歳暮とか送ってくれる」

 話が終わると、織葉はただ短く「そうか」と言った。

「それで? 彼らがこの場所を教えたのか?」

「いや。全員最後までお前のことは一言も話さず伸びてしまった。だから仕方なく事務所を調べた。帳簿や郵便物から、企業や個人の連絡先が百単位で見つかって、順番に――」

 続く言葉はなく、代わりに心肺機能の強さを感じさせるため息がゆっくりと吐かれる。こちらもずっと張り詰めていた何かが抜けていくようだった。

「順番にどうしたんだ」

「順番に、訪ねようとして………………」

「しつこく追い回された?」

 ピンと伸びていたはずの背筋はぐんにゃりと曲がり、治療のために剃られた頭を抱えた姿勢がなによりの返答だった。

 のこのこと住所を訪ねた織葉を手厚く歓迎し追い回した彼らは、文字通りの『武闘派』だ。元プロボクサーという経歴を持つ社長を筆頭に、類が友を呼び、朱に交わって深紅になっている。骨のある相手ほど喜ばれるのは火を見るよりも明らかだ。それが入社希望の新卒にしろ――刑事の助けでどうにか警察署を脱した闇医者が、すぐに生け捕りを依頼した『商品』であるにしろ。

 ワタリはもう一度、乾いた声で笑った。やはり笑うしかなかった。

 一週間前には座るという動作さえ滑稽にしていたやけどは、完治とはほど遠いままそこにある。刺激に飢えた狼たちが大いにはしゃいだ跡もだ。

 二酸化炭素の充満した空間で二分以上人が生存できないように、どんなに頑丈な人間でも二リットルの失血をすれば動くことができなくなるように――彼は誰の目にも明らかに人間の生存領域を超え、超えたまま確かにここに存在している。

 ――化物。

 奇しくも数日前、夜は営業に差し障るからと貸切にした診療所に、手ぶらで列をなした男たち――一様に派手な青ジミやたんこぶをこさえていた――から聞いたその二文字。そこに揶揄以上の意味はなかっただろう。

 だがそれは、カウンセリングでワタリが得た『所見』のとおり――他でもないを、格闘技観戦でもしたあとのような興奮気味の多弁以上に示した。

 会社で営業部に所属する織葉は、一年ほど前に渡航歴がある。吸血種がこの国へ持ち込まれる以前に存在していた地、おやの故郷への海外出張である。

 渡航先で何があったのか、調書には細かな記載がなかった。特記するほどの出来事がなかったか、特記できないような出来事があったのかは、今となっては誰にも分からない。おそらく織葉自身にさえ。――いや、人の理じょうしきが染み付いた融通の利かない人間だからこそ。

 

 ワタリは警察署を脱した後、結果を問うた情報屋に「君さ、レントゲン撮ったことある?」と返した上で、この所見を語った。

 当然、言いがかりレベルの報告は受け入れられなかった。落胆と怒りと焦燥をミキサーにかけたような反応を浴びせられたが、それもワタリが意味深に笑うだけでそのうち勝手に収まった。厳密には、収まらざるを得なかったのだろう。喉にが詰まったせいで。

「事件について知っていることを、どうか教えてほしい」

 この部屋に入ってから初めて聞いた自発的な言葉に、ワタリは目の前の男に意識を戻した。座ったまま頭を抱えていた織葉は、いつの間にか元の姿勢に戻っていた。

「警察は捜査に行き詰っている。このまま任せていたら、事件は解決しない」

「それが僕に直接連絡先を書かせた理由か?」

 本当にワタリを名誉棄損で訴えたいだけなら、同席していた刑事にあとで素性を問えばいい。公的な機関がどこの誰だか分からない人間に仕事を頼むはずもなく、保身のためにたった一人の情報を隠すなどという焼け石に水をかけるような真似をするはずがないのだから。

 それでも織葉が直接書かせることにこだわったのは、きっと予感がしたからだ。だからワタリはその機に乗った――乗ることができた。

「遺体を見たんだろう」

「それがどうした」

「どこで見た?」

「あのとき刑事が言ってただろ?」

「あとで確認を取ったが、警察が外部に遺体の情報を漏らした記録は一切なかった」

 当の嘘つきから遺体を見た経緯は聞かれなかった。知らなければしらを切る必要もないからだ。織葉の態度を見るに、ワタリや情報屋が関与したことについても内々に処理してあるのだろう。長年『麻布のパパサン』をやっているだけのことはある。

「――お前は知らないはずのことを知っていた」

「裏ルートで画像を買ったんだよ」

 だがその手管は、今はかえって不都合だった。

「野次馬に行った火事の現場でたまたますごいのが撮れたって知り合いに売り込まれてね」

 警察に不審がなければ、無関係の部外者が遺体を見るタイミングなど限られる。十一桁の数字が頭に過ぎったとき、口はもう開いていた。

「何故そんなものを買った?」

「ほら、医者って男も女も裸なんか見放題触り放題だろ? だからもうよっぽどド派手なのじゃないと抜けないんだよ」

 どこで買ったと聞かないあたり、織葉の不信の度合いが伺える。実際、同じ手は二度食わないといわんばかりに、度重なる怪我と包帯で均整を失った顔は微動だにしなかった。

「俺に会ったのは何故だ」

「そりゃもちろん、一軒家が全焼するような火事から生還した色男がいるって聞いたからさ」

 わざとらしく肩をすくめてみせる。ワタリとて、今更そんなふざけた話を信じさせるつもりはない。

 注文した商品が自分で歩いてくるというイレギュラーこそあったものの、たしかに届いたのだ。ならば『結果』を出すことになんの不都合もない。

 ――織葉は人ならざる者に変わり果て、しかしその事実から目をそらしたまま、無理に人間として暮らそうとしたがために、報いを受けた。

 どれだけ取り繕おうとなかったことにはならない渇きのために、大切だと豪語して譲らない東雲家を自らの手で壊した。そして、それすら受け入れることができず『曖昧な記憶』として目を背け続けている。

 そんな証拠を手土産に、人類はひとまず滅亡の危機を免れたという結果――それを憂いた者に報告するという結果を。

「頼む」

 不意に目の前で圧が消えた。

 気付くと眼下に後頭部があった。

「金が欲しいならいくらでも払う。そういう趣味があるなら好きにしていい」

 事務机の一番大きな引き出しには、縫合や抜糸など大がかりでない外科的処置に使う道具が入っている。

「お前が知っていることを――本当のことを教えてくれ」

 ワタリの脳裏を町のあちらこちらに立っている看板がよぎった。日が落ちれば制服の警察官が巡回し、行き交う人に呼びかける光景があとに続く。

 ――うまい話に乗ってはいけない。

 それは大人のための約束事。夜を生きる者の不文律。愚か者を洗い出す目の粗いふるい。

「俺ならどうなってもかまわない」

 ふるい落とされるような愚か者は、骨までむさぼり尽くされても文句は言えない。

「バカか?」

 ただ少なくともそのときワタリを引き留めたのは、自分はふるい落とされる側ではないという高尚な自負ではなかった。

「ここまでの道中で嫌というほど分かっただろ? 僕は取引先じゃないんだよ。君が属してる社会の人間でもない。それとも君は、そんなことも分からないほどバカなのか?」

 返事はない。初めて見たときよりも傷の増えた嫌というほど分からされたはずの頭は下げられたままだったから、無言にどんな意図があるか汲むこともできない。ワタリは急き立てられるように続けた。

「――そんなに聞きたいなら、白状するまで僕を殴れよ」

 ふるい落とされたのがどんな愚か者であろうと、下で口を開けた獣に食い尽くされるまでに必ずとる行動がある。

 すなわち、抵抗だ。

 人は決して死にたくないので精一杯あがく。――あがく。『自分』を定義するものが利益なのか、身体なのか、社会的地位なのか、あるいは価値観や精神性なのかはさておき、あがくのだ。

 その結果、己が骨まで噛み砕かれようと、あいてがどうなろうと。

 だから――第一位の実在を恐れながら囮役を引き受けなかった彼女も、正義を謳って脅しを手段に残した刑事も、結果的に『他者ワタリ』を損なうことを許容した。

「それは人に物を頼む態度じゃない」

 自己を顧みなかった証きずだらけの後頭部は上がらない。

 ワタリの目的は、結果を出すことだ。『東雲家に関わりがある吸血種の遺体』を手に入れること。初めから、傲慢なスピーチを聞いたときからそのつもりだった。

 世の中は所詮結果だという残酷な文句は、その実まとを射ている。人は人である限り、限りある情報で自分を納得させなければ生きていけない。

 だから、あのとき仮に予定通り事が運んで、引いたのが『』だったとしてもそうした。

 動かぬ証拠さえあれば、付随する筋書きオマケの出来など問題ではない。

 ――まして犯人の人間性など。

 やがてギィと事務椅子が悲鳴を上げた。

「本当に、バカだな」

 ワタリの利き手は、机の上へ伸びた。その手が掴んだのは煙草の箱だった。尻を叩いて頭抜けた一本に噛みつく。性急に引き抜いたそれに、そばに落ちていた安物のライターで火をつける。

 まもなく漂う甘く香ばしいにおいは、味気ない床を見つめたままの男の鼻も突いた。

「東雲家の三人は化物だった」

「――は?」

 頭を上げた織葉は、意外なことにこれまでで一番大きく表情を変えていた。それも驚きという、事件後およそ彼が浮かべたことのない類の表情に。

 ワタリは煙を吐き出しながら、薄ら笑いを浮かべて織葉を見返した。

「事件のことが聞きたいんだろ?」

「それは、そうだが……」

 ただでさえきつく寄せられた眉根のしわが、いっそう深くなった。だがそれだけだった。これまた意外なことに、怒りも否定もそれ以上発露することなく、織葉は難しい顔をして黙り込んだ。

「彼らは吸血種という、吸血を介して人間を同族に変える化物だった。つまり、東雲家の件は『殺人事件』ではなく『化物退治』だ。人の常識の外側の出来事なんだよ。だから警察も捜査に行き詰っている」

 化物退治――のくだりで織葉の暗い目は一瞬鋭くなったが、話の腰を折るような反論は結局最後まで出ないままだった。

「かといって僕が知っていることも、彼らを駆除ころした者をつきとめるようなものじゃないんだ」

「なら、お前は何を知っている?」

 もったいつけるように一口吸って、ワタリは口角を上げた。

「彼らを化物に変えた親個体はんにん

「そいつは今どこにいる」

 答えの代わりに、事務机の引き出しが開いた。

「な――」

 意味を問おうと口を開いたまま、織葉は不格好に立ち上がって二三歩後退した。勢いあまって蹴とばされた丸椅子の足が床を引っかき、不快な音をたてる。

 金属がぶつかり合う音の中から飛び出した銀色――鋭く先のとがった外科用ハサミを織葉に突き付けたまま、逃げた獲物を追うようにワタリも席を立った。

「何のつもりだ」

「どうせ口で言ったって解らないだろ?」

 困惑が濃くなる。次に彼が口にする言葉は分かっている。だから答えを先に与えることにした。

「吸血種は胸を潰して首を切り落とせば死ぬ。裏を返せば、それ以外のどんな傷でも死なないってことだ」

 そこまで言えば、織葉はワタリの言わんとすることを察したのか、片眉をひそめた。ただ、その下の目に浮かんだのは狼狽や動揺の色ではない。

「……これは、死ぬような傷では」

「僕は闇医者だがヤブじゃない」

「だが……死んでいない」

「ほらみろ、解ってない――」

 爛れた首筋を切り裂かんとして振りかぶったハサミは、止まった。――否応なしに止められた。織葉の左手が、ワタリの右手首を掴んでいた。

「なんで止めるんだよ」

 ハサミを振りかざす白衣の男とその手を掴む喪服の男。ともすれば、次の瞬間にも新たな刑事事件が生じようという異様な状況にそぐわず、声はどこか笑っていた。

「事件のことを知れるなら、君はどうなってもかまわないと言った。大人しく刺されれば、悲劇の元凶はんにんが見つかる。止める理由なんかどこにもないだろ?」

 答えがないのは肯定ではない。もちろん否定でもなかった。文字通り存在しないのだ。

 なぜなら――問いかけられている喪服の男には、悠長に答えている暇がない。

 手のひらにおさまるならどんな果実も砕けるような力で締め上げられ、白い袖の下で骨が軋む音を立てているにも関わらず、のだから。

「――……っ!」

 身長は織葉の方が十センチほど高い。体格とて明らかに織葉が勝る。しかしそこに因果はなしとばかりに、ワタリの腕は止まらない。

 もし、このゆるやかに崩れる拮抗を観測する人間がいたなら、『彼女』なら、こう表現するだろう。

 ここだけ違うルールが働いているみたい――と。

「もしかして、本当は事件の真相を知りたいと思ってないんじゃないか?」

「っちが、う――」

 ついに織葉は、両手で下がり行く腕を止めることを試みた。そうしてようやく得られた少しの余裕で、息を詰め足を踏ん張って倒れる巨木に抗うような無様を晒しているのが自分だけであるという状況を知る。生半なまなかな理解は、かえって余計に混乱を招いた。

「無理するなよ」

 振り下ろす腕以外弛緩しているようにしか見えない男は、手放していなかった煙草を吸い、陰惨に笑った。

他人かぞくより、自分いのち大事なおしいんだろ?」

 答えは、首から上の最も堅い部位。

 堅いカルシウム質同士が激突する鈍い音。世界が揺れる。違う。揺れているのは視界であり、眼球であり、神経で接続された人体唯一の思考器官――人体を制御する器官。末端の力比べで勝機を見込めないなら、制御部分あたまを叩く。どんな規模であれ戦と名のつくものなら、それは有効な戦術だ――人の理の上では。

 とはいえ、結果として拮抗は勢いよく崩れた。長身痩躯が衝撃のまま後方へ吹き飛ぶという形で。人間を支えるためには設計されていないパーテーションが、派手な音を立てて巻き込まれる。

「違う」

 余裕ぶった顔面に頭突きを叩き込んだ男は、うわごとのように呟いた。

「俺は、ただ――お前が信用できないだけだ」

 肩で息をしながら、破れた傷から溢れる赤く粘つく液体や汗を乱暴に拭い、覚束ない手付きで周囲を探る。やがて片手は望みの物を探し当てた。

「ふ――はは」

 視界の下からふらふらと現れた男のそれよりも、粘度の低い一筋を鼻から垂らした男は笑う。

「信用してないなら、その手にあるのは一体なんだ」

 凶器と呼ぶには、それはあまりに角がとれていた。しかし本来の用途のために携えたなら、彼の姿は仕事道具を引きずる処刑人のようには映るまい。

 死者を弔う装いの男の手にあったのは、先ほど自身が蹴飛ばした丸椅子。

 直径二センチあまりの足は、あたりに散乱した鋭利な医療器具の数々に比べれば、およそ命を摘むには適した形とはいえない。――だからこそ、その無理を通す乱暴さは『潰す』という行為に相応しい。

 ワタリはもう一度笑う。

「嘘つき」

 微かに収縮を繰り返す胸の上に、平らな切っ先が乗っている。あとは二メートル近い男が座面に体重をかければ、一分とかからず結果は出るだろう。出なければ何度でも打ち付ければいいのだ。ちょうど吸血鬼に刺す杭のように。

 結局、幸福な一家を襲った悲劇の真相は永遠に分からない。だが限りなく一家に近い場所にいる男には、この世で最も弱い生物の存在構造的欠陥がある。どれだけ変わり果てようと残る傷跡のように。

「あはは」

 長らく胸につかえていたものが取れたようなひどく良い気分で、ワタリは完成した筋書きを添える手土産を作ることにした。

 都合のいいことに、いい子ぶった白々しい男はこの段に至ってなお暗い瞳に宿った黒炎をくすぶらせるのに忙しい。腕に回す意識も力も足りていないようだった。

 ――そう。対照的な装いの二人の男は、丸椅子ひとつを挟んで、上下に対峙していた。織葉はこれから手を下す男を覗き込んでいて、ワタリは処刑人には不向きな男ののだ。芽吹いた小さな疑念を摘み取ろうとしたあのときのように。

 だから、というわけではなかった。

 ただ次の瞬間、ひうっと空気が詰まるような音がした。

「――どうした」

 丸椅子の足をワタリの胸の上に固定したまま動かなかった織葉が、訝しげに問う。

「ァ、――」

「おい」

 異音はワタリの喉から発されたものだった。

 当然、呼びかけに答えはない。

 カッと見開かれた目の半分以上は白。軽薄な笑みを貼り付けていたはずの唇は、なりふり構わず唾液と泡をこぼしながら、はくはくと忙しなく開閉を繰り返している。

「おい。急になんだ。なんのつもりだ」

「ぅ、ハ――ァガッ、ァ! アァッ! ッ!」

 返るのは異音――喘鳴。耐えがたい苦痛を感じたとき人が発する音になんのつもりもないように、胸の上に乗った椅子の足など構わず仰け反り、胸をかきむしる男が発した音にも、やはりなんのつもりもない。

 ただ『何故こうなったのか』と問うていたなら、高熱の時に見る夢をザッピングしながら高速回転で落下するワタリの脳裏には、さきほど不用意に見てしまった黒い瞳に映ったものが明滅しただろう。

 そしてはこう答えるのだ。

 これは報いだ、と。

「だ、大丈夫か――」

 しかしついぞそう問わなかった男は、かつてなく狼狽していた。一度は突き付けたなまくらな凶器を退かし、瞳から例の炎をすっかり消してしまうほどに。

 それでも、足下でもんどり打って事務椅子に激突し床に額をこすりつけ始めた男への疑いがいつまでも拭えなかったことは、この時ばかりは幸運だったと言わざるを得ない。

 なにせ、ワタリが『報い』を受ける羽目になった可能性含め、あまたの捨てられたそれらの中には、織葉が捨てたものもまた混在していたのだから。

 胎児のような姿勢で部屋の主が暴れ回るたび、無地の床が赤い水玉模様に変わっていく。そんな光景に危惧を覚えた織葉がワタリに近づいた――そのときだった。

「――!」

 

「死ねェ! ゴキブリ野郎!」

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