第三話(後)
目の前でゆっくりと上がっていく頭を、ワタリは見上げていた。
極めてまれな体験だった。ワタリが見上げる同性といえば、大抵海の向こうにルーツを持つ者ばかりだ。あるいは調書に記述がなかっただけで、この大柄な男もそうなのかもしれない。調書に添付された証明写真には、髪や目や肌の色の印象とは乖離した彫りの深い顔立ちの男が映っていた気がする。
――そんなことはどうでもいい。
いくら記憶を掘り起こそうと、目の前の男の容姿にはみる影もない。そして――。
「――えっと、カウンセラーのワタリです。今日はよろしくお願いします」
ワタリは当惑したまま、地味な色のスーツから覗く肌という肌を包帯とガーゼに覆われた『ミイラ男』に右手を差し出した。
ミイラ男というのは当然ながら比喩だ。あるいは、本当に外来の不死種や昔流布した都市伝説の類であるのかもしれない。なにせ吸血種だとしたら、これは明らかな演技過剰――。
ワタリの視界に、ミイラ男と一緒に入室した二人の警官のぎょっとした顔が映った。意味が分からず一呼吸分思考が止まる。無意識に何か口走ったかと焦った瞬間、右手をがっしりと大きな手に掴まれた。
「よろしくお願いいたします」
握手に応じた手にも指先まで巻かれた包帯が、外野の表情の意味を伝えた。
――あんなひどい火傷してるのに、フツー握手なんか求めるか?
いくら第一位の十八番が擬態だからといって、こんな怪我をそのままにするメリットがないのだから。
手の持ち主は、患部を圧迫したことによる一瞬の反射を除けば、それを感じさせない強さで握り返してくる。最低限の露出を確保された部分だけで分かるほど、顔は焼きついたように無感情で、変化がない。
「――すみません。配慮が足りませんでしたね」
「問題ありません」
低くしわがれた声は発声に問題を感じさせた。だがそれが炎と煙に喉まで焼かれたのか、あるいは別の要因でそうなっているのか、ワタリには分からない。
――分からないのだ。
遺族や被害者のケアのために設けられた警察署応接室の大きな窓から注ぐ陽光を平然と浴びているだとか、耳を澄ませばひゅうひゅうという音がして胸が小さく上下しているだとか、握った手は包帯越しにも分かるほど火災の熱を残しているだとか。
そんな誰にでも分かること以外――何も分からない。
レントゲンの撮影時、金属類を身につけないよう注意されるのは、金属がレントゲンの
その名をつけ直した自称文系の女は、おそらくそれを知らない。ただ彼女の観測範囲の出来事と白衣にちなんだだけ。黒い猫にクロと名付けるような、単純な名付け方だったように思う。
ワタリは、一度もそれを訂正しなかった。そうする必要を感じなかったというのもあるが、偶然の一致に覚えた妙な感心のためでもあった。
偶然の一致。レントゲンと呼ばれる科学技術と同種の性質。
――対象との間に物体が存在する場合、阻害を受けること。
たとえそれが厚さ数ミリで、向こうが透けるような包帯であっても。
不意に手が離れた。包帯まみれの白い手は、そのままスーツの上着の内側へ滑り込んでいく。
ワタリは誰にも気取られないまま即座に身構えた。身構えずにはいられなかった。
目の前の大男の正体は、分からない。限りなく絶対に近いはずだった手段は通じない。
それでもただひとつ確実なことがあるとすれば、彼は人間ではないということだ。
人体とその構造について学んだ男の目から見て、この状態の人間がいていいのは、設備の整った大きな病院のベッドの上か、長辺二メートルほどの木箱の中なのだから。
だから、潰れたスニーカーの片方を半歩後ろに下げる。相手が無軌道な化物でないことを、こちらの意図に気付いていないことを祈りながら。
「机の上から申し訳ございません」
しかし懐に入った手は、刹那の間にワタリの内側を駆け巡った緊張を一蹴した。
不気味な男が気の毒なくらいこじんまりと両手を添えて差し出したのは、一枚の紙切れ。
ありがちな社名と、『営業部 織葉進作』の印字。さらに一行分の空白があって、会社の所在地、電話番号など細々した連絡先が続く。
見やすい向きで差し出され、つい文字を追ってしまった自分に気付いたときには、もう遅い。顔を上げる。名刺を差し出したまま微動だにしない男がいる。異変はその前兆もない。当然だ。あいさつとは、敵意がないことを相手に示す行動なのだから。
ワタリはしばらく躊躇って、名刺を片手で受け取った。
「えっと、ご丁寧にどうも……」
受け取った名刺を白衣のポケットにしまう。
文字を追う前の緊張は、どうしても戻って来そうにない。なんともいえない据わりの悪さを、進退極まった男は愛想笑いに変えた。
予定では、織葉の正体はとっくに判明しているはずだった。それさえ分かれば、こんなところに用はない。吉岡の頼みを叶える必要もだ。
――ここはひとまず予定どおりにすべきか?
収穫はないが、一度撤退して囮作戦に切り替える。神秘頼みに失敗すれば、情報屋もことの重大さに考えを改めるかもしれない。ハズレの『事後対応』こそやや面倒にはなるが、囮作戦でも問題はないだろう。何も不都合なことはない。
だが席を辞す言葉はある一点で引っかかって、なかなか喉を通ろうとしなかった。
「……あの、おかけにならないんですか?」
声は包帯男の背後からだった。先ほどワタリの行動に眉をひそめた男のうちの片方。ちらちらと包帯男にやる目を見れば、どうも『重傷の怪我人』をずっと立たせておくのが忍びなくなったらしい。
ワタリの喉を塞ぐ一点は、まさにこれだった。
吸血種に限らず、なんらかの化物であるなら不要な『怪我』。そこに趣味と周囲の同情を買う以外の意味を見出すなら――ワタリに対する封じ手。
――いや、んなわけ……。
ありえないことは、ワタリ自身がよく分かっている。
神秘を知らない刑事には当然の事象。レントゲンと千里眼の区別がついていない女が写真との違いを指摘するはずもない。これは認識の齟齬から起きたケアレスミス。ただただつまらないだけのヒューマンエラー。
だが自分の神秘がどういうものか知りながら、『ありえない』という壁の向こうに可能性を押し込んで、何もしなかったのも同じだ。――目の前にあと数秒で爆発する爆弾があったのに。
――解ってるよ。
ワタリは愛想笑いの消えた顔で、二度と座る気のなかった席に重い腰を下ろした。
「?」
――が、対面はいつまで待っても埋まらない。妙に思って、座すと一層大きく見える男を見上げる。表情筋は相変わらず死んでいたが、まなざしには何故か不思議そうな色が滲んでいる気がした。
「……何か?」
「かけてもよろしいでしょうか」
勝手に座れよ――と、言いかけて間一髪飲み込んだ。
「……ああ、どうぞ」
許可を聞くと、織葉はようやく向かいの椅子をひく。やはり出しにくそうな声で、「失礼します」とさらにことわりを入れて。その動作は、怪我のためかやはりどこかぎこちなく、いっそ滑稽だった。
ふと脱サラしてキャバクラの雇われ店長をしている患者のことを思い出した。そういえば、「名刺の受け取り方とか着席の順番にもビジネスマナーがあって、金のある中高年層の客にはそういう細かい気配りが喜ばれるのに、最近の嬢は分かってないんだよ」とかなんとか愚痴っていたような気がする。
「……ええっと、他の先生からもお話があったかもしれませんが、カウンセリングはあなたが抱えている問題に対して、明確な助言や答えを与えるために行うものではありません」
学生のころワタリがもっぱら苦労したのは、心理系の科目だった。
とはいえ着席したからには、少なくとも表向きには取り組まざるをえない。記憶の棚のどこかにしまいこんだ教科書を慌てて探す。
「僕の仕事はあなたの心をケアして、一日でも早く正常な生活に戻れるようサポートすることで……」
「素人質問で恐縮ですが、やはり見たものがはっきりとはしませんか」
不意に差し込まれた問いかけが、杓子定規に動いているだけだった口を止めた。首を回す。視線の先で、ワタリにその頼みをした年かさの刑事が小さく首を横に振った。
「正常な生活に戻れば、私が炎の中で何を見たのかはっきりと思い出せますか」
繰り返された質問の発生源を、今度は間違えなかった。
そういえば、情報屋が彼に接触したのも『精神的な問題で一部の記憶が曖昧になっている織葉から情報を引き出してほしい』だった。
顔を前に戻すと、包帯の隙間からのぞく二つの暗い目が、相変わらず感情というものを知らない様子でワタリを見ていた。
「……えっと、心中お察しします」
黙って同じ轍を踏むわけにもいかず、場をしのぐ無難な台詞を咄嗟にひねり出す。ワタリの目的はカウンセリングではない。だがいくら内心で唸っても状況は変わらない。
どうしようもなく、包帯が邪魔だ。
邪魔なものは取り除くのが一番いい。だが、一番いいことは得てして難しい。
せめて今日の肩書きが精神以外の専門医なら良かった。怪我の診察に心理カウンセラーが出る幕はない。まして強硬策は――間違いなく織葉の背後に控えた二人のお優しい外野の邪魔が入る。
「思うように証言できなくてもどかしい思いをなさっていることでしょう。ですが、焦りは余計に自分を追い詰めるだけで――」
「思い出せるのか思い出せないのかだけお答えいただけないでしょうか」
――調書によれば。
この包帯男――織葉は、幼い頃に両親を亡くしているらしい。明らかな確執などはないものの、親族のもとに身を寄せていたのは四つ年上の姉が成人するまで。それから姉が結婚するまでの間を二人で暮らし――事件を経て、実質的な天涯孤独となった。
だからまぁ、こういう態度になるのは無理からぬことなのだろう。それは解る。想像できる。情報屋との最初のやりとりでもなんかそれっぽいことを思った気がする。
箱のフタはいまだ閉じたままで、アタリもハズレも存在しながら存在していないことも、理解している。
「――記憶をどうにかしたいなら、僕と実りのない話を続けるより、神経外科にでもかかるのをお勧めしますよ」
無論、中身不明の箱を不用意につつく真似がどれだけ危険であるかも。
ただ半ば自分に対する慰めのような台詞をかき消した言葉の体当たりは、つまらないミスでネジが緩んだワタリを、十五度ほど傾けてしまったのだ。
さらに不幸なことに、この頃の公共施設はどこも屋内禁煙が推進されている。世相に応じて設けられた部屋に、灰皿の姿は当然見当たらない。
ポケットの上から小箱とライターを無意識に撫でながら、ワタリは色のない息を吐いた。
「記憶を蓄積しているのは神経細胞とシナプスであって、心や言葉なんていう存在しないものじゃないですから」
「神経外科へ行けばどうにかなりますか」
「もう何十年かすれば、あるいはそういうところから記憶を抽出する技術も生まれるでしょうね」
そういうわけで、普段なら
「それではダメだ」
しかし、微動だにしなかったのは相手も同じだった。さらにいうなら、今自分の顔面に向かって吐きかけられたのが、毒だとも思っていないように。
「織葉さん、カウンセリングは問題に答えを与えるものではないとお話したはずですよ」
「しかしこの記憶に答えを出さなければ、私はおそらく一生正常な生活に戻れないと思います」
「何故そう思うんですか?」
その無表情が演技なのか本心なのか、ワタリには分かるはずもない。
「家族の問題ですから」
ただこの瞬間、もうひとつだけ確実に言えることが増えた。
証明写真の真面目腐った顔が浮かぶ声で男が口にした台詞が、ワタリの中に小さく――それでいて名状しがたい『違和感』を生んだということが。
「家族」
喉の奥に刺さった小骨の存在を確かめるように、ワタリは口の中で繰り返した。
「あなたは東雲家に同居していたわけではありませんよね?」
はい、と見た目や声質にそぐわぬ歯切れのいい返事。
「ですが交流がありました」
「どの程度ですか?」
一転、織葉は黙った。真意は相変わらず邪魔な包帯の下に押し込まれている。ただどういうわけか、ワタリにはその無言は躊躇いのように感じられた。
「……毎週末、姉が私の部屋に泊まりに来ていました。逆に私が姉一家の家に招かれることも。仕事の都合で、実際に寄れたのは月に一度程度ですが」
「お姉さんはともかく、それなら他の二人は他人じゃないですか?」
おそらくそれは、肝心なことは何一つ分からないにもかかわらず、彼が一言話すたびに、目の前でパズルがどんどん組み上がっていくような、妙な感覚のためだろう。その証拠に、次のピースも期待通りの場所に期待通りのタイミングではまり込んだ。
「姉が大切に思う人たちを、同じように大切に思ってはいけませんか」
「いけないということはありませんが」
ワタリは小さく笑った。
「どうして知らないことをなかったことにしようとするんですか?」
そしてやはり対面の彼は、無言でその意図を問う。多少の当惑と嫌悪を滲ませながら。
パズルの絵柄は、悲しいほどこの国に住む多くの人々と同じだ。
「あなたが東雲家に寄らないおよそ三十日のことです」
「……その間は、普通に生活しているでしょう」
「会社じゃ都合よく部署をタライ回し、おかげでいい年して平社員。家のことは姉頼み。オレとは血の繋がりもない他人のくせに、どのツラ下げて毎月他人の家に上がりこんでんだ。パパ、あのおじさん顔も背丈もいかつくて怖いよ――とか言ってるかも」
自分が何を話しているのかすら理解していない、当たり前を当たり前として享受するだけの、その他大勢の無辜の人。
「ありえません」
ワタリは一つの気付きを得た。情報屋が「織葉サンは別に吸血種って感じはしませんでしたよ」と言ったのは、おそらくこのためだ。
事実ワタリとて、この男の正体を確かめるために労力を割かなければならないことがひどく馬鹿らしく思え始めている。
だがその一方で、この奇妙な状況を終わらせる妙案を思いついてもいた。
「あの、すみません。それは本当にカウンセリングなのでしょうか」
ワタリが口を開くとほぼ同時に、またしても織葉の向こうから声が上がった。見れば、ドアの前に控えていた外野の片割れが、困惑に身を縮こまらせながら小さく挙手している。
急に存在を主張してきた彼の方に顔を向けると、カウンセラーはわざとらしいほどニコリと微笑んだ。
「トラウマの治療には、あえてつらい記憶を呼び起こすことで慣れさせるという方法があります。今のは、嫌な気分になる練習とでもいいますか。水に飛び込む前の準備体操のようなものです」
勿論でたらめだ。半分ほどは。
口を挟んだ男はまだ釈然としない様子ではあったが、それ以上の疑問は堂々とした白衣の前に挫かれたようだった。それを認めてから、ワタリは織葉に向き直る。
「まぁ、そんなに深刻に考えなくても大丈夫ですよ。人間の
にこりと笑いかけるワタリに、返る言葉はない。ただ瞳だけが暗さを増す。
「しかしあなたの場合、そのはっきりしない記憶とやらはどうしても避けては通れない課題のようですね」
先ほどと言っていることが百八十度違うじゃないか――という指摘は、誰からも上がらなかった。
「――記憶を蓄積するのが脳細胞とシナプスである以上、人間の記憶はしまった場所が分からなくなるだけで、そのものが消えるわけではない。ですから、落ち着いて一緒に考えてみましょう」
表情そのものに変化はない。返事もないまま、急に翻意した男をじっと見つめて黙り込んでいる。
沈黙に乗じて、ワタリは手を伸ばす。その先には机の上で固く組まれた包帯まみれの手。安心させるように重ねると、血走った目がそれを見た。ワタリはもう一度微笑んだ。
「通報後、あなたは燃えている家の中に入ったと伺っていますが、それは何故ですか?」
「……ガレージはシャッターが降りていました。姉とも
「そして火の中で、首を切られ胸を潰された遺体を見つけた?」
「――」
織葉は言葉に詰まった。爛れた瞼が重たそうに降りる。
「おそらく、そうだと思います」
手繰るように絞り出された言葉は離人症めいていた。
「遺体を抱きかかえていたことについてはどうですか? 炎から護りたかったのなら、現場から運び出せばよかったのでは?」
「――それは」
ワタリの手の下で、組まれた手に力が入る。そうでもしなければ、体に震えが走るのを抑えられないとでもいうように。
彼の心が真実を覆い隠す業火の中に未だ閉じ込められているのは誰の目にも明らかだった。だが、見えるものに価値を見出すのは人間だけだ。
「――分かりません。……たぶん、冷静にものを考えることができなくなっていたんだと思います」
「冷静さを欠いていたら、首のない遺体を抱きかかえようとしますかね?」
「……黙って見ているよりは」
「明らかに死んでいるのに?」
「家族であることに変わりはありません」
薄皮一枚を剥がすために、見えないものが見える男は妙案を閃いた。
「本当にそれだけですか?」
間違いなく割り込んでくるであろう外野は、視線だけで意図を問う対面の男に押し付けた上で。
「あなたの話は何かおかしい」
「……火の中に入ってからのことが、はっきりしないので――」
「僕が言いたいのはまさにそこなんですよ」
ワタリはずい、と身を乗り出した。当然下敷きになっている焼け爛れた手には、ワタリが前に出た分だけ力が加わる。
「安否を心配して自ら進んで火の中に入り、たとえ変わり果てた姿になろうと『大事な家族』と認識できる相手のことを、あとからはっきりと思い出せなくなるでしょうか? ――あなたに限っては考えにくい。家族が大事なあなたなら」
織葉の顔を覆う包帯の眉間辺りが、ひくりと僅かに動いたような気がした。
「何か隠しているのではありませんか? それが意識的かどうかはさておき」
「おっしゃっている意味が、よく分かりませんが……」
「あなたが抱いていたのはお姉さんだけですよね?」
今度は気のせいでもなんでもなく、明確に、視線が交錯した。
「誰が言い出したのか知りませんが、結果として三体とも燃え尽きなかったから『遺体を護っていた』と言われているだけで、あなたは実際にはお姉さんを抱きしめていただけなのでは?」
「――分かりません」
「残念ですが、そんな主張は通りませんよ。お姉さんの遺体は他より明らかに損傷が少なかったという結果がありますから」
視線は交わされたまま、織葉は何も言わない。
ワタリの予想通り、外野にも殊更な反応はなかった。カウンセラーを連れてきた吉岡が教えたとでも思っているのだろう。当の吉岡の方も何も知らないので、ひょっとしたら横で青くなっているかもしれない。どんな手を使ってもいいと言ったのは向こうだ。
「仮にあなたが『冷静さを欠いていた』として、咄嗟に姉だけを抱きしめようとするのは、一体何故なんでしょうね」
織葉を取り調べた刑事が三つの遺体の差を認識できていたなら、これは既に聞かれているかもしれない。ただ、それ以上はおそらく誰も踏み込まなかったはずだ。確かなアリバイと身辺調査の記録が出た時点で、その先は必要とされなかっただろうから。
多様性を謳う一方で、未だ世の中が頑なに排除しようとするもの。
自分が楽になるよりも、家族の問題を解決するために答えを求めるような男には、事実がどうであれ、効く。これまでの全てがどんな名優も舌を巻く演技であるなら、なおのこと。
その証拠に、無機質だった視線にはいつの間にか感情が兆していた。ワタリは気を良くした。
「あなたにとって、家族と認識できるのはお姉さんだけだったのではありませんか?」
「それはありません」
「そうでしょうか。――お姉さんが成人してから結婚するまで、二人で暮らされていましたよね?」
「親戚と折り合いがよくなかったものですから」
「お姉さんの結婚から十数年経つ今でもあなたは未婚だ。たしか交際している方もおられない」
「仕事が忙しいだけです」
「毎週末はお姉さんがあなたの面倒を見に泊まりに来ていたとか」
「私は何度も控えるよう言いました」
「あなたのお姉さんを犯した男も、あなたじゃない男に種付けされて出来た子供も邪魔だったのでは?」
そして、不意にその瞬間は訪れた。
今となってはただの重石と化していた手がはねのけられる。あるいはただ邪魔だったのかもしれない。ガタンと大きく椅子を鳴らすには。窓を背にしたワタリからは、急に部屋が翳ったように感じられた。
織葉には被害者遺族という立場がある。正しさを崇め悪を誅すことを教える社会に生まれ、その秩序を護る職にあるなら、これから目の前で起きる光景のねじれは少なくとも
ワタリはゆるりと顔を上げた。感情を知らなかったはずの赤く血走った目が、見開かれたままひどく高い位置からワタリを見下ろしている。
激昂した患者から身を護るための抵抗――を装って、薄く絶対的な壁を崩す。
「三十六にもなってシスコンとか、きっついおっさんだな」
そして、織葉は無言で後ろに倒れた椅子を起こし、元の通り着席した。
「いや、なんでだよ!」――と、大声で叫ばなかった。顔にも出さなかった。ただその薄ら笑いの下で、ワタリはひどく慌てた。「そこまでやったなら次は掴みかかれよ!」と、こちらから上着の襟をひっつかんでやりたかった。――そうすべきだったのかもしれない。
「刑事さん。姉の遺体だけ損傷が少ないことは、広く公開されている情報ですか」
少なくともそうしていれば、元の通り感情を失った織葉が、振り向きもせず背後の二人にそんな問いを投げるのは防げた。
案の定、織葉を連れてきた若い警官たちは顔を見合わせるばかりで答えられない。
「あーその、それは」
答えはワタリの横斜め前から上がった。
「カウンセリングに必要な情報だろうと判断しまして、私の方から事前に……」
「私は許可していない」
吉岡のへどもどした助け船は、鋭い一声であえなく切り捨てられた。抜き打った男は切り捨てた方を見もしない。
「遺体の取り扱いについては慎重に行う旨を聞かされていました。警察の協力者とはいえ無関係の第三者に公開するのは、遺族の同意が必要な案件ではないのですか」
「えっ。ええっと、まぁ――それはそうかもしれませんが――」
「警察の対応については、後日然るべき場所に訴えます」
念入りなとどめで一斉にざわつき始めた三人の
「あなたのことも名誉棄損で訴えます。こちらに名前と連絡先をご記入ください」
ただ今度差し出されたそれは、裏返しだった。カルテと一緒に転がっていたペンとあわせて目の前に置かれる。それが冗談や脅しの類ではないことは、動作に染みついた『社会』が嫌というほど理解を叩き込んでくる。
――男は良くも悪くも骨の髄まで普通の人間であり、その武器は
であれば頭のてっぺんからつま先まで余すことなく無駄でしかない巨躯を恨めしく思いながら、叩かなくても一身埃まみれの闇医者は顔を引きつらせた。
「や――やだなぁ。はは。説明したじゃあないですか。カウンセリングの一環ですよ」
「そんな主張は通らないでしょう」
どこかで聞いた台詞だった。
ただそれを言った男のにやけ面と違い、こちらはにこりともしない。
「あなたは何一つ結果を出していないのだから」
あらゆる立場で全くその通りの男には、最早返す言葉もなかった。
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