第三話(前)

「あれからも警護や送迎なんかは続いてますがね、別に変わったところはありません。午前中に出頭、夜まで取調べ、終わったら郊外の自宅アパートに帰宅、と」

 五十絡みの小男は、ヒゲ一本生えていない丸い顎をさすりながら言った。探るように頭のすぐ上をさまよっていた視線が、目の前の椅子に腰掛けた白衣の青年に落ちる。

「帰宅後はどうなんです? 深夜に一人でどこかへでかけたりとか」

「ありませんよ。買い物なんかも前に話した通りで。帰宅してからは外にゃあ一歩も」

「身辺警護をしている間は、ですよね?」

「ええ」

 それじゃ意味ないんだよなぁ――と愛想笑いの下でワタリは独りごちた。

 ディスカウントストアで七十八円のカップ麺を買わされてから数日後。情報屋の協力で、ワタリは例の織葉進作という疑惑の男を囮を使って二十四時間監視することに――ならなかった。

「話が違う」

 日を改めて完全個室制の居酒屋に呼び出されたワタリを待ち受けていたのは、「引き受けるとは一言も言ってませんけど?」という先客の一言だった。

「君がそんな冷たい心の持ち主だったとは」

「お? 誰のせいでそうなってるんですっけ?」

冷たいって言ってるんじゃないか。自分の神秘こせいとの付き合いで苦労してるのは、別に世界中で君一人ってわけじゃないだろうに」

「え?」

 先に来てお通しに箸をつけていた情報屋の女は、きょとんと対面の男を見返す。念のため言い添えておくと、別に彼女は世界中で自分だけが苦労していると思い込んでいたわけではない。

「センセもそういうの何かあるんですか?」

 だったらなんで呼び出したんだ、という問いより先に灰皿を手繰り寄せた男の口から出た言葉が、ただただ想定外だったのである。

「こういう場合だとちょっとね。ハズレたときウマくないんだよ」

 思い返せば、数ある節約術の中からこの男を選んだのは、少なからず自分に似たものを感じたからだった。だが、それは今となっては正しくなかったのだと思う。

 彼は自分以上に神秘について多くを語らない。ともすれば、そうであることを忘れるほどに。

 だから、情報屋はひどく落ち着かない心地がした。たとえ何気ない調子であっても、言いづらそうなところを茶化すのはおろか、商魂をたくませる気すら起きなかった。

「……いや、だとしても『じゃああたしがやります!』とはなりませんからね」

 本来は揺れ動くことすらあり得ない天秤の皿を取り上げる。一瞬でも傾ききらなかったことを残念がるように、男は笑って煙を吐いた。

「危険なときは最大限助ける努力をするつもりだ」

「理系のインテリ覗き魔に何ができるんすか」

「それはいざというときのお楽しみ」

「あたしの命、そんな安くないんで」

 こうなってくると、最早悪質なセールス同然だった。しかし根気強さ以外に勝算の見込めない売り込みは、そう長く続かなかった。

 その席に合流したもう一人の客――『麻布のパパサン』こと、吉岡という中年刑事のために。

「いやー、お待たせして申し訳ない! お、そちらが例のさんで?」

 思わぬ珍客の登場は、医師法を始めとする数多の法を破り散らかしている男に逮捕をちらつかせて抑止するため――ではなかった。

「織葉は事件前、出張で一週間ほど四国にいたんですわ」

 頼んだ料理が出揃った机の上へ、デザート面で並んだのは事件に関する調書の数々。

「事件当日は出張帰りで、午後休とって土産を渡しに東雲家に向かったとか。ヤツの上司やら取引先から裏が取れてます。三人殺して火をつけるなんてヒマはとてもない」

 四本目の紙巻に火をつけた男は「人間だったら」と胸中で付け加える。

「あらかじめ殺しておいて、あとからなんらかのトリックで火をつけた可能性はどうなんです?」

「それが仮説として採用できるような証拠がありゃ、織葉は容疑者のままだったんですが」

 誰かさんの緊張ぶりが可愛らしくなるほどのその違法行為を日常的に見ている女は、先ほどからずっと黙っている。カシスオレンジで流し込む唐揚げや海鮮丼で口が埋まっているからだろうか。そうでなければ、彼女はこうなることを見越していたのだ。

「現場の調査や周辺への聞き込みなんかのあらかたの捜査はね、もうひゃっぺんはやってるんですよ」

 いまや科学は、肉眼では捉えられない痕跡からすら個人を特定できるほどに進歩している。実際、ワタリが見た解剖記録も吉岡が持参した調書も、これ以上ないほど調べ尽くされていた。

「なのに――犯人に繋がる証拠が何ひとつ出ない」

 だというのに、これらの人の努力の結晶はなんの意味も結ばず、ゆえに今この瞬間も警察は奔走しているのだという。さらなる情報を求めて、見えない壁にぶつかり続けている。

 ――『ありえない』という壁に。

「あんたも『魔法使い』なら何かできるんでしょう?」

 人はその壁を越えられない。

 人が神秘を虚構にしたのは、その実態しくみ受容りかいできないからだ。だから受容できないものを自分の認知に押し込める。新しく既知の名前を付ける。その結実が人の理であり、結実したがゆえに、それは限界かべとなる。

「近頃は挑戦することに意味があるだとかなんとか子供に教える親や教師もおりますがね、そんなもん社会では通用せんのですよ。なんぼほど努力しようと、やりかけの仕事なんか誰も誉めちゃくれませんでしょう? とどのつまり、世の中ってのは結果なんです。だからね」

 思わぬ珍客の登場は、黙々と胃を満たしていく彼女が難を逃れるためにとったれっきとした手段だった。

「私は事件を解決できるなら、使と思っとりまして」

 よりコスパに優れた選択肢を提示する、あるいはコストを重くするという手段。

 だが、これはリスクの押し付け合いなのだ。どれだけ即物的な報酬を積まれても彼女が天秤を傾けなかったように、ワタリもまた即物的な報酬、あるいはペナルティで判断を変えることはない。

 ――そのはずだった。

「なんで火をつけたんだ」

「は?」

 件の会席から今日までの空白期間の話を続けていた吉岡は、怪訝そうに目の前の男を見返した。しかし当の男の目は、記憶の中の机に広げられた調書の文字列に引っかかっていた。

 火災原因調査。

 奇妙な遺体に関する相談を持ち掛けられ、街で流行っているうわさ話を問う形で情報を求めたワタリが、目の前に出されてなお気に留めていなかった情報。

 曰く、出火場所は家の中。家中に灯油が撒かれた形跡あり。直接の出火原因は不明ながら、事故ではなく故意の放火の可能性が高い――。

「なんでって……そりゃ証拠を隠蔽するためでしょう」

「でも、警察の捜査って行き詰まってるんですよね?」

 常人からすれば因果関係のねじれた問答に、刑事は顔をしかめた。

 科学は、限界こそあれ決して神秘の劣悪な模造品ではない。火をつけるだけで完全に証拠を隠滅できるなら、全ての犯罪が放火に着地するだろう。

 にもかかわらず、捜査は行き詰っている。犯人に結び付く証拠を発見できないがために。

 それはつまり、犯人――駆除者が、人の理の外にある手段神秘を使ったということを示す。

 なら、わざわざ火をつけて証拠を隠滅する必要などない。放っておいても捜査は遅かれ早かれ同じ結果に行き着く。

 吉岡の言うとおり、放火は証拠を隠滅する目的で行われたのだろうか。東雲家の事件は、少なくとも犯人の視点ではただの『殺人事件』だったから――胸と首という狙いすました損傷を負った吸血種の遺体が三つもあるのに?

 放火ないし使われた火自体が神秘で、証拠を完全に隠滅したという可能性はどうか。火災の調査記録に解剖記録のような『認知の修正』は認められなかった。念のため、関退連にも知り合いを通じてそれとなく探りをいれてある。彼らの動きはおおむねワタリの予想通りで、織葉のおの字も知らなかった。

 ならば、残る可能性は――。

「だからあんたがにいるんでしょうが」

 ワタリを思考の渦から引き上げたのは、応接室のドアをノックする音だった。反射的に音の方へ顔を向けると、小窓のすりガラスの向こうに複数の人影が見えた。

 机の上に散らかしていた書類を手元にまとめ、椅子の向きを直す。ワタリは吉岡に答えを返さぬまま、

「どうぞ」

 と、廊下の人間たちを招いた。

 ガチャリと音を立ててノブが回る。ドアが押し開かれる。いくつもの地味な色のシルエット。閉じ込められていた静寂が逃げだすように、取調室ほどの狭い部屋はにわかに騒がしくなった。

 近くで吉岡が居住まいを糺す気配がする。

 ワタリは応接セットの椅子から立ち上がり、入ってきた人間を見て――ほんの一瞬、言葉を失った。

 スーツと制服の警察官二人を背に、テーブルを挟んでワタリの前まで歩み出たのは、一人の男。

「本日はお世話になります。――織葉進作です」

 男は深々と頭を下げた。

「ハズレたときウマくないとか言ってたのはなんだったんすか」

 情報屋の女がそう言ったのは、支払いを引き受けた刑事と店で別れ、駅へ向かう道中だった。

 二人の男が隣で――厳密には片方の男が割と一方的に――話している間、彼女はずっと黙って箸を進めていたが、その顔色にはわずかな変化があった。兆しは、刑事の無茶苦茶な頼みを白衣の男が引き受けた辺りからだ。

 ――分かりました。では、とりあえず織葉さんに会わせてもらえますか?

 その言葉を待っていたとばかりに破顔した刑事の横で、彼女は複雑な表情を滲ませた。

 上手く難を逃れた喜びと、あれほど頑なに神秘頼みを拒んでいた男がころりと態度を変えたことへの不信感。あるいは、自らの経験から想像しうる『苦労』を偲んでの申し訳なさ。

「なんだったもなにも、ハズレたときはウマくないよ。本当さ」

「だったら」

 それとも、これまで築いてきた関係、日頃世話になっている男の生業を危うく壊すような真似をしたことを気に病んだのか。

 いずれにしろ、彼女は白衣を一歩遅れで追いかけながら耐えかねたように呟き、躊躇うように半端な口を閉じた。だが彼女の憂いとは裏腹に、どこか足取りの軽い男は振り向かないままおどけたように答える。

「君のパパさんのスピーチにいたく感銘を受けて、心動かされたのさ」

 およそ冗談めいた口調に似つかわしくない言葉を。

「重要なのは結果であって、過程はどうでもいいってね」

 余計な修辞が削ぎ落されたからこそ、それはぞっとするほど鋭い響きを持っていた。

 散らばった削りかすの中には、『社会』や『世の中』という単語がある。年を取った人間特有の、ただ多いだけの経験値から導かれた字面ほど意味がない誇張だろうか。そうでなければひょっとして、そういう単位で表されるほどの人間が、本当にそんな残酷な気持ちを隠し持っているのだろうか。

 彼女は嘘を知ることができても、その嘘が何を隠しているのかまで知ることはできない。

 すれ違った酔っ払いの懐に不意に刃物を見つけてしまったような顔をした女に、ワタリは白衣の肩越しから悪戯っぽく笑いかけた。

「要はさ、ハズレてもウマくなる結果を出せばいいんだよ」

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