第二話

 数年越しの再会は、結局当初の予定通り、旧交を温めるような内容にはならなかった。

 それどころか、設定された利用時間よりも大幅に早い退室は、若い男女二人の入室を勘繰った者にすらその逢瀬が最後であることを予感させただろう。

「今日はありがとう。久しぶりに話せて良かった」

 実際、「朝の講義があるから」と切り出した女は一度も時計を見ていなかったし、

「僕もだ。何かあったらまた連絡してよ。もちろん何もなくても連絡してくれたら嬉しい。昔みたいに――」

 それに目をつむった男に返ってきたのは、ドアの開閉音だけだった。

 後日、診療所へ警察が訪ねてきたりはしなかった。もちろん、某有名私大の女性監察医が情報漏洩などというニュースが世間を騒がせることもない。世間の関心は、猟奇殺人であることが明かされた東雲家の事件と、翌月中旬に行われる衆議院総選挙関連の話題で二分されている。

 ニュースサイトやSNSを開くときには、対して興味のない選挙やろくすっぽ名前も読めない芸能人関連の記事を開く悪癖こそついたものの、ワタリはそれまでどおり金払いの悪い亡者の相手をする日々を過ごした。

 ――とはいえ、本当に全くそれまでどおりだったかといえば、大いに語弊がある。

「なぁワタリ先生、知ってるかい」

「そういえば、先生、先週の火事の話聞いてます?」

「あらァ、ワタリちゃんったら知らないのォ?」

「ねー聞いてよ、わたりん! お客さんにガチでヤバい話聞いちゃってさぁ」

「――十月十六日土曜、午後十二時半ごろ。港区高級住宅街に建つ一軒家で火災が発生。出火原因、出火時間は不明。炎は通報から一時間ほどで消し止められたものの、家屋はほぼ全焼。焼け跡から住んでいた家族とみられる三名の遺体――と、が保護された」

 黒と黄色のポロシャツに身を包んだ若い女が、放送原稿でも読み上げるように淡々と言う。彼女は幼児ほどの大きさの段ボール箱を小脇に抱え、一袋百円もくだらないスナック菓子をめんどくさそうに菓子山へ積み上げていく。

「――っつー話に巷じゃなってますケド、厳密には消火活動の最中。消防隊の到着を待てずに、燃え盛る家の中に入ったが保護されたそうっすよ」

 箱の中身が空になると、八つ当たりでもするようにそれを潰す。足元に置いてあった別の段ボールの上にのせ、一抱えにして歩き出す。飾り気のない黒いスニーカーが向いたのは、抱えた段ボールに印字されたカップ麺の売り場だ。

「あとはまぁ、概ねウワサ通りっすわ。炎の中で遺体が燃えないように抱きかかえてて、かけつけた消防隊が保護したときには、立って歩くこともできるくらいぴんぴんしてたーとか」

「なんだよそのバケモンは」

 品出しを続ける女の斜め後ろを歩いていた男――ワタリが呆れた声をあげた。両手を白衣のポケットにつっこんだまま、『生存者』改め『通報者』のくだりからずっと胡散臭そうに顔をしかめている。

 新宿駅東口より徒歩五分。大人のおもちゃ箱のような巨大ディスカウントストアがそびえ立つのは、歌舞伎町の入口。ワタリもまた診療所を構えるその街は、言わずと知れた東洋随一の歓楽街だ。夜空から星を消すネオンサインに金と快楽を求めて人が集まり、欲望の潤滑油として酒が酌み交わされれば、森に雨降って湧く清水のごとく、情報は自然とよどむ。それも耳の肥えた夜の住人たちを楽しませるべく各界から持ち込まれた、とびきりセンセーショナルな情報が。

 平生であれば寄る辺ない身を支えるはずのそれは、今回完全に裏目に出た。デジタル的情報テロは自衛できても、闇医者が接客業の側面を持つ以上、アナログのそれを同じようにとはいかなかったのである。

 誰かの善意や厚意、あるいは虚栄心が『世間で話題になっている事件の秘密』を語るたび、ワタリはあの密室のことを思い出してしまう。

 ――自分が何言ってるか分かってる?

 ――それでも医者なの?

 ――あなた、変わったわ。

 どんなに綺麗に切ろうが埋めようが、その跡は消えたりしない。大きな手術痕が一生消えないみたいに、違和感は必ず残る。

 ワタリが『情報屋』を頼るのに、時間はそうかからなかった。

「――通報者は織葉おりば進作しんさく。三十六歳。東雲家の奥さんの弟で、豊島区で会社員やってるオッサンです」

 どん、と半ば落とすように床に置いたダンボールの前にしゃがみ、彼女は良く言えば豪快な、悪く言えば乱暴な手付きで開封作業を始めた。

情報源ソースは?」

「麻布のパパサン」

 すれ違った中年の女性客が、一瞬怪訝な顔でこちらを見た。ワタリが横目で見返すと、女性客は慌てて前を向き直り、足早に去って行った。

 高校を出たばかりか大学生になりたてかと思しい彼女の容姿も相まって、はたから聞くといかがわしいことこの上ないが、彼女の『小遣い稼ぎ』は世間が想像するそれとは少し違う。

「捜査本部がある所轄の刑事サンですよ」

 曰く彼女の人生の一番初めの記憶は、言葉もおぼつかない彼女をつれた母親が学生時代の友人に会った場面だという。

 結婚を機に家庭に入った母とは対照的に、企業の重役秘書を務めているという友人は、化粧っ気の強い顔でベビーカーを覗き込み、満面の笑みでこう言った。

 ――わぁ、かわいい。

 彼女は、生まれて初めて頭痛を経験した。それに伴う激しい嘔吐も。

 母親はすぐに友人との歓談をやめて、娘を病院へ連れて行った。診断の結果は幼児にありがちな軽い風邪。よって、処方された薬を飲めばすぐに良くなる――と、誰もが信じて疑わなかった。

 母親が毎週楽しみにしている視聴率の悪い恋愛ドラマを横目に見なければ。一人でお風呂に入れるから大丈夫とせがんで夏の心霊番組を見なければ。留守番中にやってきた訪問販売員に笑顔を向けられなければ。絶対誰にも言わないからとクラスメイトが好きな人を聞き出そうとしなければ。

 ことあるごとに娘が『風邪』で寝込み、母親がその看病に追われるほど、家を空ける日が多くなった父親の言い訳を耳にしなければ。

 両親の離婚が決まった日、『生まれつき体が弱い』娘は気が付いた。泣きはらした目でこれからのことを話す母親は、子供の話などまともに取り合わなかったが――。

 『風邪』の原因トリガーは『他人の嘘』だと。

 そういうわけで、彼女は自分と周囲の人間の人生をめちゃくちゃにした人のかがくでは説明のつかない事象――神秘から賠償金こづかいを取り立てているのだ。

 『他人の嘘を感じる能力』を、必要とする人間に『適正価格』で売るという形で。

「てか、世の中に興味持つなんて珍しいっすねセンセ」

「その言い方だといつもは興味ないみたいじゃないか」

「だっていつも何話しても生返事だし」

「返事があるのはちゃんと聞いてる証拠だよ」

「じゃあ次の選挙どうなりそうって話したか覚えてます?」

「たしか西軍は東軍に対して人数で圧倒的優位だが、西軍とは名ばかりのどっちつかずで日和ってた一部がケツ叩かれて寝返って西軍総崩れ――結果東軍の歴史的大勝利だろ?」

「何の話してんすか?」

 鼻で笑われた。あとに残った微妙な空気を追い払うように、ワタリは大きく息をついた。

「――とにかく、僕は東雲家の件が本当に『金持ち一家が殺された』ってだけの事件なのか知りたいんだ。他に知ってることがあれば話してくれ」

「と、言われましてもねぇ……」

「僕の煙草一箱つけるからさ」

「センセの銘柄ヤツなんか要らねっすよ。どうせならもう一か月延長とかにしてください。いっそ無料タダでもオッケーです」

 夜の街の片隅で診療所を開く男といくつものバイトを掛け持ちしながら都内の大学に通う彼女が知り合ったのは、持病の『風邪』を抑える薬にかかる費用を少しでも抑えたい患者とその手段を提供できる者としてだった。

 普段なら『世間話』の内容に応じて割引するそれを、今回は『商品』と引き換えに一定期間無条件で半額――彼女にしてみれば、これ以上ない適正価格だろう。

「そこは君次第だなぁ」

 その上まだイロをつけられるというのなら、たとえ袖がなくても振りたい――と思うのは人情だ。

「ならちゃんと聞いてくれないと。出せるもんも出せませんて」

「吸血種」

 彼女は、そこで初めて迷惑な客を振り返った。

「焼け跡から出た遺体は、首を切られて胸を潰されていたってニュースでやってただろ?」

「いや……だからって吸血種ってことにはならんでしょ」

 創作における『吸血鬼』は、怪物の花形といって過言ではない。

 吸血と多彩な特殊能力で人類を蹂躙し、敵対者と壮絶な戦いを華やかに繰り広げる不死の夜王。だから、――『吸血種』の現実は悲惨だ。

 変身や魅了といったプラスの特殊能力こせいは、『吸血鬼』から位階が離れるほど得難くなり、繁殖能力でさえ――吸血鬼を第ゼロ位とした場合の――第二位までしか残らない。その一方で、日光や銀などマイナスの特殊能力は残り続け、首を切って胸を潰すという死の理に至っては上から下まで例外がない。

 この世で最も弱い生物にさえ下剋上を許す現実は、彼らを人の輪から追い立てる。ゆえに吸血種の多くは、自らを殺し得る一億人のエサから隠れ暮らすのが通例だ。遺体とはいえニュースに載ることなど、ほとんどありえない。ワタリとて生天目が持ち出した解剖記録を見なければ思いもしなかった。

「まぁ、可能性の話だよ」

 とはいえ、まさかここで「遺体を見たんだよ」などと口にするわけにはいかない。品出しにいそしむ彼女の棚に商品を並べては本末転倒だ。できることなら吸血種という単語すら、こちらから口にしたくはなかった。

「けど、そう考えたらその織葉とかいうヤツががぜん怪しく見えてこない? 人体ってのは、家屋がほぼ全焼するような火事の中で何十分も生きていられるようにはできてないんだ。空気中の一酸化炭素濃度が一.二八%以上なら、一二分で――」

「専門的なことべらべら言われても」

「教養科目とってないのかい」

「んなこと教える科目に心当たりがありませんね。あとあたし文系なんで」

「じゃあ、文系的には通報したあとわざわざ燃えてる家に飛び込んで、首と胴のセットを抱きかかえるってどうなのさ? おかしくない?」

「どこぞの国で偉い人が狙撃されたとき、となりに座ってた奥さんだか誰だかが、必死に飛び散った脳ミソ集めてたって話もありますし」

 この街に情報屋と呼ばれる人間は数居れど、神秘を知るという点を含めるなら、ワタリの交友関係では彼女が頭一つ抜ける。その彼女にここまで譲歩して何も出ないなら――この話はきっとここまでなのだ。

 ――あなた、変わったわ。

 もう調べる方法はない。できることはすべてやった。最善を尽くした。

 だからもう十分だろ、と祈るような心地で声もなく返す。

「あ、でも」

 これ以上の情報は見込めないと踏んだワタリが、報酬についてまとめようと口を開いたときだった。

「でも?」

「織葉サン、全く嘘ついてなかったんですよね」

「待ってくれ。君、織葉に会ったのか?」

 品出しを続ける彼女はしまったとでも言いたげに一瞬身をすくめて、もの言いたげな目でおずおずと背後の男を振り返った。男はすかさず片手の人差し指を立ててみせる。

「もう一か月」

 鍵の回りは悪かったものの、商品棚のロックは解けた。

「……なんか『精神的な問題』で通報してから保護されるまでの記憶が曖昧になってるらしくて、証言が思うように引き出せないから、ちょっと見てくれないかって頼まれたんすよ」

「それで」

「さっき言ったとおりです」

「いや、あのですね……」

 彼女の能力は受動的だ。頭痛薬を飲む飲まない以外には、彼女の意志で制御できる類のものではない。だから彼女は、能力の発動を頭痛の有無で理解することしかできない。それが『いつもの』なのか、別の不調になのかを区別することすら、彼女が長年培った感覚頼りで。

 その上、明らかに事実と食い違った話をしていたとしても、相手が自分の言葉を真実だと思い込んでいる場合というのがある。彼女の神秘はそれを嘘とは見なさないらしい。

 下手な占い師より多種多様な人間と対峙してきた彼女曰く、極めて非日常的で不安な体験をした人間には、そういうことはままあるのだという。

 猟奇殺人事件の遺族ともなればなおのことだろう。自分の言葉の何が真実で何が嘘なのか。そんな判断もつかないほどに精神が萎えている。そう考えるのは、決して不自然ではないのだが――。

「つーか、それ以前の問題です。吸血種だったらいくらあたしでも一目見りゃ分かりますよ。息してないとか、体温が低いとか、日のある時間帯は出歩かないとか。絶対どっかおかしいですもん」

「第一位だったら?」

 旧友との再会という非日常的な体験を経て不安に追いやられた男は、『もう一つの可能性』に興味を引かれていた。

 何も知らない人間が情報屋の彼女の体質を知ったとき、彼女をなんと表現するか。

 薬を常用していることから、病人という人がいるかもしれない。人とは違うものを持っていることを指して、変わった人というかもしれない。娯楽作品好きなら、超能力者だとか異能者だとか、心当たりの固有名詞を使いたがる。――だが少なくとも、一言目に『化物』という単語を使う者は少数だろう。

 今ここで滑って転んだとしたら怪我をする。骨を折るかもしれないし、血を流すかもしれない。治癒するにはそれなりの時間がかかり、打ち所が悪ければ最悪死ぬことだってあり得る。そんな――他人の嘘に頭痛を覚える体質以外、その他大勢の人間と違いのない彼女を、化物と呼ぶ者は。

 では、首を切って胸を潰さなければ死ぬことのない者はどうだろう。同じように、何も知らない人間が彼らの性質を踏まえて表現するとき、果たして『化物』という単語を使わずにいられるだろうか。

 この二つの間に生じる差。――すなわち、神秘の度合い。

 ただの意識の差ではない。あるいは、目には見えないものであるからこそ、意識の差は重要な意味を持つ。

 彼女の場合は――より度合いの高い神秘を持つ者の嘘は検知できないという意味を。

 いつの間にか彼女はカップ麺を手にしたまま、白衣の男の方を向いていた。三白眼気味の大きな目がじっとりと頭一つ分高い男の端正な顔を睨む。

「センセ、退魔師たいましにでもなるんすか?」

 人々が信仰の光明を失ったこの暗黒時代、月の無い漆黒の闇夜よりなお暗き無意識の闇を駆り、生まれ持った類稀なる神秘の異才をもって悪しき怪異を討つ、峻烈にして怪々奇々なる世界救済の宿命に選ばれし存在、此れ即ち我ら『退魔師』なり――。

「なんの冗談だよ」

 関東かんとう退魔師たいまし連盟れんめい――通称・関退連かんたいれん――公式SNSの目が滑るプロフィール欄を思い出しながら、男は呆れたように肩をすくめた。

 迷惑な客の口が閉じたのを認めると、彼女は不機嫌そうに鼻とスニーカーを鳴らして黄色の背中を見せた。

「――その冗談みたいな連中のアンテナに引っかかってないんですよ? 疑うまでもないじゃないですか」

 口調の端々に見え隠れするトゲに、ワタリはもう一度小さく肩をすくめる。

「前から思ってたけど、君って関退連を嫌ってるわりには信用してるよね」

「そりゃできることならあたしだって迷惑系陰謀論者オカルトサークルとか指さしたいですけどね」

 それができないのは、彼らが彼女とだからだ。

 ないことの証明は極めて困難だが、逆は驚くほど簡単だ。百聞は一見に如かず。無視できないほど身近に――その身に科学では説明しがたい事象を持つ人間なら、同じような事象を自分とは無関係の虚構フィクションと捉えることは難しい。

 足の早さや芸術的感性のように、先天的に神秘の資質を持つ人間。そんな社会的少数派マイノリティの中でも、自らの才能ギフテッドを世のため人のために役立てようと考えた者を『退魔師』と呼ぶ――というのが『彼ら』の言い分である。あくまで『彼ら』の。

 実際にやっていることといえば、神秘絡みの自警団活動とでも表現すればいいのだろうか。

 西に毎年夏ごろ土着神の怒りで荒れる川や山ありと聞けば行って鎮め、東に子供を追い回す口の裂けた女や人面の犬ありと聞けば行って退治してやる。――関係者以外立ち入り禁止の工事現場に無断で忍び込んだり、不審者や有害鳥獣の通報を受けてやってきた警察や役所の邪魔をしたりしながら。

「けどさ、関退連の主な情報源ってネットだろ?」

 彼らは多くの人間にはない才能を持ってこそいるが、あくまでなんの権限もない一般人だ。当然退魔師一本で食べている者はいない。だから兼業やをしてくれる近親者を失う可能性があるような方法での調査はできない。ついでに情報取集に宛てるだけの何かも色々と足りていない。

 結果、彼らはその制限や不足を文明の利器で補うのだ。現代人らしく。神秘にまつわる活動を支えているのが人の理の力というのも、なんともまぁ妙な話ではあるが。

「東雲家の事件についてネットで流れてる情報は多くないし、情報を集める手段がないからスルーしてるだけかも」

「そーいうセンセは、なんでスルーできないんですー?」

「ほら、僕って東京生まれ新宿育ちワルそなヤツは大体僕の患者たちみたいなところあるから」

「ふーん……」

 定期的に診療所へ足を運ぶ彼女であれば、その言葉がただのおふざけでないことは理解できるだろう。ただ横目の湿度は相変わらずだ。

「まぁ、本質的には君と同じ気持ちなんだよ」

 だからこそ、ワタリはわざわざそう言った。

「追加報酬は払うからさ、ちょっと僕らで調べてみない? 織葉が本当に第一位の吸血種だったら関退連に駆除頼めばいいんだし」

?」

 そもそも神秘である吸血鬼では叶わず、位階が下がるほど特殊能力こせいが減る第二位以下では望むべくもない事象がある。知識ではなく経験として人間を知り、吸血鬼おやと遜色ない特殊能力ちからを持つ吸血鬼に直接嚙まれた元人間第一位にのみ赦された技巧――。

「趣味は日焼けとシルバーアクセ、毎週日曜日はミサ、好きな食べ物はニンニクマシマシアブラカラメ、お会いできて光栄ですこれから仲良くしてくださいって暖かい手で握手を求めるようなヤツですよ?」

 

 それはどんな華麗な特殊能力より猛威を振るう。

 なぜなら、陽光の下を歩き、触れた肌は温かく、呼吸する者を人は『人』と呼ぶからだ。人の首を切って胸を潰すという凶行を、人の理は許さない。社会性の礎に、人は同族殺しを禁忌として打ち込まれる。

 退魔師というメッキの勲章も、それをぶらさげる者が人間である以上、禁忌の前にはガラクタの本性を現す。

 そうして人が手をこまねいているうちに、人類の脅威てきは人の顔をして人を殺す。

 隣人が狂人であるかもしれない、その可能性。

 それはあらゆる化物を虚構にした現代人にとって、質感を伴う恐怖になりうる。

「そんなヤツ、吸血種かどうかを確かめる方法なんてあるんですか?」

 だから彼女はずっと密かに、しかし頑なにワタリの疑念を拒み続けたのだ。箱を開けさえしなければ、存在は確定しないから。『いる』ことを認めさえしなければ、『いない』ことと同じだから。見えないものは存在しないものだと定義づけた無辜の人々のように。

 どんな固い理を敷こうとも、恐怖はそれを壊す。彼女にこれ以上の協力を求めるのは、いくら報酬をはずんでも容易ではないだろう。

 だから、この話の終わりはここなのだろうか。

 ――だって、他の仕事に就いてるところが想像できなかったから。

 ワタリは片手を口元に持っていった。指の間に唇の無聊を慰めるものはない。望む結果を手に入れる頼りは、微かな残り香だけだ。

「全くないわけじゃない」

 その独白めいた呟きに、情報屋ははっとワタリの顔を見た。そして答えるようにつぶやきを返す。

 それまでの必死の抵抗が嘘のように、その顔には納得を伴った期待の色が差しこんでいた。

 かつてのワタリが周囲の顰蹙を買ってなお、禁忌肢の前に膝を折らなかった理由は単純だ。――そうする必要がなかったから。高名な先達や優秀な仲間たちが手を出し尽くした末に膝を折る中で、ワタリにはまだ出せる手があったのだ。

 説明したところで誰一人理解できない、多くの人間が持っていない手を。

「そうだ――そうっすよ! 完璧に人に擬態するっつったって、結局人間じゃないんだから、センセが中身見りゃ一発じゃないっすか!」

「まぁそれもいいけど、二十四時間監視して現行犯を押さえるのがコスパ最強でしょ」

 ワタリが口元にやった手をポケットに戻しあっけらかんと言うと、彼女は『ガクッ』という音が聞こえてきそうな勢いで肩を落とした。

「いやいやいや! それのどこがコスパ最強なんすか!」

「だって擬態は所詮擬態だろ? 吸血種じゃなくなるわけじゃないんだから、ずっと見てればいつかは血を吸うボロが出るよ」

「血を吸われる人は!?」

 正体を暴くだけなら、現行犯を押さえるという方法は確かに間違いではない。だが間違っていないことは果たして正しいことと同義なのか。それは本当に支払わなければならないコストなのか。敵一匹を見つけ出すために必ず減る一人――という言外の意図を汲んだように、ワタリはひとつ頷いた。

「そこで君の出番さ」

「あたし?」

「神秘を知っている人間が囮になれば、その可能性を下げられる」

「いや、あたしは無害な神秘ボコすのが趣味のヤツらとは違うんで。暴力とか異能バトルとか、そういうのはちょっと」

「つまり万が一のことがあっても脅威にならないってことだ」

「……それで納得すると思ってんすか?」

「君、薬代無料タダにしてほしいんじゃなかった?」

「や、四か月半額で結構なんで」

「一年無料でどう?」

 ここで悲しい一拍。

「一生無料でもそういうの絶対NGなんで!」

 これ以上は付き合っていられないとばかりに、彼女は迷惑な客に背を向けて強引に視界から追い出す。ついでに善性とかいうものも爆破しておく。

「仕方ないなぁ」

 追い出された客は、これみよがしに盛大なため息をついた。

「じゃあ、一緒に人類を救う尊い犠牲に哀悼の意を示そう」

 心底残念そうな声音で派手に吹き飛んだ残骸りょうしんを拾い――そして振り向きざま近距離から放たれたカップ麺を、そのにやけ面に受けることとなったのだった。

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