第一話

 ワタリがその電話をとったことにさしたる理由はなかった。

 電話帳という単語が分厚い冊子を指さなくなろうと、見覚えのない十一桁がスマートフォンを鳴らすのは、彼には珍しいことではない。秩序の光も及ばない闇を孕んだ夜の街では、保険証のいらない医者の看板は、極楽から垂れる蜘蛛の糸に等しかった。

 その夜、客足の途切れた未明を狙うようにして鳴った電話も、おおかた血の池に腰まで浸かった亡者の類からだろうと思っていた。

「もしもし?」

「――ワタリ?」

 だから声の主が数年顔も合わせていない旧友であったとき、ワタリは火のついた煙草を膝に落とした。

「ああ、ちゃんと繋がった。良かった」

 長年働き続けた『音信不通』という不義理の報いを、今一人で勝手に受けていることなど、電話越しに伝わるはずもない。

 ただでさえボロのチノパンに焦げ跡を増やした男が悶絶している合間に、友人は学年首席の面影色濃く、てきぱきと状況の理解に必要な情報を並べた。

 最後に連絡を取り合った時に学んでいた私大で教鞭をとる側に回ったという自分の近況。

 大学の同期とその知り合いの医療関係者筋を広くあたってワタリの所在を探したこと。

「――なんで医療関係に絞ったりなんか」

 床に落ちて三秒以上経過した紙巻をくわえ直した口から出たのは、謝罪でも再会を喜ぶ言葉でもなく、疑問だった。

 結論から言うなら、友人の選択は限りなく正解だ。医療が技術や知識を広く共有することを善とする業種であれば、鼠算式の人探しは最も有効な手段に違いない。診療所の設備では手に負えない患者の受け入れ先や店頭では買えない専門的な医薬品の仕入先として、彼はある程度ところにも伝手を持っている。

 だが、かつて親しかった者であるなら――その末路を知る者であるならばこそ、正解を選ぶのはありえなかった。

「君は国試の結果を知らないはずだろ?」

「だって、他の仕事に就いてるところが想像できなかったから」

 何者かが旧友を騙っているだとか、そんな神経症めいた考えはなかったにせよ。

 その至極当然といった返事は、ワタリにとって長年の空白を埋めて余りあるものだった。

「今は歌舞伎町でんでしょう? ――おめでとう。本当に良かった」

 そういう理由わけで、ワタリは潰れたスニーカーに履き替えた。

 情報伝達の過程でどこか歪んでしまった事実を訂正することも後回しにして、そのすぐ後に本題然として持ち掛けられた「夜が明けたらすぐにでも会えないか」という申し出を承諾したのである。

 隠し切れない声音の緊張から、それが旧交を温めるためでないことはすぐに分かった。

 加えて、相手が臨床医学から法医学へ転身した才人であるからには、先に待ち受けるのが『平生ならぬ相談』であろうことも。

 これから朝食を共にするというかしまし娘三人組――というには大人しいのが一名混じっている――とアマネビルの前で別れ、駅から新宿御苑の朝露に濡れた緑を横目に、中央総武線で数駅。

 できれば人目を避けたいと言うので、適当なネットカフェの個室を待ち合わせ場所に提案した。ついでに互いの行動範囲を外れた場所であれば、足もつきにくかろうという配慮も添えて。

 馴染みない街の見慣れぬビルで見知らぬ受付に待ち合わせの旨を告げ、窮屈なエレベーターで個室フロアに上がる。ディストピアを体現したような整然とした廊下は不気味なほどに無音だった。

 部屋番号は、通勤ラッシュ前の電車に揺られている間にスマホに届いていた。該当するナンバープレートが取り付けられたドアをノックする。しばらく待っても返事はなかった。

 約束の時間にはまだ十分ほど早い。まさか遅刻厳禁を再三念押しした側が遅刻――というのはありえないだろう。その証拠に部屋番号がある。

 怪訝に思いながらレバーハンドルを捻ると、ドアは素直に開いた。

 その先にひらけた猫の額ほどの空間にも当然見覚えはない。だが、ネットカフェの個室などどこも似たり寄ったりだ。特筆すべき点があるとすれば、床が一面堅いマット敷きで、土足厳禁の代わりに横になることができるタイプだったこと。

 ――にもかかわらず、彼女は壁に背を預け、膝を抱えてぐったりとしていた。

「――チワちゃん!」

 靴を脱ぐのもそこそこに、ワタリは慌てて個室に入った――が。

 距離を詰めればなんのことはない。スーツの華奢な肩は規則的に動いているし、防音性の高い空間には微かな寝息がすこやかに響いている。

 すんでのところで飲み込んだ大声はそのまま肩でつく安堵の息になった。

 ただ、安否を確かめようと伸ばした手だけは、どうしても行き場を失い――。

「は、ひゃあぁっ!!」

 長い指が腹いせとばかりに寝顔にかけられていたサングラスをつまみ上げる。まどろみから現実に引き戻された彼女は悲鳴と共に飛び上がった。

 幼さの抜けきらない素顔が驚愕や困惑、それから飛び上がった拍子に天板や眠りを妨げたものに手足をぶつけた痛みで歪む。ぶつけられた方も小さく呻いて尻もちをつく。

「痛っ」

「え、ちょっ、なになになに!?――あ!?」

 ひとしきり暴れた末、見開いた目いっぱいに尻もちをついている男を移すと、彼女はようやく落ち着きを取り戻したようだった。

「なんだ、ワタリ……」

「そこ『なんだ』で済ますんだ……」

「あ――いや、だって、電話で話したばっかりだし……」

「だから先に来て寝ながら待っててもいいってこと?」

「べ、別に寝ようと思って寝てたわけじゃないから! あんたがなかなか来ないから、いつの間にか寝てたってだけ!」

 十分前行動も評価点にしない彼女の名は、生天目千和なばためちより

 無職の次くらいに自由な身の男には、想像もつかないほどご多忙らしい大学講師を生業とし、早朝のネットカフェへ面接かくやというお堅いパンツスーツでやってくるかつての同輩だ。

 彼女はこういった場では脱いだパンプスをどこにしまうのかさえ知らないらしく、靴底を横にしてマットの隅に転がしていた。

「サングラスかけたまま? ていうか、なんでサングラス?」

 言いながら、彼女の顔の前でつるを持ってピコピコとサングラスを上下させる。

「それは――その、少しでも人目を避けられれば、と、思って……」

「ずっとかけてたの?」

 生天目千和は才女だ。

 仲間内では一番の成績を収めていたし、教授からの信頼も東京で一番分厚いパンケーキぐらい激アツだった。事実この若さで大学教授なのだから、彼女の能力は客観的には疑いようもない。

 ――ないのだが。

「かえって目立つでしょ」

「う、ううう、うるさいっ!」

 自覚はあったらしく、サングラスを恥ずかしそうにひったくった。

 そういえば、在学中はこんな調子でしょっちゅう言い合って――一方的に噛みつかれていたような気もする――は、仲間内で『狂犬チワワ』だの『チワゲンカ』だのと笑われ、彼女がまた怒るということを繰り返していた。

 彼女が変わっていないことを悟って、ワタリは最後にほんのひとさじ残っていた不安を捨てた。

「だ、大体あんたこそ人のこと言えた義理? 白衣なんか着てきて、そっちの方が馬鹿みたいに目立つじゃない」

「いや、これは普段から着てて」

「普段からぁ?」

 生天目は耐えかねたとばかりに自身の鼻を覆った。

 実はワタリが個室のドアを閉めて以来、煙草と医療機関特有の薬品臭と――それらすべてを蹂躙するような暴力的なまでに華やかで甘い香りが密室を浸食していたのだ。

 一度ついた尻を上げて彼女を覗き込むようにしゃがんだ男を、生天目は怪訝な目で上から下まで見回す。その仕草とまもなく赤くなった頬の意味に思い至ったのか、ワタリは「ああ」と小さく声を漏らした。

「別にセックスしてきたわけじゃないよ」

「せっ――!? なっ、わ、なんにも言ってないでしょ!?」

「友だちに会うって言ったら、知り合いがさ」

 さかのぼること小一時間前。

 目立った汚れや皴のない白衣を脱ぎ、部下が持ってきた新品の白衣を着る診療所の主を見て、幼い娘を腕に抱えた母は狐につままれたような顔をした。

「……何やってんの?」

「着替えてる」

「なんで?」

「これからしばらく会ってなかった友だちに会うんだ。少しはオシャレしないと」

「……えっと、オシャレって言葉の意味わかってる?」

 ――具体的には、もっと着替えるべきものがある。あちこち緩んで伸びきったTシャツとか、その裾で腰履きを誤魔化してなお丈が足りてないチノパンとか。

 彼女は何も言わなかったが、目は口ほどに物を言っていた。

 ワタリはおろしたての白衣の襟を正しながら、盛大にため息をついた。

「仕方ないだろ。こんな時間じゃ服屋なんか開いてないんだから」

 言われてみればこの闇医者、週の半分以上は顔を合わせているにもかかわらず、色や柄が多少違うだけでシルエットは大体いつも同じだ。

 ――しかしだからといって、汚れていない白衣から汚れていない白衣に着替えたってめかしこんだことにはならない――!

 だが悲しいかな。女を除けば、その場にいるのは妥協点が斜め上な当人と、雇用主に従順――かつ容貌の美しさゆえに着飾ることを知らなそう――な女と、大味なキャラクターアパレルを喜ぶ幼い娘だけ。

 それを指摘できる人間もいなければ、指摘したところで「じゃあどうすりゃいいの?」と男が年甲斐もなく口をとがらせて代案を要求してくるのは目に見えていた。

 ゆえに、おそらくその場で一番着飾ることに通じた女は、呆れと噛み殺した笑いを半分ずつにして、ハンドバッグからアトマイザーボトルを取り出したのだった。

「――とりあえず応急処置、だって」

 それが最善手と信じて疑っていない様子の男が話し終えたころには、耳慣れない単語のせいで耳まで真っ赤になっていた生天目は彼に香水を吹きかけた女と同じ表情かおになっていた。

「あんたって、その……」

「何?」

「……なんか相変わらずで安心したわ」

 そしてふと緊張の糸が切れたように笑うのだった。その笑顔を見たのは久しぶりだったにもかかわらず、気付けば自然と笑い返していた。

 しかし長い歳月を越えて顔を合わせた目的がこうして笑い合うためでない以上、暖かな空気は長く続かなかった。

 ワタリが少し距離を取って腰を下ろし直すと、生天目は靴と同じように隅で転がっていたショルダーバッグを自身の方へ引き寄せた。神妙な顔つきで居住まいを糺す。

「一昨日の港区の火事は知ってる?」

 世間に対するワタリの主な情報源は、患者との世間話か暇つぶしに見るともなく見るスマホのネットニュースくらいだ。それでも、彼女の言う『港区の火事』が何のことかはすぐにピンときた。土曜の夕方、現行憲法下で初めて任期満了で衆議院が解散したという歴史的な記事を押しのけて、大見出しになっているのを偶然にも見かけたのである。

「高級住宅街の一軒家から出火して――焼け跡から家族三人の遺体が出たってやつ?」

 彼女は頷いた。

 確か記事の末尾は、警察は事件と事故の両面で捜査を進めているという何も分からないときお決まりの文言で締められていたはずだが――。

「うちの大学に司法解剖の依頼が来て、法医学教室の主任が引き受けたの。だけど、その人にどうしても外せない急用が入って……」

 言いながら、生天目はショルダーバッグから大学ノートほどのタブレット端末を取り出し、ワタリに見えるよう差し出した。

「こちら、一昨日の火災現場から発見された東雲しののめ斗志貴としきさん」

 そうして紹介するのが滑稽に思えるほど、液晶の中のは人と認識するのが困難な姿をしていた。

 何も言わないワタリを気にかける様子はなく、彼女は続けて画像をフリックする。

「それから、奥さんの東雲しののめあゆみさん。そしてこっちが……十二歳になる娘の東雲しののめ美羽みうちゃん」

 炭化し、収縮し、爛れ――熱と炎がタンパク質にもたらす変化を一身に受け、しかし骨と成ることも許されなかった、。そのうち妻と紹介されたひとつだけが、かろうじて成人女性だった面影を残していたが、それはかえって惨さを際立たせる気がした。

 だがそれ以上に、目を引くものがある。

 彼らが一つの共同体だったことを示すものが等しく焼き払われてなお残る、更なる凶行の痕。――そのいずれもが、

「……これ、僕に見せて大丈夫なやつ?」

 しばらく黙っていたワタリが、思い出したようにぽつりとつぶやいた。

「――なわけないでしょ。だから人目は避けたいって言ったの」

 さすがのワタリもだろうねと唸るほど、彼女はかなりまずいことをしている。

 ネットカフェの作法も知らない彼女の緊張は、いよいよ自棄の域まで達したのか、無言でタブレットを押し付けた。画面に映っているのは細かな文字資料。おそらく警察に提出する解剖記録の複製だろう。いわずもがな、こんな場面を誰かに見られでもすれば、彼女が今まで築き上げてきたキャリアや立場は一瞬で崩壊する。

 こんなことなら、もっとセキュリティのしっかりした場所を提案すればよかった――と思う反面で、外部からの予期せぬ干渉さえなければ、彼女の社会的地位が今や自身の手の中にあるのだとも意識した。それは何よりも重い信頼の証として、ワタリに次の言葉を選ばせた。

「――僕は何について意見すればいい?」

 顔を上げれば、向かい合っていた生天目と目が合う。きゅっと引き結ばれた唇とは対照的に、瞳は不安に揺れていた。

「……私の見立てでは、死因は胸の傷による失血死、あるいはショック死。凶器は傷口の状態からして、投げ槍のような先端が鋭く尖った棒状の物体」

「それで?」

「首の切断には生体反応しゅっけつがみられないから、死後に損壊が行われたものと考えられる。胸の傷が非常に強い力による背後からの一撃であるのに対し、何度も凶器を振り下ろした形跡もあるし」

 同じく生体反応が見られないことを根拠に、遺体が燃やされたのは死後と考えられる、と記録には記されていた。

「――だけど、おかしいのよ」

「何が?」

「……

 一瞬の沈黙。ワタリはタブレットから顔を離し、肩をすくめた。

だろ?」

 しかし生天目は、この件に関してはけむに巻かれる気はないとばかりに睨むだけだった。

 その目を見ていると、ワタリが不義理を働くようになる以前、彼女と歩む道を違えた時のことが思い出された。

 彼女の家は臨床医を多く輩出する家系に連なり、彼女が医学部に進んだのは成り行きだったという。

 それ自体はよくある話だ。人の寿命が八十年ほどの時代に、その四分の一も生きていない未成熟な人間が自分で自分の生きる道を選び、そのすべてに責任を負えるケースの方が稀だろう。ただ彼女が幸運だったのは、他人に勧められて始めた学びの中で、真に自らが進むべきと思う道を見出し――その責任を負う覚悟を自分で決められたことだった。

 当然、一族のからはみ出さないことを願った両親には反対された。訳知り顔の大人は皆、彼女の才能は死人ではなく生きている人間のために使われるべきだと引き留めた。仲間は彼女の志の高さに敬意を表し新たな門出を、あるいは首席という目の上のたんこぶがいなくなることを寿いだ。

 ワタリだけが、そのどれでもなかった。

「――人を助けるのが嫌になったの?」

「むしろ逆よ。人を助けることが天職なんだって気付いたの」

 成人に差し掛かろうかという男の仕様もない問いに、彼女はいつもの呆れ笑いを返した。

「方法が変わるだけ。あなたは病気を治すことで人を助けて、私は真実を明らかにすることで人の心を助ける。大切な人を失って苦しむ人や――まだ名前も知らない誰かが、殺人という一線を越えてしまわないように」

 そして、生天目千和は言う。

 ワタリの記憶の中ではなく、目の前にいる彼女が。

「……事件のことを考えていて、あなたのことを思い出した。あの頃の私にとって、あなたはこの事件と同じだった。だから、あなたならこの問題に答えが出せるんじゃないかって――」

「――無理だよ」

 答えたのは、記憶の中のワタリだった。

 目の前の彼女ではなく、記憶の中で呆れたように笑う彼女に。

「どんな罪も必ず暴かれて、相応の罰が下ると分かり切っていても、人はその一線を越えるよ。越えずにはいられないんだ。――この世で最も弱い生物だから」

 まるで芝居の台本を読み上げたかのような大仰な言葉は、道を違える覚悟をさげた彼女の神経を思いのほか逆撫でたらしい。彼女は眉を吊り上げた。

「何よそれ」

「えっ」

「なんだかすごく失礼だし、腹が立つ」

「あ――いや、つまり、その……罪を犯すことは、病気とは違うってことだよ。人の体だって、最初から欠けていたり出っ張っていたり、そういう形になっているものは治しようがないだろ?」

「そんなことないわよ。欠けているなら埋めればいい。出っ張っているなら切って形を整えられる」

「どんなに綺麗に埋めようが切ろうが、その跡は消えたりしない。大きな手術痕が一生消えないみたいに、違和感は必ず残るよ」

「じゃあ、あなたは一生そのままでいる気?」

 『禁忌肢』という言葉がある。たとえ合計点が合格ラインを越えていようと、それを一つでも選ぶことで即座に不合格とされる文字通り『選んではいけない選択肢』のことだ。

 医療の分野においては、人命を預かる者としての適性を測る試金石と言い換えることができる。難しい判断を強いられる場面で、不用意な真似をして症状を悪化させるくらいなら、というある種の覚悟を示せる者であるかを問うための。

 その頃のワタリは、そういう医療従事者が持っていて然るべき覚悟を持っていなかった。――少なくとも、そのように見えた。生きるという言葉の意味を問うような倫理の瀬戸際で、必ず施術を選ぶ無鉄砲な若者を、誰もがそう見なさずにはいられなかった。

 売り言葉に買い言葉のような勢いで飛び出した問いの意味するところは、そういうことだ。そしてその答えは、国家試験合格を目指す立場にある以上、一つしかなかった。

「――でも、今ならあなたのことが少しだけ分かる気がする。……あなたは、人とは違うルールの上で生きているみたいだった」

 ――だからワタリは、詰まされた棋士のようにそれ以上何も言えなかった。

 目がくらんだような気さえして、彼女の顔を直視することができず、あの時と同じように俯いた。今日落とした視線の先には凄惨な画像があるだけで、相変わらず活路などあるわけもない。それどころか、その報告書がワタリの手にあるという事実は、全てのしがらみを振り切って走り出した彼女が本来辿り着くはずのない場所へ辿り着こうとしている証左に他ならない。そして今、それを阻んでいるのは他ならぬワタリ自身だ。

 であれば、やはり答えはひとつしかない。

「ここ見て」

「何?」

「奥さんの遺体、焼けきってない部分に死斑らしきものがある。色は鮮紅色だ」

 手元のタブレットを操作し、該当箇所を拡大してみせる。

 焼け切っていないとはいえほぼ全焼の焼け跡から出た遺体であることに、画像であることが加わって非常に見えづらくはあるが、そこには確かにワタリの指摘したものが見て取れた。

 とはいえ、通常暗い紫赤色で現れるものがその色で現れた意味を、言葉なき被害者と向き合い続けてきた女が知らないはずはない。

「死因は一酸化炭素中毒だって言いたいの? それは、私も最初考えたけど……無理がある」

とは考えられない?」

「胸の傷には出血があるのよ。仮に中毒で瀕死になっているところへのとどめだったとしても、この傷じゃ先に失血死かショック死するわ」

「――

「はぁ?」

 批判的な調子こそあったが、頭からの否定はなかった。

「僕が人はこの世で最も弱い生物だと言ったとき、君は怒ってたよね。――覚えてる?」

「…………覚えてない。けど、私なら言いそうね」

 たっぷりと間を置いてそんな答えが返ってきたことに、ワタリは少しだけ相好を崩した。

「あれは人を貶めたんじゃなくて、純然たる事実なんだ。水が上から下に流れて火は下から上に燃えるとか、太陽が東から昇って西へ沈むとか、そういうのと同じ。人はこの世界で生きていくには、構造が致命的に脆弱だ」

「……そうだとしても、やっぱりなんだか腹が立つわ」

「でも、どんなに科学が発達しようと人は未だ『自然かみ』に殺されるだろ?」

 納得を引き出せたのか、あるいは平生より幾分芯の入った男の舌を余計に回したくなかったのか。生天目は憮然とした顔で黙り込んだ。

人の理かがくはかつて人が神と呼んでいた現象モノに新しく名前を付け直しているに過ぎないし、存在構造に初期不良がある人間が作った理じゃ世界の全ては測れない。この遺体は、そういう測れなかったもののひとつだ」

「人間じゃないなら、この遺体は一体なんだっていうの」

「吸血種の遺体」

 彼女の表情は変わらない。驚きや激しい否定はないまま、言葉の真偽を注意深く値踏みするようにワタリを見ている。

「吸血種って、何?」

「この国の外から来た神秘バケモノ。フィクションによくある吸血鬼の最大公約数をイメージすると分かりやすい」

「説明して」

「人間の血を吸って、吸った相手を吸血種にして仲間を増やす。数多の弱点と特殊能力こせいを持っていて、胸を潰して首を切ることでしか滅ぼすことができない」

 口調に淀みはない。あたかも世の中の常識よりも、その荒唐無稽な与太話の方がワタリには馴染み深く、当たり前であるかのように。

「違うところは、吸血種への変異には必ず死が伴うという点かな。創作だと噛まれるだけでかかる感染症みたいに描かれがちだけど、実際には死という状態を通過しないと変異しない。失血死は痛みより体が冷えて眠くなる感覚が強いから、死んだという自覚が薄くて誤解されてるのかもね――」

「なんでそんなことが分かるの?」

 ワタリが不意に言葉を止めたのは、生天目の声に遮られたからではない。

 彼女がずいっと、タブレット越しに身を乗り出してきたのに気圧されたせいだ。

「あなた、一体何者なの?」

 生天目は、幼さの抜けきらない顔立ちに見合う――というと彼女はものすごく怒るが――小柄な体躯をしている。身長差は当然座しても埋まらない。その彼女が身を乗り出してきたところで、威圧感などあるはずもないのだが、不思議とワタリは身を引いていた。

「ミステリアスでイイ男」

「は?」

 今度はワタリが本来の持ち主へ、距離を取らせるようにタブレットを押し付けた。

「君が気にしてた『何が分からないか分からない』はもう解決しただろ? コワーイバケモノはみんな死んでる。君が心配するようなことはもう何もないんだよ。だからこの話はおしまい」

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 彼女は反射的にそれを受け取ったが、会話の方は引く気はないようだった。

「不可解な点はまだあるでしょう!? 吸血種を倒したのは誰なのかとか、この一家を吸血種にしたのは誰なのかとか!」

「犯人を探すのは警察の仕事だし、親個体を特定するのは難しい。そこら辺にいる野良犬や野良猫を捕まえて、生みの親を探すようなもんだ」

「じゃあ、失血死じゃない理由は?」

 生天目は再びワタリを覗き込む。

「吸血種に噛まれて変異したなら、あんたが診ても死因は必ず失血死になるはずよ。なのにこの――東雲家はそうじゃない。これはどういうこと?」

「必ずとは限らないよ。腐敗や損壊がないなら、遺体を噛んで変異させることもできるから」

「なんで腐敗や損壊のない三人家族の遺体があるのよ」

 ワタリはいよいよめんどくさそうに頭を掻いた。

「知らないよ。――一家心中でもしたんじゃないか」

 場はまたしても沈黙した。

 しかし今度のそれは一瞬以上に長い。ワタリの口から何気なく飛び出した単語に生天目はぎょっとした顔で固まり、それを見たワタリが自らのに気付いて口をつぐんだためだ。

 言葉を発する者がないまま、妙な沈黙が流れていく。

「人類滅亡の危機かもしれないって思わないの?」

 ぽつりと呟いたのは生天目だった。

「大袈裟だなぁ」

 そのつぶやきに呼応して、ワタリは煙草の煙でも吐くように重く長い息をついた。

「吸血種がこの国に持ち込まれたのはずっと昔だ。多くの人間が知らないだけで、害虫みたいに毎日どこかで繁殖して、何かのはずみで毎日駆除されてる。――大体だろそんなこと」

「――何よその言い方」

「今僕がした話を報告書にまとめて、警察にでも提出してごらんよ」

 その空間は閉ざされていた。

 一瞬で地球の裏側まで繋がることができる光が飛び交っていても、それを活用できる電子機器は一台も稼働していない。だから、日常には馴染まない――馴染む気のない格好の男が、耳触りの良い声で朗々と語った言葉が世界の全てのように聞こえたとしても、それは無理からぬことだ。

 だが、男がもっともらしく丁寧な説明をいくら重ねようと、全ては無意味なのだ。

 なぜなら、ドアの向こうにも世界はきちんと広がっている。もし男女が個室で待ち合わせたことに下世話な興味を抱いて、ドアの向こうで立ち聞きしている輩がいたなら、きっとそいつはゲームか漫画の話でもしているのだろうと思う。あるいは、男を頭の可哀想なヤツだと憐れみ見下すか。

 神秘、怪異、都市伝説、妖怪、霊、化物、怪物、魔物――人が言葉を尽くして表そうとするほど、人は実態から遠ざかる。そしてあまたの神秘は意識の上でそういうものフィクションに成り下がった。

 娯楽として喜ばれ、虚構として貶められ、次の瞬間に大地震ですべてが台無しになる確率やイカレた為政者が人類滅亡のスイッチを押す可能性と同じように、あるいはそれ以上に誰もが実在を信じない。そういうに。

「だけど、存在しないのとは違う」

 生天目はタブレットを胸にかき抱いた。

「そんなの、目の前にあと数秒で爆発する爆弾があるのに何もしないのと同じだわ」

「君以外の人間は何もしないことを選んでる」

「――自分が何言ってるか分かってる?」

「解ってるよ。まぁでも、よしんば人類が滅亡したとして、吸血種になって存在構造が変化すれば、その辺の欠陥も少しはまともになるかもしれないし」

 三度目の沈黙は短かった。

「それでも医者なの?」

 声はかつてないほど鋭く冷え込んでいた。

 吸血種への変異が死を通過点とする以上、何の気なし放たれた言葉は、命を預かる立場にある者がおよそ口にして良い言葉になっていなかったからだ。

 ワタリは一瞬何が起きたのか分からないという顔になって、再び自分が失言したのだと気付くと、すぐに目をそらした。そして目をそらしたまま逡巡し、やがて、

「医者じゃない」

 と、零した。

「は?」

 返ってきた言葉がよほど想定になかったのだろう。厳しい視線は短い驚きの声と同時に瞠目に変わっていた。

「いや、診療所はやってるけど――その、免許持ってない」

 ちら、と生天目の方を視線だけで確認する。その顔が怒り以外の感情に塗りつぶされていることを認めると、そちらに向き直ったワタリはまくしたてるように続けた。

 彼女の気を逸らすことが目的だったのであれば、それは間違いなく成功したと言えるだろう。

「嘘ついたの?」

「否定するタイミングを逃したんだ。君はすぐに話題を変えちゃうしさ。ああ――その、この件に関してはお互いさまってコトで、手打ちにしてくれると嬉しい。君も危ない橋を渡ってるんだし――」

「――あなた、変わったわ」

 ただし、最悪な方向へ、ではあるが。

「昔からこうだったよ」

「たしかに、あなたは他の人たちとは少し違ってた。でもそれって、普通の人が知らないようなことを知ってたからでしょう? そんな――人間そのものを否定するような、ひどいこと言う人じゃ――」

 そこまで言うと、生天目はふとワタリの目を見た。体が触れたわけでもないのに、ワタリは一瞬身をすくめた。

「どうして大学をやめたの?」

 目をそらしたかった。できれば話を切り上げて、さっさとこの圧迫感から抜け出したかった。それができなかったのは、彼女の瞳の奥に、小さく芽吹いた疑念の芽を見つけてしまったからだ。

「……知ってるだろ」

「大変だったのは知ってるけど、落ち着いてから復学すればよかったじゃない」

「そんな余裕なかったんだよ」

「余裕がなければ無免許のまま開業医になるの? そんなわけある?」

 その芽を摘もうと、足掻く。

「――理由わけなんてないよ。しいて言えば、暇だったんだ」

 するとそれが、不安げに揺れる瞳に映った見飽きた男の顔だと気が付いた。

「とにかく、事件のことはもう心配しなくていい。例えこの国の人間すべてが吸血種になろうと、君だけは必ず僕が護る」

 一瞬たじろぎ、すぐに顔を歪めたその姿は、寓話に語られる肉をくわえた犬のようだった。

「友だちだから」

 だから持っていたものを取り落とすのは、当然の結末だったのかもしれない。

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