ふにゃふにゃの根性なしのうどん

異端者

『ふにゃふにゃの根性なしのうどん』本文

「まあ、あまり無理をせず、深く考えないことですね」

 ぼんやりとしながら、安アパートの天井を見上げてその言葉を思い出す。

 医者に言われた言葉だ。気休めにもなりやしない。

 その「無理をしない」というのが無理なんだって――私は布団の上でそう思った。


 就職活動がうまくいかず、ようやく見つかったのは故郷・三重県伊勢市から遠く離れた愛知県名古屋市の会社だった。

 いや、名古屋ならそれほど遠距離ではないという人も居るだろう。車や電車なら2時間と掛からずに着く。ただ、心理的な距離は別だ。

 地元の大学に実家から通学していた私にとっては、知らない土地で独り暮らしというだけでもアマゾンの奥地に行ったような気分だった。そこが5時間分離れていようが30時間分離れていようが、実際にどの程度の距離があるかは問題ではない。行ったことのない場所で暮らすということが大変なのだ。

 だが、それ以上に会社での仕事に疲れていた。

 私の直属の上司兼指導役の課長というのが、今時こんな時代遅れの男が居るのかと思わせるほどの「昭和脳」だった。

 パワハラモラハラ当たり前。上手くいかないとやれ根性が足りないだの、自分若い頃はもっと頑張っていたのに最近の若い者はだの――とにかく責め立てた。

 それでいて、自分では体育会系のエネルギッシュなできる男だと思い込んでいた。

 もっとも、本当はパソコンのキーボードすらまともに打てず、手書きの書類を部下に入力させて、それで間違いがあると自分のせいではないと言い張る卑劣な男だった。

「最近の若いのは根性が足りない」

「ふにゃふにゃして女みたいで弱々しい」

「私の若い頃は残業なんて当たり前だった」

 そんなことを言って、いつの時代だと思わせる根性論を振りかざす。女性社員へのセクハラも忘れない。そのくせ、自分は新しいことを何一つ覚えようとせずに部下に全部やらせる。

 それでも今の地位に居るのは、会社が小さいせいと、その上の上司に人を見る目が全くないせいだろう。確か部長が見に来ると妙にへこへこして、部下の仕事をさも自分の手柄のように宣伝していた。

 そうして、私がパソコンのキーボードに必死に向かっている最中に、暇そうにタバコを吸っていた。

 そんな日が何カ月も続いて、私は日に日に会社に出て行くのが億劫になった。

 朝目が覚めてもなかなか起き上がれず、また働かなくてはならないと思うとなぜか涙がこぼれた。

 そのうち、眠るのが怖くなった。

 眠ったらまた起きて、働きに出なければならない――それが怖くて、深夜までインターネットやテレビを見て過ごすようになった。

 やがて、ぽつぽつと仕事を休むようになった。

 行かなければならない――頭ではそう分かっているのに、起き上がろうという気になれないのだ。

 ある日、私は風邪を引いたと連絡して仕事を休み、精神科に受診した。

 「鬱病」と診断され、2種類の薬を処方された。

 だが、薬は一向に効かなかった。


 こうして、今に至る。

 今日も会社に体調不良で休むと連絡して、アパートの自室に閉じこもっていた。

 今何時だろう――まあ、何時でもいい。

 食事はしただろうか――何も食べたくないからいい。

「鬱病なんて、根性なしのなる病気だ! 気の持ちようでなんとかなる!」

 わざと周囲に聞こえるように怒鳴っていた課長を思い出す。その声には明らかな嘲りが含まれていた。


 ふざけるな! 今までアンタのためにしていた仕事は、誰が代わりにしてくれるんだ!


 そうだ。そもそもがあの課長のせいだ。それなのにそう言えなかった自分が情けない。

 また涙があふれてきた。

 もう疲れた。何もしたくない。誰か……お前はよくやった。もう頑張らなくていいと言ってくれ――ピンポーン!

 ふいに玄関のチャイムが鳴った。

 私はのろのろとした動作で起き上がった。窓の外を見るともう暗かった。


「すいません、宅配便です」

 宅配員の男は、丁寧な口調でそう言った。

「ありがとうございます」

 私は何かもろくに確認せずにサインして、その小箱を受け取った。

 箱は少し冷たかった。何か冷蔵の物で保冷剤が入っているのだろうと見当がついた。

 宅配員が帰った後、私は記載された送り主を確認する。実家に居る母からだった。

 気は進まないが連絡しない訳にもいかない。私は恐る恐るスマホで実家に電話した。

「ああ、届いたかい」

 2コール目に出た母の最初の一言がそれだった。

 ずっと自宅の固定電話の前で待機していたのかと思うぐらい早い対応だ。

「届いたけど……何?」

 私はあいさつの言葉も忘れて聞いた。

「いや……この前に食欲がないって言ってたでしょ?」

 そうだったか、そういえば確かにそう言った気もする。

「ああ、食べる気がしないな」

 私は素直にそう言った。

 母には鬱病と診断されたことは隠してあった。たまたま体調が悪くて、会社を休んでいると。

「どうせ、あんたは自炊なんてできないから、買ってきた物ばかり食べてるんでしょ? ほら、外で買う物は油っこいのが多いから……」

「一応、カップラーメンぐらいは作るよ」

「そんなあんたでも、これはお湯でちょっと茹でればできるから……ネギはあった方が良いけど。残ったら冷凍して――」

「ちょっと何の話を――」

「あ、うん。お父さんが――」

 それを最後に電話は切れた。

 父が呼んだのだろうということは見当がついたが、肝心の中身はさっぱりだ。

 まあいい。開ければ分かるのだから。

 私は小箱を少し雑に開けた。


 中身は「伊勢うどん」5食分と保冷剤だった。


 ああ、なるほど。

 伊勢うどん――主に伊勢地方で食べられるマイナーな食品だ。

 特徴はコシの全くないふにゃふにゃの太い麺と少しだけの醤油のような濃いつゆ。茹でた麺にその甘辛いつゆを絡めながら食べるのだ。

 今の形になったのは江戸時代、お伊勢参りの人がすぐ食べられるように茹で時間を気にしなくてもいい太くて柔らかい麺にたまり醤油を基にしたつゆをかけた物だという。

 一説によると、麺がそうなったのには長旅で疲れた参拝客への気遣いもあったとされる。

 そういえば……私は幼い頃を思い出した。


 私が風邪を引いて食欲のない時に、母がよく伊勢うどんを作ってくれた。

 伊勢うどんは油気がなく、麺は柔らかく消化が良いから、体が弱っていて食欲のない病人にも食べさせられるからだ。


「これなら……食べられるかな?」

 私は独り言を呟いた。

 冷蔵庫にはあいにくネギは無いが、生卵があったはずだ。

 これを茹でて、卵黄を乗せて食べてみてはどうだろう。

 私は1食分の伊勢うどんの麺とつゆを取り出すと台所に置いた。


 鍋には沸騰したお湯があった。

 私は麺を入れて数分、そろそろほぐれてきたと思ったので箸で少しほぐした。

 十分にほぐれたのを確認すると、火を消して麺を丼に移す。

 丼に入れた麺に濃いままのつゆをかけると、生卵を取り出して卵黄だけを麺の上に置いた。

 ネギがなかったのは少々残念だが、我ながらまともな出来栄えだ。そもそも伊勢うどんは複雑なトッピングなど要らない。最低限麺とつゆだけで成り立つからこれでも十分だ。

 私は丼に箸を乗せてそれをテーブルに置いた。


 それから10数分。麺をすする音だけが響いた。

 実を言うと、伊勢うどんはグルメリポーターのように一口食べて「美味い!」と叫ぶような食品ではない。なんとなく食べだして、食べ終わると美味しかったなとしみじみ思うような素朴な食品だ。

 そのせいか、他地方では流行らない。この一口食べて美味しいと思わせられるようなインパクトがないせいだろう。

 ただ、食べ終えると妙に落ち着くというか安堵感がある。

 私は食べ終わると、つゆだけになった丼を眺めた。

 少しだけつゆを飲んでみる。甘辛い……懐かしい味だ。

 食欲がなかったはずだが、伊勢うどんは完食できた。

 そして、思った。


 ふにゃふにゃの根性なしでどこが悪い!


 そうだ。伊勢うどんはコシの全くないふにゃふにゃの麺で美味しい。

 深く考えずに、あるがままで――それで良いのではないか。

 根性だのなんだの理由を付けて強がっている方がよほど格好悪いではないか。

 退職願を書こう――私はふとそう考えた。何もあんな時代遅れの無能に付き合う必要はないだろう。

 再就職先が運良くすぐに見つかるとは思えない。しかし、それがなんだというのか。


 ふにゃふにゃの根性なしでもいい。私はそうやって生きていくのだ。

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