嘘つき。
ここは、どこだろう。重たい曇り空の下には、砂埃が舞っている。あたりを見渡すと、山間でもないのにロープウェイのようなものが、やけに短い間隔で通っているのが見える。
自分の体に目を向けると、スーツのようなものを着ている。片手には鞄を持ち、そのどちらも妙に古臭い。よく見れば、街自体も、雑多であるがどこか閑散としていて、とても現代のそれには見えない。
後ろを振り返ると、「渋谷」という文字が目に入った。これは、駅だろうか。なんとなく、駅舎と呼ぶのが相応しい建物のように感じる。
そうか、これは夢だ。僕が前世の記憶と呼んでいる、やけに鮮明な夢の一部だ。久しく見ていなかったので忘れていた。こんな景色だったのか。まるで、いつかの授業で見た戦後の街並みに似ている。
どうせ夢の中なのなら、適当に歩き回ってみようと思ったところで、駅舎の中から小走りで駆け寄ってくる女性の姿が横目に見えた。彼女は、腰を細く絞った淡い水色のワンピースを着て、頭には小さい白色の帽子を被っている。
「**さんごめんなさい!もう着いていらしたんですね!」
僕は、直ぐ隣に立っている彼女を一目見ただけで、それが誰であるかを理解した。見た目が違っていても、それは間違いなく彼女だった。
僕は、今見ているものが夢であることを忘れ、咄嗟に名前を呼んだ。
「さつき?」
「誰ですかそのお方は?ほら、寝ぼけたこと言ってないで早くいきましょ。」
声も顔も、名前も違う。でも、それでもそれは咲月であるような確信があった。こう思うようになったのはいつからだろうか。そもそも、記憶か夢かさえも曖昧になってしまうこれを見るようになったのはいつからだろう。少なくとも、咲月に出会う前に見た記憶は無いように思う。
「**さんはいつ頃到着されたんですか?」
さっきから僕の名前だけが空白となって聞こえる。
「いや、僕も丁度さっき着いたところだよ。全く待ってない。」
「それは良かったです、でも本当ですか?私に気を使っているんじゃないですか?今日、なんだかいつもより顔色が悪いように見えます。何かあったのですか?」
「何か、か。」
今、隣を歩いている咲月を見ていると、何かを思い出せそうな感覚がずっと胸に響く。多分、前世での出来事ではない、今夢を見ている僕自身の記憶。良いことのような、悪いことのような、思い出したいような、思い出したくないような。
「君は前世を信じるかい。」
なんだか、口調も自然と古くなってきているような気がした。
「突然変なことを言いますね。」
彼女は、少し上を向きながら続けた。
「小さい頃、おじいさまからよく仏様のお話を聞かされていたのですが、どうも私は輪廻転生というものが信じられなくてですね。信じられないというか、示しようが無いじゃありませんか。例えそう話す方がいらっしゃっても、譫言だと笑われて終いです。だから、この目で見れないのだからどうしても信じられないのです。でも、信じたいかと問われれば私は信じたいと答えますよ。前世、というか来世をですね。だって、こんなに素敵なお方と居られるのが、どんなに長くても後六十年あるかないかでしょう。そんなの、あまりにも短すぎますわ。だからせめて六十年と言わず、六十回分の人生くらいは一緒に居たいです。」
彼女は、少しも照れる素振りを見せずに言った。
「そうかい。それは、嬉しいね。実は僕、来世から来たんだけど、どうやらまだ一緒に居るみたいだよ。」
彼女は嬉しそうに笑いながら言った。
「何言ってるんですか。やっぱり今日、どこか変ですよ。」
「来世から来た男が、変でないわけないからね。」
「はいはい、ほら、もう着きましたよ。」
僕らは、駅からすぐそばにある大きな百貨店の入り口に居た。建物の高さを測ろうとすると、さっき見えたロープウェイがこの建物から出ていることを知った。
「あれは、乗れるのかい?」
「ええ、乗れないこともないそうですが、どうやら子供向けなんですって。でも**さんが乗りたいというのなら、一緒に乗ってみても良いですよ。」
「子供向けなのか、なら遠慮しておこうかな。」
「乗りたくなったら何時でも仰ってくださいね。」
重厚感のある扉を押し開けると、思ったより今の百貨店とさほど変わりの無い景観があった。
人々の着ている服、売っている物はどれも今のそれとは違うけれど、全体を見渡せば、それは間違いなく百貨店と呼ぶに相応しい景色だった。一階が呉服売り場なところも現代と同じだ。
「今日は、何を買いに来たんだい?」
「もう、それも忘れてしまったのですか?もうすぐ**さんの誕生日でしょう?だから何か欲しいものは有りませんかと訊いたら、もうすぐ冬になるから新しい手袋が欲しいって仰っていたじゃありませんか。」
この記憶の中の僕の誕生日は、現世と近いか、若しくは同じなのだろうか。それに彼女は、プレゼントを渡す相手に何が欲しいかを尋ね、終いには一緒に買いにいってしまうところまで、今の咲月とそっくりだった。
「あぁ、そうか、そうだった。良いものが見つかるといいんだけどな。」
「もう、やっぱり今日どこか変ですね。本当に来世にでも行ってきたんじゃないですか?」
相変わらず、彼女は楽しそうな表情をしている。
「だから、そう言ってるじゃないか。」
彼女はもっと楽しそうに笑った。
というか、この夢はいつになったら覚めるのだろうか。彼女の横顔を見ていると、何か大事なことを思い出せそうな気がするのだが、未だに手がかりさえ掴めない。でも、なんとなく、もうこのままこの夢の中で過ごしても良いような気がしている。もう、起きなくても良い、そんな気がしている。
「これなんて如何ですか?」
気がつけば、入り口から右手にある紳士服店の中に居た。彼女は、店の中程にある棚に平置きに並べられている、こげ茶色の革の手袋を手に取っていた。
「ペッカリーの革ですって。これ、似合うと思いませんか?」
「ペッカリーってなんだい?」
「私もよく知りません。でも、ここにそう書いてあったので。**さんならご存知かなと思いまして。」
「なんとなく君を失望させてしまったみたいで厭だな。」
「そんなこと思いませんよ。ほら、今お召しになっているスーツにぴったりじゃないですか。」
「それは嬉しいけれど、値段は大丈夫なのかい?」
この時代の物価について詳しくは知らないけれど、現代でも特に違和感の無い値段だ。だとすると、相当高かったりするんじゃないだろうか。
「安心してください。私だって、この日のためにちゃんとお小遣いを貯めてきたんですから。普段欲しいものなんてあまり有りませんので、今日全部使い切ってしまっても構いません。」
「その心意気は嬉しいけれど、それは少し申し訳ないような気がしてしまうな。ほら、これなんかは幾らか安いけど随分とおしゃれじゃないか。」
僕はそう言って棚の反対側に回り込み、似た色をした手袋を取った。
「これも同じペッカリーとやらの革だそうだよ。」
棚を挟んで向こう側の彼女は、手袋をお腹の前で持ったまま、少しだけ不服そうな顔をしてる。
僕は、この時初めて彼女の顔を真正面から見た。
そうか、目だ。似ている、とかではない。同じだ。咲月と全く同じ目をしている。同じ目をしている、なんて物語の中で散々使い古された表現でも、それでもいざ目の前にしてみると、言葉以上に胸の中に語りかけてくるものがある。
そして同時に、えも言われぬ不快感に襲われた。向かい合った彼女を見ていると、抜いてはいけない栓が抜けそうになる感覚に陥る。きっと、この夢の中でずっと思い出すことのできない、大切な何かが溢れそうになっている。思い出したいけど、思い出したくない。そしてやはり僕の心は、この夢が醒めることを拒んでいる。
そんな僕の思いとは裏腹に、栓は少しずつ抜けていく。
今、目の前にいる彼女ではない、咲月の声が聞こえる。
—どちらさまでしょうか—
咲月の声に乗せられるはずのない言葉に、冷や汗が止まらない。思い出してしまう。
目の前にいる彼女は、心配そうにこちらを見ている。
「大丈夫ですか?」
もう一度、彼女の目を見たその時、記憶を堰き止めていた栓が外れた。夢を見ている僕の頭の中に、大量の記憶が一遍に流れ込んできた。
そうだ、僕が忘れていたのは、咲月が居ない日々を生きた僕の記憶だ。何度も、嘘であって欲しいと願った日々の記憶だ。そして、彼女との最後の日の記憶だ。この夢を見る直前の記憶、僕の未来に、彼女が居ないことが決まった日の記憶。忘れたいけど、忘れたくない、失くしたいけど、失くしたくない記憶。
目の前にいた筈の前世の彼女の声が、気が付けば僕の隣からしている。水中で話しかけられているように、酷く篭っている。視界は、波のように揺らめいでいる。
恐らく横たわっているであろう僕の耳元に、空白の名前が何度も何度も聞こえた。
*
目を覚ますと、窓の外はまだ薄暗かった。寝るのが早すぎたのだろうか。時間を確認する気にもなれず、ベッドの下に放り投げられたビニールから水の入ったペットボトルを取り出した。一気に飲もうとしたけれど、昨日咽せたことを思い出して慎重に飲んだ。
時間が経っても、さっきまで見ていた夢のことは鮮明に覚えている。普段見る、覚えていたいと願っても直ぐに忘れてしまう所謂「普通の夢」とはやはり違う。夢、でもあるけれどやはり記憶と呼んでも違和感は無い。
それなのに、夢で会った彼女の顔と声がどうしても思い出せない。それ以外の景色は絵に描けそうな程鮮明に覚えているのに。僕の記憶が定かであれば、これまで、あの記憶を思い返す時、彼女の顔は見えていた筈だ。でも、どうせまた夢の中で会えるような気もしている。その時にしっかりと覚えて帰ってこよう。
半身だけ起こしたまま夢のことについて考えていると、段々と昨日の現実が頭に流れ込んできた。それはじわじわと全身に広がり、時折胸の辺りで刺すような痛みを催す。
君が僕のことを忘れているだなんて思いもしなかった。君との最後の記憶があれだなんて、きっとこの先何年経とうとも、受け入れることが出来ない。
しかし、今になって考えてみると、かなり不自然な話である。あの時、「君が僕のことを忘れた」という事実を前にして僕は正気を失っていたが、思い返せば、当初の目的であった彼女との会話すら出来ないままにあの場を去ってしまった。あまつさえ、「君は僕のことを忘れたことにしたい」などと、彼女の心も決めつけた。
君が出て行ったのも、僕のことを忘れていたのも、何か想像のつかない理由があるのではないだろうか。僕が彼女と過ごした時間を信じることが出来るのなら、彼女はそこまで理不尽で利己的な行動を取らないように思えてしまう。
それも全て、過ごした時間も彼女に対する評価も含め、見当違いだという可能性も大いにあるのだけれど。
ただ、これだけは確かだ。まだ、僕は君と会話をしていない。あの日から一度も。もうあんな惨めな姿は晒さないから、そして、もし君が望むなら、これで本当に最後にするから。だから、もう一度話がしたい。君の口から、全ての理由を聞きたい。
面倒臭い男だと思われても良い。話がしたい。
朝、スーパーに行って彼女が居なかったら実家へ行こう。もしかしなくてもこれをストーカーと言うのだろう。
開店まで数時間あるので、二度目の眠りについた。そこで見た夢は、現世の君の夢だった。君に恋をした日の夢だったような気もするし、君と学校で過ごしていた日の夢だったような気もしている。或いはその両方だったかもしれない。
忘れるとか、忘れないとか、そういうのじゃなくてさ 藍空と月 @aizoratotsuki
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