第2話 燦爛煌々
指先が。爪先が。鼻先が。身体の芯までもが凍りつき、雲に覆われて陰暗とした雪山をクレスと私が登っている時の事だった。
大渓谷を右手に、商人達や旅人達が年月をかけて
クレスは下がりかけていたストールをぐいっと目元まで上げると、手袋で包まれた人差し指を立て「黙る様に」と指示してくる。私もなるべく音を立てぬよう、細心の注意を払いながら歩みを進める。
本来は
生命体の頂点に君臨する
個体差は様々だが、谷底に居るものはおそらく大きな種だと思われる。
中央皇国の和平協定下にあるセレスサイト国に属する、ここ北方地帯での目撃例は少ない筈なのだが、やはり何かが起きているのだろうか。
もっとも、竜種はこの大陸全土の各軍部で大規模な捜索隊が定期的に討伐し、各国で個体数を把握するのが急務となっている。
しかし『亜種』というのはどの生態系でも居得るものであり、正確な数は掴めていないのだろう。
ここは早々に退散し、戦闘も避けたいところだ。
だが…万が一の場合は、やらねばならぬのか。
もう少し。あともう少しで休息が取れるというのに、なんたる事態。
深呼吸をして、鞄の留め金へ手を触れた瞬間、ホワイトアウトする程の猛吹雪が私達を襲って来た。鋭い爪を備えた
有無を言わせぬ極寒。全身に走る激痛で声にならない呻き声が漏れる。
私のフードから長い黒髪が乱れ、その間から見上げた先には私の半身程はあるだろうか、大きな眼が断崖の淵からギョロリとこちらを睨んでいた。
どうして気付かなかったのだろうか。周りの針葉樹が薙ぎ倒された様な山道に。
何かで引っ掻いた様な岩肌達に。不自然な兆候は、いくらでも危険を察知する機会はあった筈だ。
そして。
手を伸ばせば、もうほんの少しで届いてしまいそうな距離に、それは居た。
氷竜。
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
伝承や文献では語り尽くせない、どす黒い恐怖が私の心を満たしていった。息をすることすら忘れる、圧倒的な存在。
全身を包む鱗は不思議な燐光を放っており、ギラギラと赤く光る大きな眼は獲物を見定めているのか、瞬きをしながらこちらを見つめていた。
じわり、じわりと冷や汗が身体から滲み出してくる。
同時に、生温かい液体が頭部からぽたり、としたたり落ち、地面を紅く染めた。
血だ。
怖い。
怖い。
だが、此処で死ねるものか。
私はゴツゴツとした地面に手をつき、自分を叱咤する様に歯を食いしばり、獣の様な声で唸りながら立ち上がった。
よろめきながらも、暴風を
左腕は先ほど岩肌に叩き付けられた時に捻ったのか、痺れてうまく動かない。
いい。片腕さえ動けば。他はどうでもいい。
一方、クレスは大岩を盾にしてじっと身を潜めていた。自分の身長以上に巨大な牙を見ても、そこから漏れる氷の息吹を恐れている様子も無く、涼やかな表情を目元に浮かべて微動だにしていない。
私が体勢を立て直し、岩陰へ隠れるのと同時に、紅いヴェルヴェット生地の小袋を素早く手渡してきた。
「これは何だ?」
「今貴方が一番必要としているものです。」
中を覗くと、他のどんな宝石よりもひときわ輝く石が入っていた。遥か地の底、灼熱から生まれ出た宝石。
その希少価値が
今となっては、討伐作戦や戦場を経験したことのない並の魔術師では
まさかこれを使えというのか、あの子は。
クレスは唯一使用できる閃光の魔術で目眩しを喰らわせると、鋭い鉤爪をすんでのところで
今しがた登って来た山道に
やはり一筋縄ではいかないか。
ルビーのペンダントを震える左手で握りしめる。ルビーは勝利の女神を呼ぶ程の強大な力を持つと言われ、戦女神の分身として崇める宗教が存在する程だ。
私は繰り出されるブレスを逆手に取って足元を凍らせて足場を作ると、そのまま首元まで一気に駆け上がり、懐へ飛び込んだ。
炎に片翼を焼かれバランスを崩した
倒れた木々の枝が引っかかり、魔術師の証である
ちょうど大きな顎の下。他の部位は硬い鱗に覆われているが、そこだけは皮膚が薄く、大きな血管がうっすらと見えている。逆鱗と呼ばれる部位だ。
捉えたぞ。
残っていたありったけの細石を右手いっぱいに持ち、詠唱無しに放り投げては片っ端から発火させ、叩き込む。
これで当面の難は逃れた筈だ。
緊張から解放された私は地面に崩折れると、ゼェゼェと息を荒く吐き出した。詠唱も祈祷も無しに術を使った反動である。後ろから追いついたクレスの肩にもたれかかり、私達はようやっと山小屋へ向かった。
数十分後、パチパチと火の粉が舞う暖炉の前で、私は備え付けの毛皮と
「…ジルべドゥ様、お召し物が破れております。」
珍しくクレスが口を開いた。
「よい。旅をすればこの様な事は起きても仕方ない。直せば着られる。」
物干し竿へ二人分の衣服を掛けたクレスは、無言で薪を追加して保存食を鞄の中から取り出した。
以前立ち寄った村で調達した油、
元々雇われていた商店では店番と家事を担っていたそうだが、その時身についたものだろうか。
私も多少の料理はするが、ここまで要領良くは作れない。
薬湯を差し出された私は、まだ痛む身体を起こしてゆっくりと嚥下した。
料理の準備が出来次第起こします、と言われ、私は暖炉の側で暫く仮眠することにした。
まどろみの中で、クレスがひんやりとした声で呟く。
「私は、貴方の案内人なのです。」
ああ、またこの夢か。
いや、現実に起こった事なのだがー
あらかたの事情を説明し、正式に
店主は少しばかり長く伸ばした髭をさすると、ひとつため息を漏らした後に
クレスを旅の共にしてやってくれませんか、と 深く頭を下げたのだった。
数年前、ピエトゥレという港町の桟橋で身体を震わせながら倒れていたクレスを拾ったこと。
極めつけは、
中央諸国にも、この大陸全土を見ても、この瞳の色の者はおそらく見つからないだろう。
「ジルべドゥ様、稀代の石の魔術師が現れたその時にー」
「あの子を案内人にする様にと、皇国製の手紙がクレスの掌に握り締められていたのです。」
店主は鍵のかかった戸棚から、木箱に入ったボロボロの手紙を取り出し私に差し出した。
"水よ、巡れ巡れ。大地の力を掌握せし者が顕る時、此方の者と共に旅に出るべし。
水龍が逃げるその前に。"
私は目を
これは間違いなく皇国謹製の紙だ。
丁寧に
魔術師協会に毎日の様に届く手紙の中に『一刻も早い解決策を投じなければならない』案件がある場合にのみ、この紙は使われる。
あっという間に荷物を纏めたクレスが、ひんやりとした声で呟いた。
「私は、貴方の案内人なのです。」
砂塵と氷雪 豆桜 @cieligio523
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