珈琲、トンネル、

 就活で意図的に地方や関西の企業ばかりを受けたことは、誰にも言わなかった。私のことを知らない人しかいない場所に行きたかった。

 あの晩を境に相田は私の家を出て行った。以前のような心地よい関係に戻れるはずがなかった。私は一人暮らしを始めた時のように一人で不摂生な生活を始めた。

 アキハだけでなく、美奈と会うことも止めた。二人を前にして冷静さを保っていられる自信がなかった。一時期アキハを殺してしまったのではないか、という不安に駆られたこともあったが、警察が私の元を訪れないということは今日ものうのうと生きているのだろう。アキハの家の鍵は近所の川に投げ捨てた。海にはもう行けそうもなかった。

 就活でナイーブになっているということにして、私は一切の友人付き合いを絶った。奈良坂はとても心配してくれたが、もう合わせる顔がない。相田も付き合いが悪くなった、と零していたが、相田が何を考えているのか全く分からなかった。私はただ家に引きこもって、惰眠を貪った。生命の維持に必要な最低限だけをこなす日々だった。

 数か月後、私は幾つかの関西の企業から無事に内定をもらった。母親にそのことを告げると、東京を離れることを不安がったが、年に一回は帰省することを条件になんとか言いくるめた。

色々な手続きや準備をしているうちに季節は過ぎ去り、あっという間に東京を去る日が来た。引っ越しの荷物は翌朝届く手筈になっていて、夕方の新幹線で大阪入りすることになっていた。今日で二十四年過ごした東京を離れるという事実が少しだけ気に掛かった。でもここに居たらもっと良くないことになるという確信が自らの不安を認めさせてくれなかった。

相田のこと、好きだったんじゃないの?

あの晩の後一度だけ飲み会に連れていかれて、奈良坂にそう訊かれたことがある。

確かに私は誰よりも相田を愛していたけど、でもそれだけだった。

それだけでは駄目だということを私は知っていて、相田は知らない。世界というものはいつもどこかのネジが足りないらしい。私は相田を必要としていた。相田も私に必要とされることを願っていた。でも相田は肝心なところで不器用だった。私と相田の関係性の最適解はもう通り過ぎてしまった。

 プラットフォームの脇のベンチでホットの缶コーヒーをちびちびと飲んだ。

 いつも相田の淹れてくれる珈琲は美味しかった。珈琲の味なんてみんな同じだと思っていたけど、相田の淹れてくれる珈琲は他とどこか違う味がした。幸せを噛み締めているような味だった。

 新幹線は定刻通りに現れた。私はゴミ箱に空き缶を投げ入れて、乗車待ちをしている列に並ぶ。

 少しして横から鼻を啜る音が聞こえて、私は目だけそちらに向けた。スーツケースを持った大学生くらいの女の子が泣いていて、それを同じくらいの男の子が慰めていた。男の子は女の子の肩に手を置いていた。きっと彼は必死に彼女のための、思いやりに満ちた言葉を掛けているのだろう。ドアが開いて乗客の列が動き出したその時、男の子が女の子の頭に手を載せて小さく撫でているのが見えた。心臓を握りつぶされたような気がした。

女の子は決意を固めたような表情で私の後ろに並び、新幹線に乗り込んだ。

私はホーム側の窓際の席だったので、先ほどの男の子を探した。男の子は私の座席より前方の女の子の席のすぐ傍に立って、泣きそうな顔をしていた。

発車のアナウンスと同時に新幹線が動き出す。

滑らかに動き出した新幹線はあっという間に駅を飛び出し、加速していく私の横に一瞬現れた男の子はすぐに見えなくなった。

自分が泣いていることに私は気付いていた。涙はゆっくり私の顔面を這うように流れ落ちて、巻いたままのマフラーに染み込んでいった。大切なものを失くしたという自覚が喉元までせり上がって、次第にそれは嗚咽に変わった。

ふと目を覚ますと、新幹線はトンネルの中にいた。辺りを見回すと混雑していたはずの車内にいる人はやけにまばらで、空も暗い。悪い予感がしたので慌ててスマートフォンで確認すると、新幹線はとっくに新大阪を通り過ぎていた。一気に覚醒した脳が引き返す方法を考え始める。この先の予定や計画が走馬灯のように脳内を駆け巡って私を急かす。

しかし、私は途中で思考を放棄した。なんだか疲れてしまった。

このまま行けるところまで行ってしまおう。

私は座席に重い身体を沈み込ませて、再び瞼を閉じた。二度と目が覚めないように祈りながら。

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どうか 紫蘭 @tsubakinarugami

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