海、ノイズ、朦朧

 十五分で服を着替え、顔を洗い、薄く化粧をし直した。その間に相田はレンタカーを予約し終えていた。最寄り駅でレンタカーを受け取り、相田と私はどこかに向けて走り出した。八月の風はまだ蒸し暑く、思考を奪っていくような魔力があった。

 相田はノリノリでラジオを掛け、流れている曲とは違う曲を鼻歌で歌っている。相田と同じ部屋で過ごした時間は長いが、こうやって出掛けることは初めてだった。相田の運転は意外とスムーズで免許を取りたてとは思えない上手さだった。こういうところにも要領の良さ、というのは現れるらしい。革張りのシートは身体がよく滑る。道がカーブする度に身体が数センチずつ横滑りしていた。

「土屋には摩擦ねーの?」

「え」

「さっきから滑ってんじゃん」

 相田は喉の奥でクツクツと笑った。それがなんだが可笑しくて、私も一緒になって笑った。穏やかな時間だった。車窓を流れる景色はあっという間にビル群を抜け、少しずつ緑が増えていった。どこに向かうのか聞いていなかったが、標識を見るに湘南の方へ行こうとしているようだった。旅行なんて初めてだった。

 ラジオからは気象情報と流行りの音楽が交互に流れ、時折入るノイズと時報が一定のリズムを生んだ。気付けば私は舟を漕いでいた。そういえば昨晩一睡もしていないことを思い出して、睡魔に抗うことなく私は瞼を閉じた。

 夢を見た。ボートとも呼べないような小さな舟で私は海を漂っていた。陸地は見渡す限り見当たらず、己が一人であることを受け入れる他なかった。諦めが付いたので私は舟に寝転がったまま微睡んだり、瞑想したりして過ごした。ずっと日が沈まないことに気が付いたとき、私はこれが夢であると悟った。孤独だった。あの老人を私は改めて尊敬した。今の私は抜け殻だった。私にとって孤独はひどく恐ろしいことだった。何よりも耐えがたく、けれど避けられないことだった。私は徐に軋む身体を起こして、なんとか立ち上がった。舟の先端に足を掛け、そこに立った。少し手間取ったが、その場で身体を百八十度回転させて、そのまま海に身を投げた。

「起きた?」

 声の方を向く。相田は一瞬視線をこちらに寄越して、すぐに前を向いた。まだ運転中らしい。明け方に出発したので時刻は丁度昼過ぎだった。

「今どこ?」

「もうすぐ宿に着くとこ」

「……宿?」

「そ。今日は泊まり」

それは想定外だったので少し狼狽えたが、旅行は日帰りでないことの方が多いのかもしれない。思考する気力がもはや残っていなかった。今日だけは相田の行動力に身を任せてみることにした。

それから十分ほど経って到着したのは湘南の海沿いの民宿だった。荷物は持っていなかったのでチェックインだけしてすぐ海を見に行った。

 砂浜の上をスニーカーで歩いて、不思議な感触に私は心を躍らせた。歩きづらかったがそれすらも面白かった。相田は煙草に火を付けて、私の少し先を歩いていた。風下にいたので、より濃くラッキーストライクの甘ったるい匂いがした。

 しかしそれも波打ち際に近付くにつれて、潮の匂いに取って代わった。夏はとうに終わっていたが、日差しが強かった。防波堤にぶち当たるときの波の音が心地よかった。

「土屋も吸う?」

 相田が煙草を差し出してきたので、素直に一本受け取った。相田に火を付けてもらい、二人して海を眺めながら煙を吐いた。

 相田が私に何があったのか、と訊くことは無かった。ただ静かに私の心に必要な何かを取り戻す時間だった。

「土屋は波の音聴くと安心する派? それとも落ち着かなくなる派?」

 少し悩んで、私は嘘を吐いた。

「安心する派かな」

 それを聴いた相田は自分から質問してきたくせに何も言わなかった。

 高校生らしい集団が掛け声をしながら近くをランニングしていた。私は彼らの足音を聴きながら海を眺め続けた。スニーカーに砂が入り込んでいて気持ち悪かったが、帰ろうという気にはならなかった。ずっと無心でいたかった。少しでも気を抜いたら自分の感情で押し潰されてしまいそうだった。私は洪水が起こらないように感情を凪いだままに維持ししようと務めた。海はその為にはとても有効だった。広大な海の前では、私は無に近かった。その意識が私を数瞬の間だけ救ってくれた。

ふと我に返ると相田は居なくなっていた。それでも私は海の前から動きたくなかった。一人になりたくなかった。物思いに耽る余地を黒く塗り潰したかった。相田が戻るまでコンクリートで出来た防波堤に腰掛けて、波の行く末をぼんやりと見ていた。小一時間で相田は戻ってきて、私達は湘南の街を観光した。食べ歩きをしたり、お寺を見に行ったりした。正真正銘、人生初の旅行だった。相田は私が興味を示したことに徹底的に付き合ってくれた。何がどう面白いのか説明しろ、と言われたら困るが、それでも楽しかった。相田がいつか言っていた通り、旅行というものは楽しいもののようだった。

 日が暮れてきた頃、私達は民宿に戻った。鄙びた宿はこんな私を歓迎してくれているように錯覚できたので、私は一瞬で好きになった。よくテレビで見ると豪華で綺麗なホテルではこうはいかないだろう。少し腐った匂いのする畳と動きの悪い障子戸が何よりも私の心を擽った。私とよく似た何かを感じていた。近くの食堂で夕食を済ませる。食べ歩きばかりで朝も昼もちゃんとしたものを食べていなかったので、今日初の食事だった。食べ物を前にして空腹を感じるくらいには正常だった。

 相田はいつの間にかお酒を買い込んでいた。相田に誘われて、私達は早い時間から飲み始めた。民宿の窓を開けて、波の音を聴きながら飲む酒はいつもよりほんの少し美味しいような気がした。相田は定番のビールやチューハイの他にも地酒や焼酎まで買い揃えていた。今日は徹底的に飲み明かすつもりらしい。私と相田はいつもの調子で飲み、気付けば残るは焼酎の一升瓶だけになっていた。昨夜も死ぬほど飲んだというのに、頭のどこかに冷静な自分がいた。全く酔いを感じなかった。思考を紛らわす何かが欲しかった。

「今日なんかあったんだろ」

 追加のお酒を買いに行くか悩んでいた時だった。相田が空き缶を片付けながら、私に背を向けたままそう言った。私は何と言えばいいか分からず、黙り込んだ。

「別に事情が知りたいわけじゃねーよ。いや、まあ知りたいけど。自分から訊くのはなんか違うだろ」

「……ありがと」

 その不器用な優しさがとても染みた。私と相田はその後も飲み続けた。

「折角だし、これ全部空けようぜ」

「いいね」

 愚かだった。私は人生で初めての焼酎を飲んだ。あの酒に強い相田でさえ、数杯飲んだだけで薄っすらと顔が赤くなっていた。いつもの飲み方ではいけないことを知らなかった私達は、浴びるようにハイペースで飲み続けた。相田と何か大事なことを話していた気がするが、それもよく分からなくなってしまった。きっとお互い違うことを言い合っていたのだと思う。

本来なら水で割るべきだった酒をロックで飲み、気付けば私は人生で初めて身の危険を感じるほどになっていた。酔いが回る、というのはこういう感覚なのかと私はこれまで美奈にしていたことの危険さを理解した。頭が回らなくなって、座っていられなかった。

 私は畳の上に身体を横たえて、相田を探した。目の前で飲んでいたはずの相田は見当たらなくて、私は相田の膝の上で寝ていた。相田の大きくて温かい手が私の頭を撫でて、次第にその手が下へと降りていく。普段ならばお互いそんなことしなかっただろうし、受け入れもしなかった。

「桜は俺のこと、必要としてくれる?」

 そんなことを訊かれたことだけを覚えている。私がその問いになんと答えたのか、相田がどんな表情をしていたのか、顔をまじまじと見ていたはずなのに思い出せなかった。

 相田が私の服を脱がせ始めた時に止めるべきだった。頭が朦朧として、何が起こっているのか理解することを放棄してしまった。私はいつも相田のくれる優しさとそれを混同した。その晩、私は一番大切なものを手放した。

 

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