情欲、ドライブ、紙袋

 私はカラオケからその足でアキハの家に向かった。今しがた目にした全てを否定する言葉が欲しかった。

 路線を検索することもなく、電車に飛び乗った。この四年で主要な駅や路線であれば、どこに居ようとアキハの家まで最短時間で行ける方法を覚えてしまった。メトロから私鉄に乗り換え、快速を見送って普通電車に乗り込む。聞き慣れた発車メロディから遠ざかるように改札へ走り、通い慣れた道を駆け抜けていく。鍵を開けて家に入れば、寝起きのアキハが気怠そうに私を迎え入れることを切実に願った。

 三階まで一気に駆け上がり、合い鍵で部屋に雪崩れ込む。

 部屋にアキハは居なかった。肩で息をしながら私はその場にへたり込む。フローリングの床は綺麗だった。

まだ出張から戻ってきていないだけかもしれない。たまたま今日だけ飲みに行っただけかもしれない。私はどうしてもあの女性がアキハだと認めたくなかった。いつもと変わらない部屋であることを一つずつ確かめた。家具の配置、食器の数、壁の絵画。目に付くものは全て記憶の中の部屋と照らし合わせた。

 目に付くところでは何の変化もなかった。私の知っている通りの、私の好きなアキハの部屋だ。私が少し動いて空気が動くと、アキハがいつも付けている甘い香水の残り香がする。私は震える足を奮い立たせて部屋を漁り始めた。良くないことだと分かっていても止められなかった。結末を悟っていても、心が受け入れることを拒否した。

 キッチンの下部収納から本棚まで隅々まで見て回った。手当たり次第全てを引っ張り出して、美奈の痕跡を探した。アキハと出会って三年、名前を言わずに美奈の話をしたことはあったが、二人が知り合う機会なんて無かった筈だ。

 クローゼットの端の方、冬物のコートの下に紙袋が溜めてあった。紙袋のロゴを一つずつ確認していく。私の知っている限り、それらのロゴはアキハの持っている服やアクセサリーのブランドと合致していた。こんな細かいところまで確かめるなんて、本当に気持ちの悪い人間だと自分を卑下した。こんなに探したにも関わらず、美奈の痕跡は一つもないのだ。やはりあれは私の見間違いだった。調子に乗ってお酒を飲み過ぎたせいで、幻覚を見てしまっただけだ。

私は立ち上がり、紙袋の入っていた紙袋を元の位置に戻した。その時、クローゼットの奥に落ちている紙袋を見つけた。手を伸ばし、ロゴを確認する。

それは、美奈の結婚式の引き出物が入っていた紙袋と全く同じだった。美奈と旦那の名前がプリントされた、使い道のないあの紙袋だ。これをアキハが持っている。それは、アキハがあの場にいたこと、招待されるほどの関係を美奈と築いているということに間違いなかった。

「……桜? そこにいるの?」

 鍵を掛ける余裕も無かった。不審に思ったのか、少し怯えた声でアキハが私の名を口にした。

 部屋を漁っていたことを隠す気はさらさら無かった。泣きたかった。私はアキハの方を向けなかった。俯いたまま、紙袋の端を握り締めた。怒りはもうどこにもなくて、目の前の感情をどのように処理すればいいのか分からなかった。

 アまるで強盗が押し入ったかのように、ありとあらゆるものをひっくり返したような部屋を見て、アキハは当然私を責めた。

「説明してくれる?」

「……どこから?」

「どうして部屋を漁ってるわけ?」

「説明するのはアキハの方でしょ!」

 一回堰が切れてしまえば、詰る為の言葉はするすると口を突いて出た。

「美奈と知り合いだなんて聞いてない!」

 アキハの表情は微塵も変化しなかった。怒りを湛えた無表情で私を見据えている。

「言う必要ないじゃない」

「今日美奈とホテルから出てきたのはどう説明してくれるの!」

「あのね、桜。私達は付き合ってないんだから私が誰と寝ようが桜には関係無いって話したことあるよね」

「分かってるよ、そんなこと!」

「じゃあ桜は何に怒ってるの」

 私は一瞬言葉に詰まり、でもここで引いてはいけないと感情のままに怒鳴る。

「美奈は私の親友で、ずっと好きで、それで……」

「なるほどね」

 アキハは私の目の前にしゃがみ込み、おでこを指で押し、強引に視線を合わせた。

「桜は、男にしか興味ないと思ってた親友が女の子ともそういうことが出来て、しかも相手が自分のお気に入りの女だったことに怒ってるんだ」

その口調は、アキハが私を小馬鹿にして、可愛いね、とからかう時の言い方にそっくりだった。アキハの瞳の奥には情欲が見て取れた。アキハは今この状況に興奮しているのだと分かって、私は頭を鈍器で殴られたような気分になった。

「あの子が桜の親友だったことも全部知ってた」

「……は?」

「美奈ちゃんはね、桜の視線にずっと気付いてたのよ。いやらしい目で見られてるって分かってたみたいだし」

 心臓がどくりと鳴る。

「それで自分が女の子とも出来るか知りたかったらしいわ。健気よね~」

「じゃあ……、美奈は」

「桜の為に私と会ってたの。初めはね」

アキハは心底面白いという表情で笑っている。自覚のないまま私の目からは涙が溢れていた。自分の中の何かが音を立てて崩れていくような感覚に苛まれて、私はアキハに何を言い返せなかった。それをいいことにアキハは私をからかうことを止めようともしなかった。

「今は私のお友達。今の私と桜と同じような関係ね」

 私は何も聴きたくなくて、耳を塞いで蹲る。何も知らないままだったら、美奈とアキハが寝ていることは受け入れられたかもしれない。でも、そこに私の存在や影響があったなんて、死んでも知りたくなかった。

 アキハが私の背後にしゃがみ込み、抱え込むようにして私の背中をさすった。アキハの胸が私の背中に当たり、一瞬ぞくりとした自分に腹が立って仕方がなかった。

「可哀想な桜。大好きな親友を取られちゃうなんてね」

 煽られているようにしか聞こえなかった。私は力一杯アキハを押し倒し、お腹の上に跨った。アキハの頭を床に押し付けると、鈍い音がしてアキハの表情に一瞬苦悶がよぎる。堪らなく憎かった。今私が触れているこの肌に、数時間前までは美奈が触れていたという事実が私を殺意へと駆り立てた。美奈と出会ったからの八年間、必死で抑え込んでいた気持ちを弄ばれていたことにも、それに気が付けなかったことにも苛立った。自分の喉を掻き切ってしまいたかった。だがそれよりも先にやることがあった。私は両手をアキハの首に回し、ゆっくりと力を込める。先程よりもハッキリと苦痛で歪んだ顔のアキハはとても美しく、魅惑的だった。そんな状況でもアキハは嬉しそうに笑った。

「そんなに怒らないで。これで桜も安心して美奈にアピール出来るじゃない。私達にとって一番辛いことは彼女達の恋愛対象にすらなれないことでしょう? その心配は無くなったんだから、思う存分楽しめばいいじゃない。ね?」

アキハの言っていることは尤もだった。だが、私は恐怖に襲われていた。首を絞めている手が僅かに痙攣してしまうほどに。

首を絞められたアキハは次第に苦しそうな顔というよりも、恍惚に近い表情を浮かべて私を見た。その顔はとても艶めかしくて、私は複数の欲求を同時に抑え込まなくてはならなかった。

「それでフラれたら?」

 私は泣いていた。アキハの頬に私の涙が滴り落ちる。

「恋愛対象ではあっても、私を好いてくれないだなんて、そんなの耐えられない」

「ふふっ。八方塞がりね」

両手に掛ける力をさっきよりも強くしているというのに、アキハは余裕をもって私をからかってきた。限界だった。私は腕に力を込めてアキハを気絶させた。

気付かないうちに呼吸が荒くなっていた。しばらくアキハの上に乗ったまま私は肩で息をして、ある程度整うまで過ごした。頭が割れそうだった。私はこのままアキハを殺してしまおうかと思った。気絶している今なら無防備で殺すことも容易いだろう。美奈を抱いた身体で私に抱かれていたなんて許せるはずもなかった。

その時、床に落としていたスマートフォンが相田からの着信を告げた。手を伸ばして回収し、アキハの上に跨ったまま応答する。

「今どこにいんの?」

「……言いたくない」

「無事ではあるんだな?」

「……うん? なんで?」

「お前が飲み会の後始末しないで消えたから、寝過ごして延長料金ふんだくられたって聞いたんだよ」

「あー、」

「土屋が何も言わずにいなくなるなんて珍しいっつーか初めてだからな。これは生存確認の電話。分かった?」

「……ごめん」

「とりあえずお前一回帰ってこいよ。どこにいんのか知らないけど」

私は一瞬迷ってから「分かった」と伝えて、電話を切った。殺意はいつの間にか鳴りを潜めていた。アキハの上から降りて、例の紙袋を手に取った。粉々になるまで破ってやろうと思ったのだ。しかし表面に薄くビニールを貼ってあるようで、上手く裂け目を入れることが出来なかった。むしゃくしゃして私は強硬手段に出た。ライターで紙袋の底の部分に火を付けると、紙以外の何かが焼ける焦げ臭い匂いが部屋に漂う。致死量に到底達しないことは分かっているが、アキハにこの煙を吸わせて殺してやろうかと何度も思った。そんなことを考えているうちに、火は次第に大きくなり紙袋を灰へと変えていく。私は揺らめく炎にアキハをくべたい欲求を必死に押さえて、紙袋の残骸をシンクに投げ捨てる。今の自分が正常ではないことはよく分かる。だが辛うじて火事になっては困る、という理性だけは残っていた。燃え尽きそうな紙袋に水を勢いよく浴びせる。開けた覚えのない窓からの風がやけに冷たかった。紙袋の残骸はそのままシンクに残した。

駅までの道すがら手癖で煙草に火を付けた。肺を煙で満たし、頭を覚醒させた。指先はまだ震えていた。指の隙間をすり抜けていった煙草がアスファルトの上に転がる。私はそれを力一杯踏みつけた。

 家に戻ると、相田が玄関先に座って私の帰りを待っていた。私の姿を確認すると、溜息を吐いて私を抱き寄せた。指先の震えはまだ収まっていなかった。

 相田、と名前を呼ぼうとして、私の背中を撫でる相田の手も震えていることに気が付いた。私は胸がキュッと痛んで、相田の肩に頭を預けた。電話ではあんなにつっけんどんな態度だったが、ちゃんと心配してくれていたらしい。目まぐるしい夜だった。息も出来なくなりそうなくらい何もかもが不安定で、自分が壊れてしまいそうだった。それでも相田には、相田にだけは、いろんなことを謝りたかった。

「ドライブ行こうぜ」

「……今から?」

「今から」

 驚いて相田を見つめると、少し得意げに笑った。どうやら今日も冗談ではないらしい。

「十五分後に出発な」

 相田はそう言って部屋に入り、私も慌てて後に続いた。

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