胡蝶の夢

小枝芙苑

全一話

 飼い葉桶の水をざっと顔にかけられたような気がして、資盛は大きく空を仰いだ。しかし抜けるような青空には、一滴の雨も見えない。

 周囲を見渡しても、都大路には誰ひとりおらず、乾いた地面が延々と続いていた。


「気のせいかな……」


 首をかしげた資盛は、眉根を寄せながら目を閉じた。鼻の奥がツンと痛み、頭は靄がかかったようにぼんやりとしている。

 烏帽子の中にまで湿った靄が満ちているようで、資盛はぷるぷると頭を振った。


「――ずっと忙しかったから、疲れてるのかもしれないな。早く、帰ろう。妻が待っている」


 資盛がそうつぶやいたとたん、都大路に人があふれた。


◇ ◇ ◇


 自邸にもどった資盛は、出迎えてくれた妻を見るなり驚いて後退った。よく知った顔なのに、彼女がここに居ることに強烈な違和感を覚える。


「右京……?」

「どうなさったの、殿? わたしの顔に、なにかついていて?」

「いや……そうじゃなくて……。その、右京だよね?」

「いやだわ、ご自分の妻の顔をお忘れになったの?」


 資盛は「忘れないよ!」と力いっぱい否定した。長く慣れ親しんだ彼女の顔を、まさか忘れるはずがない。

 出会ったころからまるで変わることなく、落ち着いた鳶色の瞳にはいつでも知的な好奇心があふれ、涼しげな唇は木槿むくげの花のように淡く可憐な紅色をしている。


 帝の中宮に仕える女房たちの中でも才媛と謳われ、男たちとも臆することなく機知に富んだやりとりのできる彼女は、資盛にとっても自慢の妻だった。


(そうだよ、右京大夫はぼくの妻じゃないか。あれほど強く望んで迎えたのに、やっぱり今日はどうかしてるな)


 不安げに見上げる妻へ、資盛は笑顔をむけた。


「ごめん。ちょっと疲れてるみたいなんだ。でも、きみの顔を見たら元気がでたよ」


 そう言いながら腕を伸ばし、自身の不安をも解消するように強く妻を抱きしめた。

 むせ返るほどに濃厚な薫物の香りが資盛の鼻腔を刺激して、たまらず恋しい妻の髪へ鼻づらを押しつけていると、その下から苦しげな抗議の声があがった。


「……殿、苦しいです。そんなに力を入れては、お腹の子に障ります」

「え、あ、ごめん!……って、子ども? お腹に、ぼくの子がいるの?!」


 思いがけない妻の言葉に、資盛は大いに動揺した。しかし妻は、夫のその態度に心底呆れたように短くため息をついた。


「ほんとうに、今日の殿はどうかしておいでだわ。それとも、ご自身の子でも四人目ともなると、こうまで興味がなくなっておしまいになるのかしらね」


 今度こそ、資盛は切れ長の目を精いっぱい丸くした。


(四人!? ぼくの子が――ぼくと右京の子が、四人もいるだって?)


「ほら、しっかりなさってください。太郎はもうすぐ侍従として帝のお側に上がるのですよ。次郎だって、元服後は法皇さまがお側に置いてくださると仰せなのに、あなたがあの子たちを粗相のないように導いてくださらないと困ります」

「あ、ああ……そうか、そうだったね」


 妻に似て好奇心旺盛な長男の顔を思い出して、資盛は安堵した。

 ほら、ちゃんと覚えている。太郎、次郎、そして大姫。三人の子どもたちが、みな健やかに育っていることを。四人目の誕生を、心待ちにしていたことを。


 いまだ平家は盤石で、自身は法皇の覚えもめでたく順調に出世している。子どもたちにも、それなりの道筋をつけてやれるだろう。

 大姫はいずれ、中宮徳子の生んだ皇子のもとへ入れてもいいかもしれない。天皇家と平家のつながりを、いっそう強固なものにできる。


 右京大夫を正室とするために、一門の古老たちを説得して回ったこともいい思い出だ。あのとき、徳子の後押しがなければ、成し得なかったかもしれない。


 なにひとつ欠けることのない、完璧なまでにしあわせな日々。


(ああ、これだよ。ぼくが夢にまで見た穏やかな人生。もう、闘うことにも、守ることにも疲れたんだ……これからは、右京とふたりでゆっくりと歩いてゆきたい。もう、あの場所へは戻りたくない――)


「あの場所……?」


 するりと浮かんだ言葉を、資盛は確かめるように口にする。

 ぴちょん、と、顔に水滴が落ちてきた気がした。


(あの場所ってどこだ? 戻るって、どこへ?)


 ぴちょん、ぴちょん……ぽとん……


 見えない雫が顔に、肩に、足もとに染みを広げてゆく。それはひどく不愉快で、乱暴に口や鼻をふさがれたような恐怖と息苦しさを感じた。


(ぼくは、なにかを忘れている。なにか、大きなことを――)


 記憶の断片を捉えようとして資盛が目を閉じると、妻が取り乱したように叫んだ。


「だめ、だめよ! なにも考えないで。目の前の世界だけを見て!」


 すがりついてくる妻の髪が、じっとりと濡れて冷たい。

 ふいに、女たちの長い髪が水面に広がる光景が思い出された。赤く染まる水、色とりどりの袿、波に漂い生き物のようにうねる黒髪。


「右京、ここはどこなんだ……? きみは、ほんとうにぼくの妻だった?」

「お願い、この世界を疑わないで。わたしをまた、ひとりにしないで。お願い、資盛どの――!」


 水鏡に映したように、右京大夫の姿がゆらゆらと歪んでゆく。

 

 矢の唸り、白刃の閃き、馬のいななき、打ち寄せる波。鬨の声、怒号、絶叫、断末魔の叫び。弟や従兄弟と手を取りあう自身の姿。水しぶき。


「資盛どの、だめ……いかないで……」

「――ぼくは、入水した。そうだろう、右京?」


 ぱぁんっ、と水がはじける音がして、目の前にいたはずの右京大夫も、しあわせな世界も、すべてが暗転した。


◇ ◇ ◇


 海面がどんどん遠ざかる。陽の光はすでに点でしかなかった。水を吸った鎧は容赦なく、資盛を水底へ水底へと引きずりこんでゆく。


 すでに苦しみも恐怖もなく、いま、死出の旅路が終わりを迎えようとしていた。


(右京、うつくしい夢を見たよ。きみとおなじ毎日を歩く夢だ……ほんとうに、しあわせで、すばらしい夢だった。右京、最後に会えてよかった。どうか子どもたちを頼むよ、右京、右京……右京――!)


 夢とうつつが溶けあう意識のなか、その眼裏に最愛の人の面差しを刻みつけたまま、資盛は陶然とその生涯を閉じた。




 

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