エピローグⅡ
翌年四月一日、長女和泉が誕生。DNA鑑定の結果、父親は無事流星と分かり、その年の八月、私たちはようやく結婚式を挙げた。四月生まれだから三月に生まれた子より一学年下になると思ったらならなかった。四月一日生まれまでが上の学年で、四月二日生まれからが下の学年になるそうだ。高齢出産だからなるべく早く子どもが学校に入学して卒業して社会に出てほしいと願っていたから願ったり叶ったりだった。
その翌年三月次女咲彩誕生、またその翌年三月三女仁美誕生。その三年間、私はほとんど妊娠していた。その年でよく頑張ったねと流星の両親にも感心されたが、産める限り何人でも産みたいという夢を叶えるためだからまったく苦にはならなかった。むしろ頑張ったのは流星だと思う。アラフォーの私を三回も妊娠させ、妊娠中もよく私を支えてくれた。本当に感謝している。
月日は流れ、私は55歳になっていた。とっくに閉経し、閉経の前後五年間と言われる更年期もそろそろ終わろうとしていた。私は産休と育休で計五年間仕事を休んだが順調に昇進を重ね、48歳になる年に課長となり、昨年四月には三つの課を束ねる局長となっていた。
流星は来月の二月で39歳になる。もともと童顔だったこともあり、実年齢よりは確実に若く見える。私は年相応の外見だから、知らない人が私たちを見れば親子にしか見えないだろう。
私が局長になったとき流星も主査に昇進した。昇進速度は平均より少し遅め。相変わらず私が県庁勤めなのに対して、流星は最初の三年間だけ県庁でそれからはずっと出先機関勤め。直接勤務する姿を見られないから流星の上司や同僚に勤務の様子を聞くと、必ず頑張ってますよという回答が返ってくる。優秀だと言ってくれた者は一人もいない。つまりそれが彼の評価なのだ。おそらく彼は定年までに課長になることもできないだろう。家事の苦手な私に代わって積極的に家事を担当してくれる彼にはいつも感謝の気持ちを伝えている。職場での役職はだいぶ差がついてしまったが、それを家庭に持ち込むことはしない。
夫婦の営みもまだ週二回ほどある。白髪の目立ってきた髪を黒く染め、高い化粧品を使い、ときどきスポーツジムにも通い、セクシーな下着も身に着け、17歳年下の流星から女として見てもらうための努力はしているが、限界も感じている。閉経した頃、私に気づかれないようにしてくれるなら浮気してもいいよと提案したら激怒された。
「あなたはおれを馬鹿にしてるのか? 年の差は初めから分かってること。あなたがおれのために若く見せようと努力してることも知ってる。おれはあなたを愛してるから浮気しない。あなたもおれを愛してるなら二度とそんなくだらない提案をしないで、もっとおれの喜ぶ提案をしてほしい」
直後に夫婦二人きりの旅行を提案して、娘たちも楽しんでくればと言ってくれたので、三泊四日で北海道の温泉地に二人で行ってきた。妊活に励んだ婚前と新婚時代のように彼は何度も何度も激しく私を抱いた。彼の愛を再確認することができて私も幸せだった。
私たちと娘三人の関係も良好だ。長女の和泉は高一、曲がったことの嫌いなしっかり者。次女の咲彩は中三、地味で物静かなタイプ。三女の仁美は中二、少しわがままだけどみんなに好かれる人気者。
ところが、昨年の和泉の高校入学以来、流星はずっとピリピリしている。入学式で和泉の担任が光夜だと知ったときはお祝いの場なのに激昂した。
「だってこんな偶然あるわけないじゃないですか! 入学生の中にうちの子の名前を見つけたとき、絶対あいつわざと自分のクラスに入れたんですよ。あなたをおれに取られた仕返しをするためにね」
「まさか。あれから何年経ってると思ってるの?」
「何年経ったってあいつの本性は鬼畜です。クラスの生徒の保護者に過去のあいつの悪行を言いふらしてやりたいくらいですよ」
「それはやめて!」
私に一喝されて流星は不満そうに口をつぐんだ。あいつをかばうなんて、もしかしてあなたはまだあいつのことを……。などと口にするほど夫が愚かではなかったことは救いだったが、入学式の最中ずっと怒りで体を震わせていた。入学生呼名の場面で、
「三井和泉!」
と彼に呼名されたときは、
「娘の名前が汚れる……」
と独り言をつぶやいていた。
入学式後に教室で親子そろって担任の話を聞いた。
「たくさん失敗をしながら成長していってほしい」
という光夜の話を私はうなずきながら聞いたが、隣に立つ流星は、
「取り返しのつかない失敗もあるけどな」
などとぶつぶつ言いながら、ずっと光夜をにらみつけていた。
帰宅後、流星に怒りをぶつけたのは私ではなく今日の主役の和泉だった。
「お父さん、今日の態度は何なの? 娘の晴れ舞台を台無しにしてうれしかった?」
「そういうわけじゃ……」
夜、娘たちが自室に向かったあと私も一言苦言を呈した。
「かつて私が彼と恋人同士だったといっても、今の私は彼に対してこれっぽっちの未練も持ってない。君もそろそろ過去の恨みに囚われるのをやめなきゃいけないんじゃないの? 正直言って今日の君の振る舞いにはがっかりした。少なくとも三人の娘を持ち、娘たちの人生に責任を持つ父親の態度ではなかったよ」
「すいません……」
素直に謝ったが、本心からの謝罪でないことは明らかだった。ただこれ以上追及しても夫婦間に溝を作るだけで何も得るものがなさそうだったから、それ以上の追及はあきらめざるを得なかった。
その後も流星の疑心暗鬼は続いた。高校で三者面談があると聞けば、私は出るな自分が出ると駄々をこねた。ケンカにならないように流星を見張る必要があると考えて、私も面談に行かざるを得ず、三者面談は和泉のときだけ四者面談になった。面談中流星はずっと光夜をにらみつけ、光夜の言うことに揚げ足を取るようにいちいち噛みついていた。
面談後、和泉がうんざりした顔で流星に抗議した。
「光夜先生、いい先生なのになんでそんなに目の敵にするの?」
「教え子に手を出して結婚するような男を信用できるわけないだろう? 和泉やお母さんに何かあったら困るから警戒はするさ」
〈お母さん〉とは私のこと。ちなみに夫婦二人きりのとき、私は流星を〈流星君〉または〈君〉と呼び、流星は私を〈小百合さん〉または〈あなた〉と呼ぶが、ベッドの上では相変わらず役職名で呼ばれる。役職名で呼びながら私を攻めると興奮するのだそうだ。それを禁止してセックスレスになるのも嫌なので私も仕方なく彼の性癖を受け入れている。
「女子高生の私はともかく、三十代の光夜先生が五十代のお母さんと恋愛関係なんかになるわけないでしょ。被害妄想強すぎだよ」
「お父さんは和泉の担任と同い年だが、17歳年上のお母さんと恋愛して結婚までしているけどな」
「特殊な例を一般化して語らないで!」
年の差婚の私たち。結婚当初いろいろ陰で言われたものだが、私たちの愛の結晶である娘にまで私たちの恋愛を〈特殊な例〉呼ばわりされるのはけっこうつらいな。
「それにね、先生が教え子と結婚したといっても交際を始めたのは奥さんが卒業してからだって言ってたよ」
「どうだか。信用できんね」
「お父さん、どうしちゃったの? そんな話の通じない人じゃなかったのに……」
黙り込む流星。かわいい娘に幻滅されても、今もなお光夜を許す気はないということか。私もあまり娘に同調できる立場でないのがつらいところ。それをすればまだ光夜に未練があるのかと邪推されて、よけい面倒なことになるのが目に見えているから。
光夜と流星の関係がギクシャクしたままでも、和泉はそれなりに高校生活をエンジョイしてるようだ。新年になり、次女の咲彩が受験生で姉と同じ高校を受験すると言い張り、流星の悩みの種がまた一つ増えたところ。
元日とその翌日は流星のご両親の家に挨拶に行ったり、桜子夫妻や椿姫夫妻と会食したりで忙しかった。
桜子は茶飲み友達みたいなもんだよと言いながら18歳年上の加藤部長と結婚して、結婚した翌年には子どもが生まれていた。お茶を飲んでただけではなかったんだなと思わず苦笑いした。三女の仁美を産んだとき私は41歳だったが、桜子がその子を産んだとき42歳。光夜とつきあいだした頃、自分が子どもを産めるギリギリの年齢だと焦りまくっていたが、実際はそれほどギリギリではなかったのかもしれない。それにしてもその子が20歳になるとき加藤部長は80歳か。現在75歳。いつまでも元気に長生きしてほしいものだ。
石橋進と結婚した椿姫は二人の子どもを産んだ。一人目はすぐにできたけど、二人目はなかなかできなくてやはり42歳のときに出産。姉妹三人とも高齢出産を経験。当分育児に追われるから、三人とも老後は当分先だねえと桜子と笑いあったのを覚えている。
一月三日、みんなで初詣に行きたいと和泉が言い出したから家族五人で行くことにした。なぜか行きたい神社は近所の神社ではなく、隣町の神社だという。
「あんまり知られてないけどすごいパワースポットなんだって。これから受験の咲彩のためにも行くしかないでしょう!」
そう言われたら行くしかない。私たちは急いで身支度して車に乗り込み、流星の運転で隣町へ出発した。
天気は快晴。正月にしては気温も高め。今年もいい年になるんじゃないかという予感が、神社にお参りする前から胸のうちで強まっていく。
流星と結婚して今年で17年目。別に区切りの年というわけじゃないし、子どもの受験も今年で終わりというわけでもない。来年は三女の仁美の高校受験。その翌年は長女の和泉の大学受験。まさにエンドレス。子どもが独立するまで子育てに終わりはないんだなと改めて実感させられた。
家庭内だけでなく仕事上の懸案もたくさんある。いろいろあるが、今年も目の前に現れるすべての壁を乗り越えていくだけだ。隣の運転席の流星といっしょに――
「小百合さん、ずっとおれを見てるけどおれの顔に何かついてますか?」
「そうじゃないよ。今年もよろしくお願いしますという気持ちだったんだ。正直私は神様じゃなくて君に頭を下げたい気分」
「頭を下げなくていいし拍手もしなくていいです。おれはあなたの神様になりたいんじゃなくて、あなたの恋人でありたいんです」
「恋人? 君は私の夫だからとっくに恋人以上の存在になってるよ」
流星が何か答える前に後部座席の娘たちが騒ぎ出した。
「高校生の娘がいても恋人同士でいたいってラブラブだね!」と仁美。
「クラスメートの親が不倫したとか離婚したとかたまに聞くけど、うちの両親に限ってはそういう話とは無縁なようでホッとした」と咲彩。
「不倫はともかく離婚は分からないよ。お父さん、光夜先生をずっと目の敵にして突っかかってばかりで本当にみっともないしね。そんなこと続けてたら、いつか本当にお母さんに離婚されちゃうんじゃないの?」と和泉。
流星は相変わらず黙秘。光夜に関することを追及されると必ず貝のように沈黙するが、流星の沈黙が不気味すぎて私の方が黙っていられない。
「離婚なんて絶対にしないから。和泉、お父さんに謝って!」
和泉は私の要求に嘲笑で返した。
「お母さん、私が何も知らないと思ってるの? お母さんとお父さんは職場結婚といっても、上司と部下の関係だったんでしょ? お母さんは産休と育休で五年もブランクがあったのに、同期で一番の出世頭。それなのにお父さんの昇進は同期の中でも遅い方。そのことでお父さんはお母さんに強いコンプレックスを持ってて、ずっとその怒りをぶつける相手を探してた。そこに都合よく現れたのが光夜先生だった。お父さん、私の推理が間違ってるなら言い訳してみれば?」
流星は全部聞こえてるはずだがまだ無言。無表情でハンドルを握っている。流星が私にコンプレックスを持ってるかどうかは知らないが、あなたはすごい人だとはしょっちゅう言われる。
私は必ずこう答える。私がすごいとしたらそれは君が私を支えてくれたおかげだ。あのとき光夜と別れようとしていた私を君が拾ってくれなければ、仕事でもプライベートでも私は輝いていられなかった。君はギリギリの年齢だった私をママにしてくれた。そのことはいくら感謝しても感謝しきれるものじゃない。和泉が生まれたとき、もし可能なら二人目もと願ったら咲彩が生まれた。咲彩が生まれたとき、ダメ元でもう一人と思ったら仁美が生まれた。私は、私の願いを叶えてくれた君と子どもたちのために残りの人生を捧げると誓った。もし君と結ばれないまま時間切れになり子どもを持てない人生を送っていたらと想像するとゾッとする。子どもを産めなかった私はきっと無気力になって、後悔ばかりしてる人間になっていたと思う。今の私が輝いて見えるとしたら、それは全部君のおかげだ。本当にありがとう!
相変わらず流星は無言。でも自分の昇進が遅れてることを実の娘にあげつらわれて内心はらわたが煮えくり返る思いだろう。結婚前も結婚後も彼は優しかった。肉体的な暴力はもちろん言葉の暴力だって一回もなかった。浮気されることはなかったし、夜も一人で飲みに行くこともなく仕事が終わればまっすぐうちに帰ってきた。家事も育児も率先して取り組んでくれた。新婚当初より多少頻度は減ったが、夫婦の営みも普通にある。容姿の衰えが目立ってきた私の体を見て、きれいだと言ってくれる。一回り以上年上のこんなおばさんなのに本当に大切にしてくれた。出世が多少遅れていたって、彼以上の夫など存在しないと心から断言できる。
和泉の口撃は止まらない。
「三者面談のとき、お父さんは光夜先生がかつての教え子と結婚していたことも、光夜先生が自分と同い年なことも知っていた。ということはお父さんと光夜先生はもとから知り合いだったのかもって考えて光夜先生に聞いてみたら、大学で同じ部活だったって答えてくれたけど、それ以上は教えてくれなかった。次に私は光夜先生の奥さんの詩さんに接触した。詩さんはお父さんのことをほとんど知らなかったけど、なんとその代わりにお母さんのことはよく知っていた。小学生になるまでしょっちゅうお母さんに預けられていて、赤ちゃんのときはおむつも替えてもらってたって聞いてびっくりした。お父さん同士もお母さん同士も知り合いなら家族ぐるみで仲良くなるしかないでしょ! って意気込んだけど、詩さんはなぜか乗り気じゃなかった。そこで私は光夜先生と詩さんの一人息子で十歳の海里君に接近して仲良くなった。家族ぐるみで仲良くなるという私の提案に海里君も大賛成してくれた。私たちはそのための作戦を練って――」
「くだらない」
ボソッとそう吐き捨てたのは流星だった。そう言いたくなる気持ちも分かるが、その一言で和泉の怒りのスイッチが入ってしまった。
「私は自分のためじゃなくてお父さんと光夜先生が仲良くできるように頑張ってるのに、その言い方はないんじゃない? お父さん謝ってよ!」
流星は無視して無言でハンドルを握りつづけている。自分に酔ってる和泉もまったく引かない。
「お父さん、ふだん私たちに誰とでも仲良くしなさいとか言ってるくせに、自分ができてないのはどういうわけなの? 親なら子どもの模範にならないといけないんじゃないの? 昔、光夜先生と何があったのか知らないけど、大人でしょ? 過去のわだかまりを乗り越えるかっこいいところを私たちに見せてよ」
ちょうど目的地の神社の鳥居の横を通りすぎたところだった。流星はチラッとそちらを見て、
「過去じゃない」
とつぶやいて和泉を失望させた。私も少し失望したが、もちろん口には出さなかった。
和泉がすごいパワースポットと言ったわりには神社の駐車場はがら空きだった。参拝客は全然いないようだ。まあ空いてる方が落ち着いてお参りできるからいいかと気を取り直して車を降りたとき、和泉が光夜の子どもと練った〈作戦〉が絶賛進行中であったことを知った。近くの駐車スペースの車から降りてきた若いカップルをよく見たら、光夜と詩だった。そばにいる男の子が和泉が仲良くなった海里君だろう。向こうもこちらに気づいて目を丸くしている。
詩は高校卒業後就職した。父親の李久が学費は出すから進学しなさいと言ってくれたのに、托卵児の自分のために高い学費を払わせるわけにいかないと詩本人が頑固に言い張った。詩は就職後に光夜に交際を申し込み、一年交際して詩が二十歳のとき結婚した。もちろん私と流星は結婚式には出ていない。光夜の姉の田所美月とは今もたまに会ってお茶する関係だから、話の流れで光夜の近況も聞いている。
「海里!」
「和泉さん!」
お互いの姿を見つけるなり、恋人同士のように駆け寄る二人。さすがに熱い抱擁を交わすことはないが、仲良く手をつないで流星と光夜に無言の圧力をかけている。十六歳女子にしては小柄な和泉と十歳男子にしては背の高い海里は並んで立つと恋人同士に見えなくもなくて、私たちの困惑は深まった。
困惑していたのは私たち夫婦や光夜・詩夫妻だけではない。和泉の妹たちも意味が分からないという表情。
「女子高生が男子小学生と手をつないでてキモいんですけど」
「仁美、うちらがそれを言うのはまずくない? お母さんが女子高生だったとき、お父さんは生まれたばかりで小学生ですらなかったんだから」
これも作戦通りなのだろうが、和泉と海里の目の前に私たちは集まらざるを得なかった。
「お父さん、光夜先生、今ここで仲直りして! これからはもう家族ぐるみで仲良くするしかないんだから」
「和泉さん、それについては断ったはずだよ。そりゃ仲良くできるならそうした方がいいのは分かるけど、そうできない事情もあるの」
和泉が詩と接触したと言っていたのは事実だと分かった。和泉のせいで迷惑かけたなら詩にも申し訳ないことをした。
「仲良くできない事情って何?」
「それは……」
詩が困りきった顔をして、隣に立つ光夜の顔をうかがう。妻から目をそらした光夜と視線がぶつかってドキッとした。それがいけないことだと理解できないほど子どもではない私たちはうつむいて、お互いの視線をはずすしかなかった。
「ふうん。仲良くできない事情があるわけね。でも仲良くしなければいけない事情もあるよ」
「仲良くしなければいけない事情って、それこそ何なの?」
「こういうこと」
「なっ!」
目の前の二人が慣れた様子で口づけを交わし始めて、さすがに流星と光夜が二人を引き離した。海里が光夜に羽交い締めされながら暴れている。
「お互い好きだからキスしただけなのに、何がいけないの?」
和泉も流星から責められていた。
「小学生相手に何してる? 犯罪だぞ!」
「犯罪なら償うよ。高校も辞めたっていい。でもいつか必ず海里と結婚する」
「結婚? おれと光夜を仲直りさせるためにひと芝居打ってるだけなんじゃなかったのか?」
「最初はそのつもりだった。でも私以上にお父さんたちを仲直りさせようと熱心に動いてくれた海里を見て、彼のことが本気で好きになってしまった」
「そんな馬鹿な……」
私たちと同様に向こうでも光夜と詩が頭を抱えていた。咲彩と仁美は空気。咲彩はぽかんと口を開けているだけ。仁美は意味もなくスマホで写真だか動画だかを撮りまくっている。
向こうの三人がこちらに近づいて来るのを見て、流星が自暴自棄になったように吐き捨てた。
「小百合さん、全部話そう」
流星の言葉を聞いて和泉が作戦通りだと言わんばかりにニヤリと笑ったのを私は見逃さなかった。でも和泉、私たちの過去を聞いたあともあなたは変わらず笑っていられるかしら?
「私と光夜君の過去を?」
「違う。あなたが今も光夜を愛していることだ!」
「馬鹿なことを言わないで!」
私の抗議に答えたのは流星でなく詩だった。
「小百合さんもですか。光夜さんもまだ小百合さんへの恋心を捨てきれていないんですよ」
「詩、君も何を馬鹿なことを言い出すんだ?」
「しらを切るんだ? 証拠だってあるのに」
「証拠?」
「小百合さん、証拠ならおれも持ってますよ」
「言いがかりもいい加減にして! じゃあその証拠とやらを見せてみて!」
流星は懐から紙片を取り出して私たちに見えるように広げて見せた。
「それは!」
それは絶対誰かに見られてはいけないもの。39歳の私の誕生日に光夜がプレゼントしてくれた記入済みの婚姻届だった。それを光夜にもらって自宅に持ち帰ったあと、私は自分が書くべき欄も全部記載しておいた。二人の証人欄も光夜の方で探して書いてもらってあった。そのまま役場に提出できる形に仕上がっていた。
「小百合さん、あなたと光夜が結婚を前提に交際していたことはもちろん知ってます。だからこういうものが過去に存在していても驚かない。でもおれと結婚しておれとの子どもが三人も生まれたあともこれを捨てなかったのはどういうわけですか? おれと結婚はしたけど、まだ恋人は光夜のままなんですか? あなたはこれをおれに見つからないように封筒に入れて、子供部屋の本棚と天井のあいだの隙間にそれを隠した。まだ幼かった仁美が脚立を上ってこんなものを見つけたと言っておれにそれを差し出してきたときのおれの絶望をあなたは想像できますか? 不貞行為がなくたってこれは立派な不倫なんじゃないんですか?」
娘たちや光夜夫妻の目を気にしてる場合ではないと悟った。言い訳できることが何一つないから、私はその場で土下座して流星に謝罪した。
「けして許されないことをしました。なんでも言うことを聞きます。どんな罰でも受けるので、あなたや娘たちのそばにこれからもいさせて下さい」
「初めて会ったときからあなたはおれの憧れでした。あなたのそんな姿をおれは見たくなかったですよ」
私は流星の優しさに甘えていたのだと思う。流星と交際を始めたとき、
〈主幹はまだ光夜を愛していて、これから少しずつおれのことを好きになってくれるんですよね。それでいいです〉
と彼は言ってくれたが、これは結婚後も光夜を愛していてもいいという免罪符を私に与えたものではない。当たり前のことなのに私はどうして思い違いをしてしまったのだろう?
光夜を忘れようとしたが、忘れられなかった。実際に肌を触れ合ったわけではないし、心の中で思い続けるくらいのことはきっと許されると思い込んでしまった。流星の反応を見て今やっと思い知った。私のしたことは軽い気持ちで数回体の関係を持ってしまうことよりよほど許されないことだったと――
「お父さんと光夜先生の問題だと思ってた。まさか昔お母さんと光夜先生が恋人同士だったなんて……」
放心状態になった和泉に妹たちが噛みついた。
「今さら何を取り乱してるのさ? お姉ちゃんが掻き回してくれたせいで離婚の危機じゃん! どうしてくれるの? お父さんとお母さんが離婚したら、私はどっちについてけばいいの?」
「離婚したら私はお父さんについてくよ。お父さんとは結婚しただけで、本当に好きな人は別の男だなんて、そんなふざけた人といっしょにいたくない。少なくとも二度とお母さんなんて呼びたくない!」
咲彩の罵倒を聞きながら死んで許されるなら自殺しようと顔を地面にこすりつけながら考えていた。
「相思相愛だったって知ってうれしかった? 今までずっとあなたを縛りつけていてごめんなさい。私と離婚して小百合さんといっしょになってもいいよ」
「詩、君まで何を言い出すんだ? 僕は何もやましいことなんて――」
「だから証拠があると言ってるのに。あなたは結婚後結婚指輪を左手に、これを右手にはめていた。何のリングだろうとずっと思ってた」
もしかしてと思って顔を上げて詩の手元を見た。やはりそれは私がプレゼントしたピンクゴールドのペアリングだった。
「悪いと思ったけど、あなたに薬を飲ませて眠らせてからリングを外して見てみた。リングの内側に〈to Koya from Sayuri〉って刻んであったのを見て私は涙が枯れるまで泣いた。それからリングが見つからなくてずっと探してたよね? ごめんなさい。私がずっと持ってました。でももう持っていたくないのであなたに返します」
詩からリングを受け取るなり、光夜も詩の前で土下座した。並んで立つ流星と詩の前で並んで土下座する私たち。仁美が私の両手を手に取って何かをチェックした。
「よかった。お母さんはさっきのリングしてないよ」
でもごまかしきれない相手が私の目の前でしゃがんで催促してきた。
「ペンダントを渡して下さい」
私はそれをお守りだと言って、服で隠して見えないように身につけていた。さっき何でも言うことを聞きますと言ったばかりだ。素直にペンダントを首から外して流星に手渡した。チェーンの先にキラリと光るペンダントトップはピンクゴールドのペアリング。咲彩が流星の手から引ったくってリングの内側の文字列を読み上げた。
「to Sayuri from Koya」
「お母さん!」
断末魔のような和泉の絶叫が響き渡る。終わったと思った。私は再び顔を地面にこすりつけた。
「おれが出ていきますよ。あの家はあなたが買ったものですからね。慰謝料はいりません。あなたとの結婚生活、おれにとっては最高に幸せでしたから」
「そんなこと言わないで! あなたは何も悪くない。私がどうかしていたんです。お願いだから私を捨てないで!」
私は立ち去ろうとする流星の足元に必死にすがりついた。振り返った流星が泣いていたことまでは覚えている――
気を失って次に目を覚ましたとき、私は寝室のベッドの上にいた。全部夢だったのかと本気で胸を撫で下ろした。首もとに手をやるとペンダントも変わらずそこにあった。私は悪い夢を見ていただけだ。ペンダントも婚姻届も捨てて夫と娘たちのために残りの人生を捧げようと改めて誓った。
寝室を出るとばったり和泉と出くわした。
「おばさん、ようやく起きたんだ?」
「おばさんって親に対して――」
「浮気女をお母さんだなんて呼ぶわけないじゃん」
とだけ言って和泉は二階に上がっていった。
「あ、それから、土下座してたせいで額からまだ血が出てるよ。汚いから早く拭いてね」
額に触れてみると確かに手に血がついていた。夢なんかではなかった。全部現実だった。一番好きな相手とは結婚できないものなのだと悲劇のヒロインを気取っていた私はなんて傲慢だったのだろう。
私が許される日は来るのだろうか? 再び私を家族の一員だと認めてもらえる日は来るのだろうか? これから始まる終わりの見えない贖罪の日々を想像すると、気が遠くなる思いがした。
【完】
38歳――ギリギリの年齢だから婚活をすっ飛ばして妊活から始めてみました。 深海魚 @kou_shimizu
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