エピローグⅠ ※山口美奈子主任視点


 パワハラだのセクハラだのよく話題になるが、民間企業だけの話で公務員の私には都市伝説レベルで無縁な話だと思っていた。

 藤川主幹は仕事のできる人だ。それを否定する人は県庁に一人もいないだろう。でも仕事ができるから何をしてもいいというわけではないし、逆に仕事ができないから何をされてもいいというものでもない。

 ずっとやりすぎだと内心もやもやした思いを抱えていたが、昨日のあれは我慢の限界を超えた。本人にやりすぎですよとたしなめる程度では頭のいい人だからうまく言い逃れされてしまうかもしれない。もうすぐ始まる課の朝礼で近頃の藤川主幹の言動をみんなの前で糾弾してやるつもりだ。

 それをやると私も三井主事のようにいじめられるのだろうか? 望むところだ。私は彼と違って泣き寝入りなんてしない!

 昨日もこんなことがあった。


 仕事のできない三井主事が例によって大失敗していた。難しい仕事ではない。毎月決まった日にやるルーティンの仕事をやるのを藤川主幹に言われるまで忘れていた。

 「確か同じ仕事、先月もやり忘れて私まで何時間も時間外勤務する羽目になったよね」

 「すいません……」

 「三井君、彼女さんができたそうだけど、そんなにぼうっとしてて、君は彼女さんを守れるの?」

 彼女がいるとかいないとか話題にするだけでもセクハラだし、それ以前に大きなお世話だと思う。彼女を守れるかどうか? そんなのは三井主事本人が考えればいいだけの話で、藤川主幹が心配すべきことじゃない。

 「私もね、君が憎くて言うんじゃないよ」

 と言うけど結局憎んでるんだと思う。確か七月頃まで、藤川主幹に彼氏がいると知りながら、三井主事は高嶺の花の彼女にずっと言い寄っていた。恋人とうまくいっていた藤川主幹は、もちろんまったく相手にしなかった。ところが三井主事は突然別の女性を好きになったらしく、藤川主幹に見向きもしなくなった。

 一方、藤川主幹は医者だか弁護士だかの当時の恋人と別れたそうだ。主幹ならそのうちまた素敵な方が見つかると思うけど、新しい相手もすぐに見つかるわけではないだろうし、交際や結婚にこれから数年費やすとしたら、妊娠や出産は年齢的に厳しいに違いない。

 だからかどうか分からないが、藤川主幹は逃げられた三井主事に今頃になって未練を感じているようだ。追いかけてきたら冷たくして、逃げられたらもったいないことをしたと後悔する。藤川主幹を見てると、そんな心境なんだろうなって気がする。

 勤務中、藤川主幹が三井主事の方をときどきチラ見してるのに気づいていない者などいない。哀れだなと思う。三井主事が藤川主幹だけしか見ていなかったときなら可能性もあっただろうが、三井主事がほかに彼女を作ったあとでは、比べたら年齢差で藤川主幹に勝ち目はない。あせって接点を作ろうとして頻繁に指導してるんだろうが、こんなパワハラ・セクハラまがいの指導では完全に逆効果だ。

 覆水盆に返らず。未練たらたらな今の主幹にその言葉を贈ってあげたい――

 「怒りたくて怒ってるわけじゃないんだ。三井君、君には本当に期待してる。私の期待を裏切らないでほしい」

 気のない相手に執着することほど醜いことはない。惨めだなと思いながらため息をついた。藤川主幹に気づかれたかもと心配したけど、藤川主幹本人は三井主事への指導に夢中で、私のため息なんてまるで聞こえていなかった。


 それが昨日の出来事。

 あまりに見苦しいし、同じ女として情けない。

 今朝の朝礼の前に同僚の田所美月主事を誰もいない給湯室に呼んで意見を聞いてみた。

 「山口さん、どうしたんですか? なんか難しい話でもあるんですか?」

 「難しい話というほどでもないんだけどね、田所さん、あなた藤川主幹のことどう思ってる? 率直な思いを聞かせて」

 「妹のように思ってますが、それが何か?」

 簡単な単語しか使われていないのに、田所主事の言っている意味がまったく頭に入らなかった。

 「妹? あなたより一回り年上の主幹が?」

 「主幹とは少なくとも上司・部下を超えた恋愛感情に似た感情があるのは確かですね」

 上司・部下を超えた恋愛感情に似た感情って同性愛とかいう恋愛感情? この人、何を言ってるの? 空手をやってるとは聞いたことあるけど、頭でも打ったのだろうか?

 「何を言ってるのか分からない」

 「何を言ってるか分からないって……。率直な思いを聞かせてっていうから、率直な思いを語っただけなのに、そんな言い方されるなら山口さんとはもう何も話しませんから」

 「ごめん。実は最近の主幹の、特に三井君に対する言動に目に余るものがあると感じて、ほかの職員の意見を聞いてみようと思ってさっきの質問をさせてもらったんだ」

 「それは山口さんが主幹を嫌ってるからそう見えるだけです。あたしは主幹のことが大好きだから逆に微笑ましく思ってますよ」

 想定外の展開に困惑した。〈大好き〉ってなんだ? ライクではなくてラブだということ? 田所主事が藤川主幹を? 夫も子どももいる女からそんなセリフを聞かされて困惑した。サバサバした性格で何事にも執着しなさそうな田所主事が、こんなにも藤川主幹に心酔してるとは思わなかった。

 「まあ、どうしても山口さんが主幹とケンカしたいというならどうぞ。あたしはいつだって主幹の味方ですから」

 捨て台詞なのか警告のつもりか分からないが、田所主事から私への明確な敵意は感じた。幼い頃から空手道場に通っていただけあって上下関係に厳しい田所主事が先輩の私にこんな口を利くなんて思いもよらなかった。

 親子ほど年の離れた男の子に本気で恋する藤川主幹、そんな主幹に対して恋愛感情に似た感情を持っていると告白した田所主事、親子ほど年の離れたおばさんにのぼせ上がった熱が冷めても相変わらず仕事のできない三井主事、かわいい奥さんに二人のかわいい娘さんまでいるのにスマホの待ち受け画面がなぜかアニメの美少女キャラの緒方主査――

 母子係の面々は私以外一人残らず頭のおかしい人たちばかりだ。朝礼で藤川主幹の言動について私が意見しても同調してくれない可能性も高い。とはいえ、このあとの朝礼で藤川主幹を追及してやろうという私の決意が鈍ることはなかった。


 11月26日午前8時30分、課長の司会でいつも通り朝礼が始まった。朝礼といっても自席に座ったまま行われる。

 今日の業務についての連絡事項が各担当者から報告されていく。ここまではいつも通りだがここからが違う。

 「その他、連絡事項以外について何かありませんか?」

 言ってやる! 課長のその言葉を聞いて満を持して挙手する私。でも別に手を上げた人がいたらしく、私は後回しにされた。立ち上がったのは二人。よりによって藤川主幹と三井主事。私が今から課全体に問題提起し情報共有しようとしていたパワハラ案件の加害者と被害者のコンビ。

 いったい何を言い出すつもりだろう? 私は自分の持つ全注意力を二人に傾けた。二人は課長席のそばに移動して並んで立ち、三井主事がマイクを持って語り始めた。

 「私事ですが、僕たちはこのたび入籍いたしましたのでご報告します。県庁から1km圏内の場所にある建売住宅を妻が購入し、すでにそちらでの同居生活も始まっています。妻の名も三井小百合に変わりました。なお妻は妊娠もしています。来年二月から産休を取らせていただきます。なお、結婚式はこちらの都合で子どもが生まれてから挙式する予定です。日時場所等決まり次第またお知らせします。いろいろとご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」

 最後に三井主事が一礼すると、藤川主幹――じゃないもう三井主幹だ――もそれに倣った。見事な夫唱婦随。時代遅れかもしれないが、一言も口出しせずすべてを夫の三井主事に託した主幹の態度を潔いと思った。

 あとで聞いた話だが、結婚式を子どもが生まれるまでしないのは三井主事の両親の意向らしい。生まれた子をDNA鑑定して父親が三井主事であると確認するまで結婚式だけは待ってほしいという言い分は妻である三井主幹に対して失礼極まりないが、主幹はその条件を飲んだ。

 彼女は職場では若手の出世頭、プライベートでは17歳年下の夫を手に入れ、特に不妊治療もせずに自然妊娠。これ以上はないというくらい思い通りに生きてるようで、いろいろ我慢したり妥協したりしてることもあったんだなと意外に思った。

 課の、というか執務室にいる全員による万雷の拍手の中、職場親睦会幹事の二人がご祝儀をそれぞれ贈呈して、新郎新婦の二人がそれを恭しく受け取った。結婚報告が終わり、二人も自席に戻った。ご祝儀を主幹に手渡した職場親睦会の幹事は緒方主査だった。やれやれという口調で主幹に話しかけている。

 「いつも二人を見てるわれわれには二人の交際は最初からバレバレでしたよ。バレバレなのにバレてないと思って、主幹が三井君に対して無理に厳しい態度を取り続けてるのを見て、笑いをこらえるのがずっと大変だったんです。――なあ、田所さん」

 「でも主幹の態度をそのまま受け取って、パワハラだセクハラだって大騒ぎしようと思った人も一人くらいいるかもしれませんね」

 「まさか。少なくともそんな変人、うちの係にはいないよ。――なあ、山口さん」

 「い、いないと思います……」

 と舌を噛みながら答えた私を見る田所主事の冷めた視線が少し痛かった。

 「そういえば、山口さんもさっき手を上げていましたよね。どうぞ」

 思い出したように課長に声をかけられて、仕方なく立ち上がった。

 私も結婚報告ができればよかったけど、婚約していた県庁の別の部署に勤務している彼とは八月に私の方から婚約破棄していた。彼がスマホをずっと手放さないなと以前から怪しんでいた。彼が席を外した隙に彼のスマホを急いで見てみたら、出会い系サイトを通して知り合った何人かの女性と会話のやり取りをしていたのを見つけてしまって、これは無理だと思った。

 それからもいろいろあった。問い詰めたら逆ギレされて勝手にスマホを見たことを責められ、肉体関係はなかったと強弁されたが、私が問題にしてるのはそんなことではなかった。婚約破棄したのは私だけど、有責は彼の方なのでわずかだけど慰謝料もいただいた。そんな男だと見抜けず婚約までしてしまった自分自身がみっともなくて、婚約破棄の件を職場で話題にしたことはない。

 なんで私ばかりこんなに不幸なのだろう? 私だけが不幸だなんて絶対におかしい! そうか。私は正義感からパワハラ疑惑を問題提起しようとしたんじゃなかったんだな。みんな不幸になればいいと願って、たまたま身近で見てパワハラだと思い込んだ主幹の言動を糾弾しようと思い立ったんだ。

 「山口さん、どうかしましたか?」

 立ち上がったまま黙ってると課長に催促された。課の全員が私に注目している。さっきまで夫に従う従順な妻の顔をしていた主幹もすっかり仕事モードに戻っている。

 「私も幸せになりたかった」

 私はそうぽつりとつぶやいて着席した。あとで主幹に別室に呼ばれ、二人きりで私の話を聞いてくれた。主幹を陥れようとしていたことは言えなかった。主幹は私の婚約破棄の話を最後まで黙って聞いてくれた。

 「なんて言えばいいのか……」

 「何も言わなくていいです」

 私は勢いつけて立ち上がり軽く一礼した。

 「私も主幹みたいに自分の力で幸せになります」

 それからすたすたと部屋を出て執務室へと戻っていった。

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