20 神様光臨
結婚は二人でするものだが、二人の意思だけがすべてというものではないことは、もちろん承知している。私と流星の結婚にも反対者があった。それは流星の両親。交際相手を妊娠させたから結婚すると流星が彼らに告げた当初は結婚やむなしの雰囲気だったのが、相手の年齢が17歳年上と聞くや、絶対反対の立場に方向転換した。
騙されてるんじゃないか? と流星は両親に詰め寄られ、本当におまえの子どもなのか? とひどい言葉まで投げかけられた。私が会いに行けばもっとひどい言葉で罵られるだろうから、私が流星の自宅を訪問するのは絶対反対だと流星に釘を刺されている。
採用試験に合格し県職員になった流星の安定した収入が目当てだろうとも言っていたそうだから、相手も同業者だと伝えてみたらどうかな? と提案してみたら、流星の父上も同業者だという。
「おれの父は出先機関の課長です。結婚したい相手が同じ部署の上司だと知ったらきっと怒鳴り込んできますよ。相当頭に血が上ってるから昼休みまで待てずに勤務時間中に突撃してくるかもしれないです。昨日なんて、〈絶対に産ませるな! 産ませるならおまえとも縁を切る〉とまで言ってました」
勤務時間中に職場でトラブルになるのは困る。ただ、お腹の子は間違いなく流星の子だ。光夜と最後に行為したあとに生理が来てるから間違いない。流星との最初の行為はその生理が終わった直後だった。そんな生々しい話は流星の両親も聞きたくないだろうが――
聞けば流星の父上は55歳、現在県税の課税や徴収を担当する県税事務所の課長だという。県庁から県税事務所の入る総合庁舎までは車で十分もかからない距離。
「主幹、すいません。おれの説得が下手なせいで妊婦の主幹にまで嫌な思いをさせてしまって……」
「大丈夫。私が嫌な思いをするのはいいんだ。やっぱり許してもらえるまで私が君のお宅に何度でも伺って頭を下げるしかないんじゃないかな。中絶は絶対にできないけど、それ以外のことなら土下座でもDNA鑑定でも君のご両親が望むことは何でもする。私の通帳の4000万円を今すぐ君の通帳に移してそれをご両親に見せてもらってもいい」
斉藤有紗の両親から殺人未遂の慰謝料として500万円、松本李久から今まで羽海に無理やり託児を押しつけられてきた迷惑料として500万円それぞれ受け取り、私の預金残高は一気に1000万円増えていた。
「主幹とおれは上司と部下の関係とはいえ、人に後ろ指さされるような関係じゃないですよね? 主幹がそんなに卑屈になるのはおれが納得いかないです!」
ありがとうと答えようとしたとき、一つの影が私たちの目の前で立ち止まった。
昼休み、庁舎の最上階の展望スペースのソファーに腰掛けて私たちは話していた。今日も澄み渡る夏空。でも景色を楽しむゆとりは今の私たちにはない。
「君、女性相手に大きな声を出してどういうつもりなんだ?」
声を聞いてすぐ健康福祉部長の加藤秋信だと分かった。県の組織は六つの部からなり、加藤部長は六人しかいない部長の一人。部長の上は知事と副知事くらいしかいない。要は主幹兼係長の私から見ても加藤部長は雲の上の存在に等しいということ。
私が県職員に採用された当時、加藤は課長で直属の上司だった。県職員としての心構えは全部この人から教わったと言っても過言ではない。今、髪こそ白くなったが顔立ちは当時のまま。美しく年を取った人だと思う。
それから彼とは職場が同じになることはなかったが、庁舎内で顔を合わせれば、必ず声をかけて私の近況を尋ねてくれた。三年前病気で亡くなった部長の奥様の葬儀で私は泣いてしまった。部長は来年三月に定年を迎えるが、きっとそのときも私は泣かずにはいられないだろう。
「藤川さん、もしこの男とトラブルになって困っているなら力になるよ」
と言って、部長は私たちと向き合う位置にあるソファーに腰を下ろし、流星を牽制した。相変わらず優しくて頼りになる人だと思った。
「部長、大丈夫です。彼は私の部下の三井君で、やる気みなぎる新規採用職員です。今ちょっと、上司として彼のプライベートの悩みを聞いていて、解決策が見つからなくて困ったねと言い合っていたところでした」
「部長!?」
急に絡んできたこのじじいは誰なんだろう? とでも言いたげに今までうさんくさそうな表情だった流星が、コントみたいに飛び上がるように立ち上がるなり敬礼した。
「初めてお目にかかります。こども家庭課母子係の三井流星です。部長とは知らず失礼しました」
「君が三井君か? 課長から聞いてるよ。四月からまだ間もないのにもう十回以上遅刻しているそうじゃないか。仕事に取り組む姿勢も不十分だという評価だった。君がだらしなくて君の評価が下がるだけならいいが、君の行動が上司の課長や藤川さんの評価にも影響を与えることを自覚した方がいい。特に藤川さんは将来の部長、いや副知事候補だ。君も部下なら藤川さんの出世の妨げにならないような行動を心がけてほしいね」
将来の副知事候補? 歯の浮くような褒め言葉とはこのことだ。でも流星はそれを事実として受け止めたようで神妙な表情。
「はい。申し訳ありません」
「部長、三井君は交際相手を妊娠させたそうで、それが分かってからは心を入れ替えて仕事するようになって、遅刻もそれからは一回もないんですよ」
いつかバレることだが、流星が妊娠させた相手が直属の上司で17歳も年上の自分だと伝えるのはさすがに抵抗があった。
「まだ仕事も覚えてない新米職員が恋人を妊娠させた? プライベートまでだらしないんだな、彼は? もしかして彼の悩みは交際相手が妊娠したことと関係があるの? 乗りかかった船だから僕でよければ相談に乗るよ」
「ありがとうございます。三井君、部長は私が新採職員だった当時、直属の上司だったの。とても頼りになる方だからぜひ聞いてもらいましょう」
「主幹がそうおっしゃるならおれも異存ありません」
「部長、実は三井君が妊娠させた相手というのが彼より17歳も年上で、そのせいで彼のご両親が結婚を認めてくれないどころか子どもを堕ろせとまで言って困ってるという相談なんです」
「17歳年上……」
部長は絶句してしばらく沈黙が続いた。
「妊娠を武器にして17歳年下の男と結婚しようとしている女も図々しい。結婚してもうまく行くとは思えないな。子どもを堕ろせとまでは言わないが、生まれてからDNA鑑定して、もし三井君の子どもだと証明されれば認知して養育費を払う。正直それ以上の対応が必要とは思えないね」
加藤部長にも見捨てられたような気がして私は号泣した。
「藤川さん、いったいどうしたんだ!」
「主幹! 誰に反対されても、おれだけは主幹とお腹の子どもの味方ですから! おれ、両親と親子の縁を切りますよ。今すぐ二人で、いや生まれてくる子どもと三人で暮らしましょう!」
「三井君の17歳年上の恋人ってまさか藤川さん……?」
加藤部長の呆然とした声を聞きながら、私はいつまでも絶望の暗闇の中で泣き叫んでいた。流星の励ます声だけが救いだったが、どんな救いの言葉も私の心の扉をこじ開けることはできなかった。
それから三日後、流星が不思議そうな表情で声をかけてきた。
「どうしたの? なんか拍子抜けしたような顔をしてるよ」
「主幹の今の感想の通りです」
聞けばご両親が私と会いたがっているという。
「相手は妊婦なんだ。ひどいこと言いたいだけなら会わせるわけにはいかない」
と流星が牽制すると、罵倒しないとあっさり約束してくれたそうだ。
罠かもしれないがチャンスかもしれない。私とお腹の子どもの未来のために、私はもちろん会うことにした。
流星のご両親との顔合わせの場所はなぜか流星の自宅ではなかった。街で一番の高級料亭が指定された。高級料亭として有名というだけで今まで利用したことはない。目玉が飛び出るほどの価格設定らしいとは聞いたことがあるけど……
「お代は私が払えということかな?」
「いやお代は気にしなくていいって言ってました」
九月最初の土曜日の正午、私は流星とその料亭の和室で彼のご両親と向き合っていた。流星の製造者というだけあって明るく人のよさそうなご夫婦だった。とても子どもを堕ろせと連呼するような人たちには見えない。私が流星の子を身ごもったせいで優しいご夫婦を鬼に変えてしまったなら申し訳ないとは思うが、何があってもお腹の子を堕ろすつもりはなかった。
子どもを堕ろせと言っているご両親と子どもを堕ろせと言われている私たちの対面。お互い初めからギクシャクしていたがそれは仕方ない。驚いたことにお二人は私が流星の直属の上司だと知っていた。
「八月下旬、その夜も熱帯夜でとても蒸し暑かったのを覚えている。流星が藤川さんと会っていてまだ帰ってきてない時間に、藤川さんと流星の所属する健康福祉部の部長と僕の所属する経営管理部の部長がアポなしでわが家を訪ねてきてね、息子さんの結婚に反対してるそうだが許してやってくれないかと二人で僕らに頭を下げたんだ」
加藤部長が? 行動力のある部長のことだから、私を泣かせたその日のうちに経営管理部長に協力を依頼して行動を起こしたんだろうなと想像した。
「健康福祉部の加藤部長が相手の女性の人間性は僕が保証しますと言い切った。彼女は入庁16年目ですでに主幹兼係長の地位にいる。あなたも長年県職員として奉職してきたのだから、それがどれだけすごいことか分かるでしょう、と。会えば彼女の素晴らしさがさらに分かる。会うだけ会ってやってくれないかとさらに部長に頭を下げられて、さすがに嫌だとは言えなかったよ。今日の顔合わせのセッティングも費用負担を含めて全部加藤部長がやってくれたんだ」
流星が感嘆の声を上げた。
「部長二人を動かすなんて、やっぱり主幹は只者じゃないです!」
「流星君、部長を動かす力なんて私にはないよ。でも真面目に一生懸命頑張ってれば誰かが見ていてくれて、困ったときに助けてくれたりするものなんだ」
「今のセリフ、メモさせて下さい」
流星はスマホを取り出して本当にメモアプリに入力を始めた。彼は新規採用職員研修中の立場。自分の職務に生かせそうなことはなんでもメモしなさいと伝えてある。
「何事にもルーズで私たちがいくら言っても改善しなかった流星が、人の話を聞きながら真面目にメモを取るなんて!」
母上が感嘆のあまり大きな声を出した。メモを取るなんて当たり前の行動をしただけで感動してもらえるなんて、本当に昔からちゃらんぽらんだったんだなと知った。
「それだけじゃない。小学生のとき以来の遅刻癖も改善されてきて、七月からは一回も遅刻がないらしい。それも上司の藤川さんのおかげだと認めるほかないだろう」
父上まで感嘆の声を漏らした。七月からたった二ヶ月遅刻しなかっただけ。本当に遅刻癖が直ったかどうか分からないが、よけいな口出しはしないでおいた。
「おれが馬鹿をやると主幹の評価まで下がる。おれの評価が下がるだけなら気にしないけど、それだけは耐えられない」
「流星君、私に関係なく自分の評価も上がるように努力してほしい。だって君はもうすぐ自分だけでなく生まれてくる赤ちゃんを支える立場になるんだから」
「そうですね。精一杯頑張ります」
「流星、鑑定しておまえの子だと証明されたら、月々の養育費は絶対に滞らせるな!」
と父上。
「生まれてくる子に対する責任を果たさなければ勘当だからな!」
「それはつまり産んでもいいということですか?」
「それについては加藤部長から苦言があった。親としてわが子の結婚に反対する権利はあると思うが、正当な理由もないのに堕胎を主張するのは健康福祉行政の責任者の立場として看過できない、と。今まで妊娠中絶を強要したのは間違いだった。申し訳ない」
ご両親がその場で深々と頭を下げた。
「出産の許可、ありがとうございます。流星君が父親かどうか心配されているようなので、生まれたらすぐDNA鑑定をさせていただきます」
「おやじ、おふくろ、それより結婚の方はどうなんだ? そっちはまだ反対なのか?」
「流星君、喧嘩腰にならないで。頭を下げろと言われたら何時間でも土下座する覚悟で、私は今日この場所に来たんだから」
「主幹が土下座するくらいならおれが土下座します!」
止める間もなく流星は両親の目の前に進み出て土下座した。
「勘違いされても困る。部長二人に頼まれても一人息子と17歳年上の女との結婚など簡単に認めるわけにはいかない。会うだけでいいというから会っただけだ」
それ以降父上は無言のまま身じろぎ一つしない。母上も同様。私と関わる中で流星が人間的に成長したことを感謝しながらも、許容範囲はせいぜい子どもの認知と養育費の支払いまでで、結婚まで許すつもりはさらさらないのだった。
流星が土下座して私が見てるだけというわけにもいくまい。私も流星の右隣に正座して顔を畳につけようとしたとき――
ふすまがさっと開けられ、二人の男性が立っているのが見えた。一人は加藤部長、もう一人は初めて会う人。初めて会う人だが私はその人を知っている。私は呆然となり土下座しようとしていたことさえ忘れた。
そのまま二人の男性は私たちの方に歩み寄ってきた。加藤部長が私の右隣に座り、もう一人の男性も加藤部長の右隣に腰を下ろした。
「三井課長、どうかご子息と藤川主幹の結婚を許してやってもらえないか。私たちからも伏してお願い申し上げる」
加藤部長のその言葉を合図に部長と連れの男性も土下座して、畳に顔をこすりつけた。ここで私もハッとわれに返り、一番最後に顔を畳につけた。
「顔を上げて下さい、知事!」
父上が加藤部長の隣で土下座する山勝宗太県知事の前で中腰になり、オロオロと土下座をやめさせようとするが、知事はお構いなしに土下座継続。
「あなたが頑固を通すなら、僕も頑固を通すまでですよ」
妙にハスキーな、私の知っている知事の肉声そのものだった。
「知事に土下座させたことが職場に知られて、あなた今までどおりに仕事させてもらえるの?」
母上の心配はもっともだった。県職員にとっての県知事は、会社員にとっての社長というより神様と言った方が近いだろう。出先機関の課長といえども神様の前では無力な人間にすぎない。神様とトラブルを起こせばその者の県職員としての未来は閉ざされたも同然だ。
「二人の結婚を許します! だから知事、どうか……」
「そんな口先だけの許しでは僕の土下座をやめさせることはできませんよ」
「許します――じゃない、ぜひ結婚して下さい! 藤川さん、僕らも全面的に力になるので、不肖の息子をどうかよろしくお願いします!」
父上が白旗を上げたが知事はまだ顔を上げない。
「ご主人の意向は確認しましたが、まだ奥様の意向を聞けていません」
だが聞くまでもなかった。
「結婚して! 結婚して! 結婚して! 結婚してえええ!」
母上は緊張しすぎて平常心を失った人のプロポーズみたいに、結婚して! と繰り返し叫び続けた。
「ご両親のご意向しかと確認しましたぞ!」
知事はようやく顔を上げて、勝ち誇った表情を私たちにさらした。この瞬間、私たちの結婚の反対者はいなくなった。悔しそうな、それでいてホッとしたようなご両親の表情。
こうなるようにシナリオを書いたのはもちろん加藤部長。部長は流星のご両親について父上の上司など関係者から聞き取りを行い、夫婦とも頑固で言い出したら聞かないが上下関係には忠実であり権威あるものには逆らわない性格だと知って、このような作戦を考えたという。
部長は仕事上やり取りのある知事が遊び心たっぷりな性格で話の分かる人物であることを知っていた。かわいい部下のために私といっしょに土下座していただけませんかという部長の申し出を、知事は興味深く聞いて、協力要請に対してその場で快諾したそうだ。
知事の出番はここまで。加藤部長は私たちの仲人ができないことを残念がった。
「僕の妻が存命ならぜひやらせてほしいとお願いしたんだけどね」
部長は私たちの結婚式で桜子と出会い交際を始めることになるが、その話はまた別の機会に。
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