第2話 贄

 人間の私にしたら昔の話、神様にしたら瞬き一つにもならへん一瞬くらい。


 神様……たまき様に出逢うたのは、今からもう十年前。


 ある日いつもみたいに馬小屋で藁にくるまって寝とったら、いきなり集落の長に髪の毛引っ掴んで起こされて。それまでかて酷い折檻受けてたけど、その日から当時は呪文みたいでよう分からへんかった口上を叩き込まれたんは嫌やった。


 そやかて反抗しても一日一食しかもらわれへん貴重なご飯減らされるんも嫌で。ご飯言うても家の者が食べ残した残飯やったけど、食べへんかったら死ぬのんくらい、頭の足らへん子供でも分かった。


 途中でつっかえへんで口上が言えるようになったら、今度は目隠しと縄で縛り上げられて雪の積もった冬山にポイて。この世で一番怖いんわ人間やわ。


 雪の上に倒れて死んでしもた思うてたのに、次に目ぇ覚ましたら、見たこともないような綺麗な男の人が汚い私を膝に抱えとった。ようよう見ぃへんと分からんくらいうっすら小さい鱗に覆われた白い肌に、深紅の瞳と銀の髪。その姿が子供でも直感で人間やあらへんて分かるくらいほんまに綺麗で。


 膝から飛び起きて教え込まれた口上言うたら、環様は苦い顔して――、


『悪い大人に搾取されっぱなしやなお前。子供相手にえげつないことしよる』


 ほんまは人間嫌いのくせに、長くて先の割れた舌出してそう言うて。その日から突然転がり込んできた私の面倒をよう見てくれた。今までされたこともないくらい甘やかしてもろた。


 そやから私もたくさん食べて早う大きゅうなって、彼の養分になるつもり……やったんよ、途中までは。


 結果から言うたら好きにならへんのは無理やった。むしろならへんはずがあらへん。いつしか私は環様の番になりたいなんて大きい野望を持ってしもうて。迷惑やと思われるかもしれんから、子供なりに必死で手放されへんくらいええ女になろうと努力もした。


 ――それが、何でこうなるん? 都から狩りに来たとかいう貴族への献上品として攫われるとか……そんな阿呆な話が今更あるて思わへんかったわ。枕が二つ並べられたふかふかのでっかい布団の上に転がされて、何をやってるんやろか。


「痛っ――……って、嫌やわぁ。縄目が跡になってしもうとるやん」

 

 手首に走った痛みに身体を捩ってみたら、後ろ手に縛られた手首から血が滲んでるのが見えて。ああもう、せっかくの十年記念日は綺麗にしときたかったのにて泣きたくなった。


 もしも私がおらんなってたからて、神様がどう思うかなんて分からへん。下手したら十年も続いた面倒臭い子守りともおさらばやて喜んでるやろか? でも、もしかしたら探しに来てくれるんやないかて思うたら、舌を噛んで死ぬことも出来ん。


「こんなことになるんやったら、我儘なんか言わへんかったら良かったわ……」


 そんな詮ないことを考えとるうちに、疲れから段々目蓋が重とうなってきて。ほんの少しウトウトしとったら、ふと母屋の方からえらい悲鳴が聞こえて目が覚めた。けど妙なんは悲鳴はあがるのにそれがどんどん減っていくことで、見えへん分、余計に怖い。


 そやけどこれが逃げ出す好機なんも分かったから、布団の上で身体を固くして聞き耳を立てて悲鳴が止むんを待っとったら……外からズルズル何かが這うてくるような音と地響きがしてきて、私のおる部屋の前で止まった。


 その途端に篝火が焚かれた庭からの光が一切失せ、部屋の中が真っ暗になる。それがシューシューいう音と這う音が合わせるみたいになったかと思うたら、今度は徐々に外の篝火の明かりが戻ってきた。


 息を詰めて見つめた障子の向こうには大きな陰。それがみるみる縮んでいくや、あとに残ったんは見間違えようもない愛しい陰の形になる。ゆっくり近付いてきた陰が障子を開くと、そこに立ってたんはやっぱり環様やった。


「あれ……環様……わざわざ、助けに来てくれたん?」


「わざわざて何やねん。急におらへんなるから吃驚したわ。我に祝いの品を用意せえ言うといて、留守番くらいちゃんとせんかい」


「ええ……この状況でそない理不尽やわぁ。それにさっきの悲鳴は? 集落の皆はどうしたん?」


 夢やったら嫌やから矢継ぎ早に質問したら、環様は面倒臭そうに緩く結んだ髪の毛弄って溜息ついて。こっちを見とんのに縄を解いてくれるでもなくじっと深紅の双眸で私を見てる。それから意地悪そうに舌をチロッとさせた。


「さあなぁ? 勝手に神のもん盗った罰でも当たっとるんとちゃう? 何にせよこないな程度の篝火を怖がる思てたんやとしたら、随分お目出度い阿呆共やわ」


 その時直感で“ああ、喰われたんか”て思うたら、これでもう水を差されることもないんやて安心したのに、何やちょっとだけ環様の腹に収まった集落の皆が羨ましくも思えた。


 丸呑みされたら一緒におられへんのに変やね私。広い屋敷の中には私と環様しかおらへんことも、何や不思議で可笑しゅうなる。


「へぇ……ほんなら、もう誰も私を知っとる人おらんなったんやね」


「なんや玉枝たまえ。お前こんな目におうたくせに悲しいんか?」


 ただの“たま”て名前が猫の子みたいや言うてつけ直してくれた名前を、大好きな声で呼ばれてホッとするやら、急にむっつりした顔になった環様に慌てるやらと忙しない。


「そんなんとちゃうよ。そこは“我がおるやろ”て言うてぇな」


 少しおどけてそう言うたら、環様は一瞬だけ目ぇ丸して「小娘が色気付きよる」て笑うてくれた。余裕な表情が憎たらしいわ。


「そら今年で十八やもん。色気もつくて。そのせいで攫われてしもてんから。環様好みの罪な女やろ? もう諦めて私を番にしてくれたらどうなん」


 縛られてるせいで芋虫状態のまま、それでも精一杯舐められへんように睨んで言うたら、環様の目がギラギラ光って。いつの間にか綺麗やなぁて、うっかり見惚れとった私の前に、環様がどっかり胡座をかいた。


「あんなぁ玉枝。蛇は執念深いんや。舐めとったら後でしんどなるかもしれへん。人間は移り気やからな。そんときもう嫌や言うても遅いんやで?」


「そっちこそあかんねぇ。十年も一緒におって、女心の一つも分からへんやて。私はそれがええんよ。長い元の姿でも、私に合わせてくれる人形の環様でも、どっちでもええの。環様の傍が、一番ええんよ。私をお嫁にもろぉてや。ほんでずっと一緒に生きよぉな」


 縋る思いを十年分込めて必死にそう言うたら、環様は頭を掻いて溜息を一つ、俯きながら私の身体を縛っとる縄をほどきだす。誤魔化すつもりやあらへんやろね?


 断らんといてと念じて睨む私の視線のその先で、もう一つ溜息をついた環様が、ゆっくりゆっくり顔をあげて――……何かが吹っ切れたみたいににっかり笑うた。


「そうか、そんなら……しゃーないな。お前が我を好きすぎるから、我がお前をお嫁にもろたるわ。しょうもない人間なんか、辞めてまえ。お前みたいな跳ねっ返りには、蛇の嫁がちょうどええわ」


 大きゅう広げられた腕の中。その胸に自由になった身体で飛び込んで、抱き締められて、抱き締めて。さっきまでの頭から丸呑みされても幸せやなんて気持ちも吹き飛んでしもた。


「なぁ、環様。愛しとるよて、毎日言うてな。私も言うし」


「ええよ。そんかわり今夜祝いの盃交わしたら覚悟しぃや」


「そんなん私にはご褒美やわ。全部、全部、食べてしもうて」


 神様のために美味しゅうなろうとした十年の乙女心を、これからずっと余すことなく、千年、万年、味おうてね。

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◆花贄と蛇神◆ ナユタ @44332011

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