イガナシトゲモドキダマシの食べ方

そうざ

How to Eat Iganashi-Togemodoki-damashi

 もう夏の盛りは過ぎていたものの、茹だるような暑さは夕飯時まで尾を引いていた。その日、適当な理由で会社を早引けして来た父は、学校から帰った僕と同じように庭先の井戸に直行して頭から水を被った。そして、この日ばかりは、これまた僕がそうしたように、幾らか心配気に、大いに嬉々として、井戸の中を窺った。

 父は、先に井戸端に駆け付けていた僕と姉に平静を装いつつ、にんまりとして言った。

「引き上げるぞ」

 柿の木にしっかりと結わっておいたロープを解きに掛かる。僕も姉もその様子を見守りながら、手はもう井戸の中へ垂れたロープを引く準備をしていた。重たい物ではない。そんなに人手が要らない事は分かっていたが、躍る心を抑えられなかったのだ。

「ゆっくり、ゆっくりな。逃げる訳でもなし。慌てる事はないんだ」

 そう言いながら、父は子供達に任せっ切りにもせず自らも引き上げに加わった。

 ビニール袋に包まれたそれは、程なく無事に僕等の前に現れた。

「冷たいっ」

「冷たーい」

「好い具合だな」

 思わず手を引っ込めたくなる程、ひんやりとした感触。それは、真夏の気怠い黄昏時に涼以上の快感となって僕等を捉えていた。

 それを恭しく運ぶ父に纏わり付きながら、いそいそと縁側へ回ると、母が団扇を片手に七輪の火を準備していた。前の日まで関心のない素振りを見せていたが、いざとなるとそわそわしていた。


 一ヶ月くらい前だった。

「あのな、今度、ご馳走を戴けそうなんだ」

 家族で代わり映えのしない夕飯を囲んでいた時、父が唐突に言ったのだ。

「なぁに? ご馳走って」

 母は、自分の料理にケチを付けられたと感じたのか、ぶっきら棒にご飯を装っている。

「ご馳走と言えば……ご馳走しかないだろ」

 父の仏頂面がいつもより酷くなった。素直に喜ばない家族の態度が気に食わなかったのだろうと子供心に解釈したが、今にして思えば説明し辛かったかも知れない。僕が訊いても口を濁していた。

 それでも母は直ぐに理解したようで、その場はそれ切りになった。分かったのは、仕事の得意先の好意でお裾分けをして貰えるという話だけだった。

 それからと言うもの、家族は〔ご馳走〕が心待ちになった。

 父の言い付けで他言は禁じられていた。我が家だけの秘密――その事が期待感を高め、神秘性まで醸し出し始めた。

「残り何日っ?」

「三週間くらいだな」

 そんな親子の会話が日課になった。勿論、毎日カレンダーにバツ印を付け続けた。


 父が包装ビニールを破き、丁寧に油紙を剥がして行く。

 僕は、その時に初めて〔ご馳走〕を目にした。父が貰って来た前夜は、油紙に包まれた状態しか見ていない。父も同じだったようで、爛々と目を輝かせていた。

「思ってたのと違う……」

 姉が眉根を寄せた。

「何だかねぇ」

 母も追随した。

「でも、ちょっと格好良いよっ」

 僕は、女性陣の忌憚のない意見に拮抗した。父親に気を使ったというのもあるが、実際にそれが第一印象だった。僕の記憶が確かならば、〔ご馳走〕は未来の戦闘機を思わせる不思議な形をしていた。黒鉄色と言えば良いのか、その色合いも手伝ってそう思わせたのだろう。見た目、妙にぬめっとした質感だったような気もするが、単に井戸水が脂紙の中まで染み込んでいただけなのかも知れない。

「見て呉れじゃない、味だよ、味。食べ物なんだから」

 そう言って、父はこの日の為にせっせとこしらえた調理器具を手に取った。針金で正方形の網を二枚作り、一辺を繋いで間に〔ご馳走〕を挟んで焼けるようにした物だ。取っ手の部分は僕が手伝った記憶がある。

「だけど、どうせ火で炙るんなら冷やしておく必要はないでしょうに」

 母が火の様子を見ながら言った。

「得意先の人が先ずは冷やした方が良いって言うからさ。その方が後々処理をし易いらしいんだ」

 父は、網に挟んだ〔ご馳走〕を七輪に翳した。僕等は七輪を取り囲み、その様子を見守った。

 父も母も調理法をよく知らなかったが、それは無理からぬ事で、あの当時はもう一般的に〔ご馳走〕を口にする機会はなくなりつつあった。乱獲の所為で数が減ってしまったからとか、それが高じて国際条約で食用が禁止になったとか、そういう理由だったような気もするが、後に耳にしたところに拠れば、実は人体に有害な物質が検出されたとの事で、その毒素についても、天然の状態で生成されるものだとか、投棄された廃液が蓄積された結果だとか、諸説紛々としてこれというはっきりとした原因はよく分からなかった。確かなのは、いつの間にか人々は〔ご馳走〕を食さないようになっていた事と、その過渡期には異常に希少価値を帯びていた事だった。

「お暑いですねぇ」

 その声に皆がぎょっとした。近所の小母さんだった。生垣越しに人懐こい顔を覗かせている。背を向けてしゃがんでいた僕と姉は、然り気なく身体で七輪を隠そうとした。

「いつまでも暑いですねぇ」

 母が率先して応えた。

「秋刀魚ですか?」

 一瞬、皆で顔を見合わせた。

「えぇ、脂がよく乗ってます。ははは」

 父が適当に取り繕った。

 会話を続けるつもりがない様子を察してか、小母さんはすんなり去った。その時の怪訝そうな表情が妙に記憶に残っている。秋刀魚という割には煙はあまり立ち昇っていなかったし、匂いも明らかに秋刀魚のそれではなかったから無理もない。

 それにしても、〔ご馳走〕は調理の過程では全く食欲をそそらせなかった。最初から黒々としているから、どれくらい焼けたのかがよく分からない。どんなに炙っても変化が見えない。何度もひっくり返しながら火に掛け続けると、段々金物を焼いた時のような、鉄工所の近くを通った時の臭いがした。

「何これ~」

 姉が鼻を抓んだ。

「ねぇ、本当にこのやり方で合ってるのっ?」

 母がそわそわと辺りを見渡した。異臭は近所迷惑になる程だった。

ひびが入るって聞いたんだけどなぁ……おっ、よく観ると細かい皹が入ってる。母さん、冷水だ、冷水。今度は直接冷やすんだったよ」

「えっ、そんなの聞いてないわよ」

「汲んで来るっ」

 僕が汲んだ井戸水の桶に、父は網ごと〔ご馳走〕を入れた。ジュッという音と共に、更に強烈な臭いが広がった。こんな物が食べられるのか、という疑念も広がった。それでも、誰もがここで止めてしまうつもりはなかった。

 次の瞬間、癇癪玉かんしゃくだまのような破裂音が鳴り響いた。余りに突然過ぎて、皆がその場を退いた。姉も母も悲鳴を上げる隙もなかった。

「何だ……何だ、何だっ」

「あっ、ご馳走がっ」

 父の手を離れた〔ご馳走〕が庭に転がっていた。網が弾けて飛び出したのだ。針金の破片が辺りに散らばっていたが、幸い誰にも怪我はなかった。

「そうかっ、皮が剥けたんだよ。この方法が一番手っ取り早いっていう理由がやっと分かった」

 父が小声で叫んだ。


 母と姉とが手分けをして茶の間に新聞紙を敷き詰めている間、僕は裏手にある物置に金槌とのみを取りに行くように言い付けられた。

 父は、皹に指を入れて皮を剥こうとしたが、全く歯が立たない。包丁を突き立てたり、擂粉木すりこぎで叩いたりしたが、びくともしなかったのだ。

 僕は、ついでに糸鋸も持って行こうと思った。数年前に他界した祖父は技術畑の人で、物置には色んな道具が残っていた。手動のドリルも使えるかも知れない。大きな釘抜きも要るかも知れない。結局、僕は工具箱ごと持って行く事にした。

「何してんのぉ?」

 庭の板塀の上から小さな顔が覗いていた。お隣のモンちゃんだった。僕より何歳か年下で、当時はまだ小学校にも上がっていなかったと思う。本名は覚えていないが、皆からモンちゃんと呼ばれていた。引っ越してしまうまでは毎日のように遊んでいた。しかし、この日ばかりは眼中になかった。

「何してんのぉ?」

 モンちゃんは悪戯っぽい表情で同じ台詞を繰り返す。

 僕は、工具箱を後ろ手に隠した。モンちゃんの性格をよく知っていたからだ。

「別に……何もしてないよ」

「でっかい音がした」

 やっぱり破裂音は聞かれていた。

「何でもないって」


 障子を閉め切った茶の間は酷い暑さで、扇風機も澱んだ熱気を掻き回すだけだった。側で見ているだけの母も姉も頻りに汗を拭っている。それでもご近所に覚られないように、僕等は固唾を飲んで堪えていた。

「よしっ……剥がれて来たぞ」

 皮と言うか殻と言うか、外側の硬い奴の一部がぽろりと欠けた。土器かわらけのようだった。僕はこの破片を記念に取っておいた。確か塵紙に包んでお菓子か何かの缶に入れた上で、勉強机の抽斗ひきだしの奥に仕舞っておいた筈だ。人に自慢する訳にはいかなかったから、自分だけの宝物として偶に眺めていた記憶があるが、いつの間にか紛失してしまった。

 皆が一斉に〔ご馳走〕を覗き込んだ。ほんの一寸程度、露出した中身は、古びた蝋燭のような色合いだった。一見、硝子のように硬そうだったが、同時に瑞々しさも感じさせ、ぷよぷよとした触感まで連想させた。表面は透明感があるのに、内部は花曇りの空のようにぼやっとしていて、要領を得なかった。よくよく見ると、細かい繊維のようなものが表面だけでなく内部にも絡まりながら走っていて、果実のようでもあり、霜降りの肉のようでもあった。

 気が付くと、茶の間に異臭が漂っていた。外側を焼いた時とはまた別の、それまで嗅いだ事のないものだった。ちくちくと鼻腔を突かれ、臭い、臭いと声を上げたが、母と姉は何だか気まずそうな顔をしていた。父も顔をしかめてはいたが、その臭いには言及しなかった。

 嗅覚の記憶は視覚や聴覚のそれより遥かに曖昧なようで、正確に思い出すのは難しい。例えるならば、外側を焼いた臭いは無機的で、内側から湧いたそれは有機的に感じた。何かが発酵したような、体臭のような、子供の僕には例えようのない臭いだった。


「もう一息だっ」

 父が自らを鼓舞した。

「何してるの~」

 その声の方に、家族の目が一斉に集まった。障子の隙間からモンちゃんがこちらを指差していた。

 戸惑う一同を余所に、モンちゃんはちょこちょこと茶の間に入って来た。モンちゃんは人懐こい子で、普段から我が家に勝手に上がり込み、その流れで食卓を囲む事も多かった。

 モンちゃんは繁々と〔ご馳走〕を観察し始めた。皆、どう対処して良いものかと戸惑った。


 ここから後の事は、更に記憶が曖昧になる。否、曖昧と言うには余りにも鮮烈なイメージとして今尚、脳裏に焼き付いている。しかし、現実の光景だったのかどうかに自信がないのだ。


 突然、〔ご馳走〕が跳ね上がった。最初は、父が投じたのか、モンちゃんが悪戯をしたのかと思った。〔ご馳走〕は天井にぶち当たり、続けて壁や畳で幾度も跳ねた。まるで意思を持っているかのようだった。その速さは、とても目で追い切れなかった。

「きゃーっ!」

 母と姉が叫んだ。

 父は僕等を引き寄せたものの何も出来ず、皆で頭を抱えて縮こまるしかなかった。

「むぐっ」

 小さな声がした。

〔ご馳走〕の暴れる音が聞こえなくなった。恐る恐る皆で顔を上げると、モンちゃんは茶の間の真ん中で直立したままだった。

〔ご馳走〕は、モンちゃんの首から上の部分に鎮座していた。僅かに見えていたモンちゃんの顎が、じわじわと〔ご馳走〕の中に覆い隠されて行く。

 そこで漸く状況が見えた。〔ご馳走〕がモンちゃんをくわえ込んでいた。

 当然、何とかしなくてはと思ったが、恐怖の方が先に立っていた。父がモンちゃんの頭に手を伸ばしたが、ついさっとまで触り捲くっていた〔ご馳走〕にもう触れる勇気はなかった。

 モンちゃんは、糸で吊られた操り人形のように辛うじて立っていた。抵抗を見せないどころか、声を上げようともしない。そして、それが人形の運命であるかのように、糸が一本ずつ切れるように、モンちゃんはぺたりとその場に座り込んだ。〔ご馳走〕は不規則に蠢き、モンちゃんの頭の形そっくりに変化して治まった。

 静まり返った部屋。遠くで蜩が鳴いていた。

 やがて、〔ご馳走〕の表面にモンちゃんの目鼻立ちがぼんやりと浮き上がって来た。黒鉄色の頭像が出来上がって行くみたいだった。さっき父が穿った穴から琥珀色のとろりとした液体が流れ出ようとしていた。それは畳の上に滴り、こんもりと溜まりを作った。

 たちまち得も言われぬ芳香が辺りに広がった。具体的にどんな匂いだったのか、きっと家族それぞれに異なる感じ方をしたのではないかと思う。仮に言葉にしたとしても、『猛烈に食欲を刺激する感じ』としか言えなかっただろう。この時点ではもうまともな神経の持ち主は居なかったのだ。

 僕等は我先にと〔ご馳走〕に群がり、奪うように液体を舐め啜った。誰もが汗と涎とでになった顔面もそのままに愉悦の表情を湛え、『美味しい』以外の言葉が浮かばなくなっていた。

 僕等が一通り液体を舐め干すと、父は〔ご馳走〕を鷲掴みにし、渾身の力でモンちゃんの胴体から引き千切り、畳に投げ付けた。火事場の馬鹿力だった。〔ご馳走〕の外皮が完全に砕け、琥珀色に染まって幾らか溶け掛けたモンちゃんの頭部が露わになった。

 僕等にはもう動揺も逡巡もなかった。一斉に飛び付いてモンちゃんごちそうを奪い合った。それはお手玉のように宙に弾み、ずり剥けながら細かく砕け散った。僕等は競うようにそれを掻き集めて頬張った。骨までこりこりと貪った。



 後年になっても、僕等はあの蒸し暑い夏の一日の事を話題にしようとしなかった。猛暑にやられて朦朧とした意識が作り出した取り留めのない幻想、モンちゃんは引っ越ししたのだから――誰もがそう思い込もうとしたに違いない。

 それでも、僕には今も、あの忌まわしい記憶を不用意に蘇らせてしまう瞬間がある。

〔ご馳走〕の外皮が破れ、中身が露出した時に噴出した、子供だった僕には例えられず、母や姉が気まずそうになり、父が言及しなかった、あの臭い。女性と親密になる機会を持つようになった今ならば判る。それは、世の女性がひた隠しにしたいと思う、周期的にやって来る臭いに酷似していたのだ。

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