冬の音を聴かせて(祐理)
帆尊歩
第1話 冬の音を聴かせて(祐理)
「今日、ご飯は」と祐理は仕事に向かう悠一に聞く。
別に祐理が作らなければならないと言うことではないが、一応食べる、食べない、一緒に食べるのか、食べないのかくらいは、確認しておきたい。
「全然分からない。結構ブラックだからね」と悠一は言うが、自分でブラックと言っているうちはまだ大したことはない。
友達で大学を卒業して、音楽教師になった子はそのブラック感を祐理に延々と語る。
有名楽器メーカーが運営する音楽教室は全国にあるが、いくら子供相手とはいえ請負扱いで、レッスン一回いくらの歩合制のようなものだ。
その上クレームも多い。
やれ教え方が雑だとか、誠意がないとか、優しさがないとか、そんな事の連続だと言う。
音楽のレッスンというのは課題を出され、自分で練習をしてきて、その上でここはこうとか、ここがうまく出来なとか、そういう感じだ。
ところが何もやってこなくて、上達しないとか、(当たり前だー)と叫びたくなるらしい。
自分がピアノを習っていたときは、課題を練習していかなくて、帰らされた事もある。
ミスタッチ一つシッペ一回とか。
音楽教師の話はあったが、やらなくて良かったと思う。
だから、音楽とは何の関係もない仕事に就く子は多いというより大半だった。
だから祐理の友達も、携帯ショップの店員になったり、実家を継いだり、普通の会社員になる子、様々だ。
まあ音大ほどつぶしのきかない大学はない。
普通の会社に入れたらラッキーだ。
同棲中の悠一なんか、優等生だ。
音大の特性なんか微塵も出さずに、ただ大学を出たと言うことだけを押し通して、就職した。
どうも会社の人も悠一がサックス奏者と言うことを知らないらしい。
「じゃあ、祐理、先に行くよ」
「アッ、悠ちゃん、行ってらっしゃい」
「うん」
「あと、ごめん。あたし今日仕事の後ハンドベルの練習だから」
「ああ、分かっている。頑張って」
「うん」
祐理の仕事場は、楽器店だった。
これを未練というのか。
ピアノで音大に入りました、これは凄いことだ。
音大受験でピアノで合格するには、傾向と対策、そのうえ、それ専用とは言わないが先生についた方がいい。
「祐理ちゃん。ピアノ上手ね。将来はピアニスト?」何度言われたことか。
でも世の中そんなに甘くない。
イヤ確かにピアノが弾ければピアニストかもしれない、でもお金を稼げるピアニストと、稼げないピアニストでは天と地の差があって、その現実を見せつけられるのが音大だ。
祐理は音大に入る前は、あわよくばなんて考えることもあったが、入った一ヶ月で、ゲームオーバーとなった。
でも楽器はいい、とりあえず練習すればそれなりに上手になるし、達成感もある。
祐理もご多分に漏れずクラシックだったけれど、ジャズピアノに転向。
出来た仲間とセッションをしたり、課題のための合宿をして、本当に充実していた。
出来た仲間の一人が悠一だ。
でも卒業するとこれがびっくりするくらい何も残らない。
唯一残ったのは悠一だった。
今は同棲相手だ。
祐理の朝の仕事は楽器の埃払いだ。
最近は電子ピアノが多いので電源を入れて行きながら、鍵盤の埃を取って行く。
鍵盤に埃が付いているなんて、あってはならないことだ。
それが終わると、音が出るか試すために適当な曲のワンフレーズを弾いてみる。
急に拍手が聞こえた。
祐理は手を止めてそちらの方を見る、中年のおじさんが手をたたいていた。
「さすが祐理ちゃんだね。指が良く回っている」ピアノ教師の佐藤さんだった。
コーディロイのジャケットなんか着てかっこつけやがって。
と祐理はいつも思っている。
祐理の務める楽器店は、四つの防音ルームがありフルートやサックスを教えている。
防音ルームの外には先生の顔写真が飾られていて、出身大学と抱負が書かれている。
祐理の勤める楽器店はそこまで酷くないが、まあブラックだ。
「ああ。佐藤先生、おはようございます。今日のレッスンは十一時からでしたよね」
「そう、今日もよろしくね」何をだよ、とあやうく突っ込みそうになった。
祐理はこのおじさんの一挙手一投足が全て鼻についた。
何かっこつけてるんだよと思っている。
あろうことか音大の先輩だ。
祐理は二十四才でおじさんは五十手前位なので、全くかぶっていないが、バレたら、ピアノとはなんて講釈されそうで、必死に隠している。
まあバレる可能性があるとすれば店長あたりが、なんかの拍子に、
「ああ、うちの川島と同じ大学なんですね」なんて言わないか、ということだけだった。
まあ口止めするのもなぜと思われて、逆に勘ぐられてしまう。
十時五十五分になって電話が入った。
「祐理ちゃん」と祐理はパートの斉藤さんに呼ばれた。
「はい」
「佐藤先生の生徒さん。十五分くらい遅れるって、言ってきて」あり得ない。と祐理は思った。自分の時にそんなことしたら、優しく
「じゃあ今日は来なくていいわ」と言われる。
三号室はピアノの置いてある一番大きい部屋だ。
「失礼します」とノックと同時に祐理は中に入った。
「どうしたの」佐藤先生は今日の楽譜の確認などしている。
「なんか生徒さん、十五分くらい遅れるそうです」
「あっそう、ありがとう」と佐藤先生は全く意に返した感じがない。
「怒らないんですか」
「なんで」
「だってあり得なくないですか。先生待たすなんて」
「祐理ちゃんはそういう時代にレッスンを受けていたんだね。今はね、そういう時代じゃないんだよ」
「でも」
「生徒さんはお客様。本気の子は僕の所になんか来ないさ」
「いや、ピアノとはもっと真摯に向き合う物じゃないですか」少しむきになった祐理を佐藤先生は優しげな笑みをうかべた。
「祐理ちゃんが、僕の生徒さんだったらどんなに良かったか。でもね、ピアノをやる理由は人それぞれなんだ」
「それぞれ?」
「僕が思うに祐理ちゃんは、音大を出て。プロを目指していたんじゃないかい」
「そんな」
「指使いを見れば分かるよ。そして今に至った経緯もね」
「そんな」
「祐理ちゃんは何のためにピアノをやっていた」
「なんのためって」
「きっと、プロになるためだよね。でもそれは、音楽を楽しんでいない。本来はミスしようが、なにしようが、聞いている人が楽しんでくれたら良いんだ。音楽とはそういう物だ。だから生徒さんにも音楽を楽しんで貰いたい。僕みたいなピアノ教師はそれで良いと思っている」
その時、戸が開いて、中学生くらいの女の子が入ってきた。
「先生、遅れて、すみませんでした」
「いえ。じゃあ、遅れた気持ちをピアノで表現してみようか」
「えー、無理―」
「じゃあ、祐理先生やってみる」
「えー、私ですか」と祐理は言ったくせにノリノリで葬式で使うような一番暗い曲を弾いた。
「凄―い」と女の子は喜んでいる。
それに祐理は驚いた。
適当に弾いただけなのに。
「はい祐理先生、良く出来ました。次は冬の音とはどんな音か考えてね」
「先生、私にレッスンの課題出してどうするんですか。月謝なんか払いませんからね」
そして、三人で笑った。
祐理は何だか楽しいなと思った。
音楽関係で楽しいなんて思えたのはどれくらいぶりだろ。
そして音楽とはこういう物なのかなと祐理は思った。
ハンドベルサークル(マリアン)の練習場は、その都度変る。
今日は公民館の集会室だった。
祐理は早めに来て、準備をする。
別に誰がという決まりはないが、なんとなく自分が一番年下なので一番多く準備をしているように思う。
(マリアン)に入るまでハンドベルの事なんか全然知らなかった。
音大つながりで誘われて、断らなかっただけだ。
思えば音楽への未練かなと思う。
音大を出たのに何も残っていない。
メンバーが集まって、長テーブルを横に並べてその前に並ぶ。
「さあ、皆さん、始めましょうか」指導の田辺先生が声を掛ける。
一人分開いている。
「あら、吉村さんいらっしゃっていない?誰か」と田辺先生が誰ともなく声を掛ける。
誰も知らないとクビを振る。
「困ったわね。今日は吉村さんのところがメインなんだけど」その時一人の女性が練習場に駆け込んで来た。
「すみません。遅れちゃって」吉村さんだった。
吉村さんは悪びれた様子もなく開いているテーブルの前に立った。
悪びれた様子がないと言うより、あまりにヘラヘラしている事に祐理はちょっとだけイラッとしたが、何せ自分が一番年下だ。
すると沙織さんが吉村さんの方を見た。沙織さんもどこかのピアノ科卒だ。
「ちょっと吉村さん」
「はい」
「その態度はないんじゃないかしら。遅れて来て」祐理はハラハラしながら二人を見つめた。自分もあの態度はないなとは思ったが、沙織さんのように吉村さんに何かを言うなんて絶対に出来ない。
「ああ、ちょっと夕食の支度に手間取って」
「そんなの言い訳よ。何のためにここに来ているの」その沙織さんの言い方に吉村さんもちょっと腹を立てたようだった。
「何のために?じゃあ沙織さんは何のためにハンドベルをやっているんですか」
「何のため?」沙織さんは言葉を失った。
でも今の祐理なら分かる。
人を楽しませて、自分も楽しむためだ。
祐理は自分が佐藤先生の影響を受けていることが腹立たしくて仕方がなかったが、何のためにという答えが自分には明確に答えられることが誇らしくもあった。
今日は良い日だった。
と祐理は思った。
今日は気分が良いので、ご飯の支度をしながら鼻歌なんか歌って見る。
祐理は自分が何で機嫌が良いのか分からなかった。
そこに悠一が帰ってきた。
「お帰り」
「ただ今。あれ祐理。なんだか機嫌が良い?」
「なんでそんなこと言うの」
「いやそう見えた」
「そうなんだ」なんとなく自分は機嫌が良いと思っていたが、人が見てもそうなんだと、祐理は思った。
「何かあった?」
「それがよく分からない」
「何それ」そこで祐理は今日あったことを悠一に話してみた。
「何だ。そのままじゃないか」
「えっ、どういうこと」
「祐理は音楽に対して未練タラタラなんだよ。だからハンドベルやったり、楽器店に勤めたりしているんだろ」
「何それ。自分はすっぱり諦めたぞって言いたいの」言葉がきつくなる。
祐理はなぜ自分の言葉がきつくなったのか分からなかった。
悠一は完全に音楽を諦めて普通の会社に就職した。
でも自分は、ハンドベルやったり、楽器店に勤めたり、そんな事しても何にもならないのに。
(引きずっている)
その言葉がのしかかってくる。
悠一の潔さに負い目を感じていたからか?
だから悠一の言葉に気分を害しているのか。
「俺は音楽を諦めた。でもそれはお前の事を考えて」
「あたしのこと?」言葉が止まる。
「祐理が変にこだわっていたり、引きずっているなら、辛いかもしれないけれど、そっとしておこうと思った」
「だから一度もハンドベル聴きに来てくれなかったの?」
「祐理が辛そうだったからさ」
「忘れろってこと」
「無理に忘れる事はない。でもそれで祐理が苦しいなら、話は別だ。でも今日の祐理は、ちょっと晴れ晴れとしている。なんか変なこだわりとか、付きものがとれたような、ただ音楽は楽しい物なんだって分かったんだよね」
祐理の気分はまた逆戻りした。
なんで気分を害しているのか、自分でも分からなかった。
せっかく音楽に対して違った見方が出来ていたのに、その全てがすでに悠一には分かっていた、ということが事が腹立たしいのか。
祐理は自分の心の整理が付かなかった。
なぜ整理がつかないのか自分でも分からない。
だからクリスマスイブのハンドベルの発表会には来てよと言いそびれた。
クリスマスイブの発表会は、おそろいのブラウスを着る。
祐理はデザインがちょっと自分に似合わないなと思ってはいたが、この一体感は嫌いではなかった。
デパートの従業員通路にメンバーが並ぶ。
時間になった。
「さあ。皆さん、行きますよ、最高の音を作りましょう、そして私たちも楽しみましょう」田辺先生がみんなを先導するように会場へと歩いて行く。
「悠ちゃん」祐理は小さく叫んだ。
誰かに聞こえたかと思うほどだった。
来てくれたんだ、と思い嬉しくなった、あれからなんとなくモヤモヤして、一度で良いから聴きに来てと言い出せなかった。
だから諦めていたのに。
全員が配置について、田辺先生が観客の方を向く。
悠一が笑顔で小さく手を振っている。
そして先生が棒を振る、静かにクリスマスソングが始まる。
今は悠一が初めて聴きに来てくれたことが奇跡のように感じる。
クリスマスの奇跡だ。
音楽は楽しい物なんだ。
決して未練だとか、そういうことで自分は続けてきたわけじゃない。
楽しいから。
そして誰かを感動なんてオーバーな物ではない、ちょっとでも笑顔になってくれたらそれでいい。
祐理の手のベルが高らかに鳴る。
力が入り変な音になってしまった。
指揮の田辺先生が祐理を見た。
怒られると思った瞬間、田辺先生は楽しそうに笑った。
音楽ってそんなものだ。
ミスが幾つとか。早いだ、遅いだ、そんな事はどうだっていい。
音楽は楽しい物。
ああ、ベルの音が楽しい、
ああ、楽しい。
楽しい。
そして祐理は思った。
冬の音が聞こえる。
冬の音を聴かせて(祐理) 帆尊歩 @hosonayumu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます