第25話 三瀬の変

 伊勢国守護であった、北畠具政は天下の風雲児こと織田信長の圧倒的な武力に屈した。この時代では、将軍や守護などの役職は既に廃れ何の意味もなさなくなっていた。大河内城の戦いで追い詰められた北畠具政は和睦の条件として、信長の次男である茶筅丸と具房の妹である雪姫を婚約させるということを受け入れた。これにより、実質的に北畠家の家督は茶筅丸が継ぐこととなった。また、具政は隠居を余儀なくされ、三瀬御所に押し込められた。

 1572年には茶筅丸が元服し、北畠具豊と改名、同時に雪姫と正式に婚姻した。その上で、大河内城を廃して田丸城を新たに本拠とした。その後、1575年には信長の圧力により、具房も隠居をさせられ、具豊は信意と改名し北畠家10代目当主となった。これにより、信長は完全に北畠家を吸収することに成功した。

 しかし、北畠家の家臣等の多くは勿論これに不満を抱いた。1572年の武田信玄による、西上作戦の際には信玄が上洛する際には、船を出して、これを援助すると鳥屋尾満栄を武田に送った。このことは、信長も翌年、1573年には知ることとなり、この年の正月の挨拶に岐阜城に訪れた満栄を信長は待たせた。そのまま対応せず、満栄が帰ろうとした所でわざわざ呼び戻し、捧げ物を庭の白洲に置かせ満栄を座らせたままで縁側で刀を抜くなど挑発的な行動を見せた。同年夏には信意が紀伊国熊野攻略を狙ったが、堀内氏善の反撃で逆に加藤甚五郎を討たれ、紀伊長島城を失うという失態を演じたが、熊野勢には元は伊勢国司の家臣であった者もいたためさらに織田と北畠の対立は深まった。


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 1576年11月、信長は北畠一族の抹殺を計画した。この際に、信長は藤方朝成、長野左京亮、奥山知忠の3名を呼び出し領地の朱印を与えて誓紙を書かせ、具教殺害を指示した。この内、奥山知忠は病と称して出家してしまい直前で計画から外れたが、長野左京進は参加し、また藤方朝成も直接の参加は避けたものの結局は家臣の軽野左京進を参加させることとなった。


-11月25日-

 遂に計画が動いた。この日、滝川雄利、柘植保重、軽野左京進の3人の軍勢が三瀬御所を包囲した。


「具政さま!御所が滝川雄利、柘植保重、軽野左京進の軍勢に包囲されおります!」

「雄利め、織田に付きおったか!」

「失礼します。」

「左衛門か。入れ。」

「はっ。」


具政の近習である佐々木四郎左衛門は、具政の部屋の襖を開けた。すると、彼はどうやら、1人では無いらしく他にも3人が後ろにいた。


「左衛門、後ろの者は誰ぞ。」

「具政さま、お久しゅうございます。」

「!お主、左京亮ではないか!左衛門、裏切りおったな!」


その瞬間、左京亮は槍を持ち、具政に飛びかかった。武具を身に着けていなかった、具政であったが、これを避けた。そして、刀を取ると、すぐに抜き構えた。


「掛かれ!」


左京亮の合図で兵が具政に攻めかかったが、具政は何と19人近くの兵を1人で討ち取った。しかし、数の差は明らかであった。右腕を斬り落とされると、床に蹲った。左京亮はゆっくりと具政の近くに歩み寄ると、槍を天に掲げ、勢いよく振り下ろした。槍の穂は体を突き抜け、床の板にも刺さった。具政は血を吐き、少しの間身震いしていたものの、すぐに息を引き取った。 


 その後、三瀬御所に討ち入った軍勢によって具教の四男である徳松丸、五男である亀松丸らも殺害され、具教正室等も走って逃げようとするなど御所内は混乱状態となった。三瀬御所では具教と2人の子の他に北畠家臣14人の武将が殺害され、30人余りの家人もそれに殉じた。これにより、三瀬御所にいた北畠一族及び、家臣の多くが討ち取られた。


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 一方で信意も同日に北畠家臣やその一門を一斉に集め、この機を逃さず根絶やしにしようと計画していた。三瀬御所で起きたことを知らない北畠の者達はまず、朝に饗応の席と偽って田丸城へと呼び出した長野具藤、北畠親成、坂内具義の3人を招き入れて、やがて信意が合図の鐘を鳴らすと城内の北畠家臣の抹殺を命じた。日置大膳亮、土方雄久、森雄秀、津田一安、足助十兵衛尉、立木久内らが一斉に組み付いて長野具藤、北畠親成、坂内具義を刺し殺すと、そのまま城内にいた坂内千松丸や波瀬具祐、岩内光安らも殺された。


 更に病の治療のために田丸に滞在していた大河内具良も標的となった。見舞いと偽って訪れた柘植保重、小川久兵衛尉が刺客となって具良を殺害した。翌日11月26日には天野雄光・池尻平九衛門尉の2人が坂内具房ら等が寄る坂内御所に到着したが、既に城内では坂内の家臣たちが謀反を起こして具房を殺しており、坂内御所は具房の首を天野・池尻に差し出して降伏した。これらの知らせを聞いた田丸直昌も北畠一門の家柄であったので防備を固め警戒したが、直昌を殺すつもりは無かったのでこれは信意が使者を送って宥めた。田丸城に呼び出された北畠一門の中で助命されたのは信意の養父ということになっていた北畠具房ただ一人であり、具房の身柄は後に滝川一益預かりとなって長島城に幽閉された。


 一連の粛清の手を逃れた北畠の将たちは北畠政成の守る防御能力の高い霧山城に集結した。北畠勢は抵抗を試みたが、信長は即座に羽柴秀吉、神戸信孝、関盛信等15000の兵を送り込んで霧山城を包囲した。12月4日には霧山城は陥落して守将の北畠政成、波瀬具通等が自害した。12月15日には信意の側近で北畠家一門暗殺にも参加していた津田一安が信長の命を受けた日置大膳亮によって田丸城の普請場で斬殺されている。

 その後、一族誅殺の報を聞いて激怒した具教の弟である奈良興福寺東門院院主が伊賀に潜伏し、そこで還俗して北畠具親を名乗り挙兵。1577年に鳥屋尾満栄、家城之清ら北畠旧臣の協力を得て反織田の武士と飯高郡森城にて旗揚げしたが、年内に反乱は鎮圧され、具親は中国の大大名である毛利氏を頼り、中国地方に落ち延びて行った。

 これによって織田の伊勢吸収の妨げになっていた旧北畠具教、具房家臣の一門一派はほぼ伊勢から駆逐され、要衝には信意の側近たちが配置される事となり織田氏による北畠家吸収が完全に完了した。これにより、名門北畠家は壊滅し、北畠家の者が伊勢に大名として復帰することは無かった。

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図書館にいたら急にタイムスリップしたけど紆余曲折あり、大名になったんだけど!! 三十六計逃げるに如かず @sannjiyuurotukei

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