野球少年と池の神

里塚

野球少年と池の神

 この池の蛍を見て、彼はたしかに言った。


「―― 光に集まるだけじゃ駄目なんだ。自分から光らないと駄目なんだ」、と。


 あのとき彼は泣いていた。顔を泥だらけにして、縦じまの洋服をむせ返るほど汗臭くして、顔をぐちゃぐちゃにしていた。そして突然気が狂ったかのように水切りを始めたのだから、何事かと大層驚いたのは今も覚えている。水切りは池の底が高くなるのではないか、と思えるほど続いた。当然、その時の私には彼が何をしたいのかまったく理解できなかった。だから、気付いたら私は化けて出て彼を追い払っていた。


 たぶんその時顔を見られていたのだろう。彼との出会いはそんなものだった。


 翌日から彼はこの池によく来るようになった。普通、私の姿を見た者は畏怖して二度と池に近づかなくなるものなのだが、その日以来彼は二日おきに来るようになった。一人で泣いているときも友達を連れて馬鹿騒ぎをしているときもあったが、帰り際にはいつも決まって水切りを十回くらいして帰っていた。

 しかし時々水切りでは無く何か鳥の卵みたいな球を池に投げ入れてくる日もあった。球は全てひび割れて今にも壊れてしまいそうな物ばかりだった。微妙に重く硬いこの球はいったい何に使うのだろうか、と不思議に思いつつ、ゴミを捨てるな、と彼の後姿を睨み付けるのが、球を投げ入れられた日の私の新たな日課となった。

 そして蒲の穂が立派になる季節に入った辺りから、私は良きにしろ悪きにしろ彼に興味を持つようになった。他の悪童と違って、彼が蛍の季節のときに見たあの涙目の時と比べて、どんどんと大きくなっていくのが興味の種だった。

 冬が終わり、池の氷も解けると、また彼の水切りを見られるようになった。彼はかなり腕を上げていた。それまでは水切りと言えばせいぜい五 六回くらいのモノしか見てこなかった私だったが、十回以上も撥ねさせる水切りなど、始めて見た。しかもそれを毎日十回はやってのけるのだから、相変わらず白い球を投げ入れてくるのは困りものだったが、まるで祭囃子を見せられているみたいな気分だった。

 そんなふうにして花の季節は終わって雨の季節に入ろうとしていた時だった。


「行けるっ」、と彼が突然呟いた。


 その時私は彼の声を聞くのが実に半年ぶりだったせいか、彼に尋常じゃない自信を感じた。そしてそのせいかよくわからないにもかかわらず、彼なら行けるんじゃないか、とごく自然にそう思った。一人の人間に対してここまで思い入れるのは初めてだった。

 しかしまた蛍の季節がやってきてある日のこと。

 十五夜の綺麗な満月の下で、私は彼がまた池の端で泣いているのを目にすることになった。


「強くならなくちゃ、強くならなくちゃ」、としきりに呟く彼。


 喧嘩にでも負けたのだろうか。たしかに彼はまたいつぞやのように顔を泥だらけにして汗臭くなっていた。どうやら彼は毎年夏になると大きな喧嘩をするらしい。そしてそれに勝つために今まで水切りをしていたようだった。いったい水切りが喧嘩に何の役に立つのだろう。私は思わず首を傾げていた。


「低め直球だけじゃなくて、スライダーもフォークも……」


 それにしてもなんて女々しいことか。なんだかそんなにめそめそされると池に貧乏神でも憑いてきそうな気がしたため、私はとりあえず彼を追い払うことにした。

 ひい、ふう、みい、の号令のもと、一斉に舞い上がる蛍と池の水と魚たち。これにはさすがに彼も驚いたようで、口と目を大きく開け腰を抜かしていた。しかし、


「そうかっ、ライズボールだ!」


 彼は恐れおののくどころか一転晴れやかな表情になると、すぐにそのまま駆けて行ってしまった。なにか思惑とまったく違う。舞い落ちる鯉やどじょうを頭に受け一人立ち尽くす私。よく分からないが励ましてしまったようだった。もっと度肝を抜かれる姿を見たかった私にとって、それは幾らか不本意なことだった。

 しかしなんとなく充実した気分になったのは事実だった。

 それからして、彼は撥ねる回数を事前に決めて水切りをするようになった。例えば五回と決めたら五回水を撥ねたところで石が舞い上がるように投げるといったように、石の弾道に変化を付けるようになったのだ。

 球を投げ入れられることも無くなり、私は彼のこの成長を基本的には微笑ましく見守るようになった。

しかし一抹の不安もあった。


『埋め立て予定地』


 どうやら何者かが池を無くそうとしているようだった。

 そういうわけで、彼の投球を眺めつつ残念だがそろそろ引っ越しをしなければ、と思う日々を送っていた師走も中ごろのある晴れた日。やはりいつもどおりまだ凍り切っていない水面に石を投げ込む彼の姿を見ていると、ふと、見知らぬ小太りの中年男が何か話したそうに彼に近づいていることに気が付いた。父親か何かだろうか、と思って聞き耳をたてる。すると、


「君い困るね。ここはもうすぐ宅地になるんだからあまり荒らして欲しくないんだよね」


 どうやら違うようだった。小太りの男は両腕で彼を追い払うような仕草をする。私は胸にヘドロでも流し込まれたような気分になった。このまま彼を返すのもなにか悔しいし、なにかあの小太り男を驚かせるようなことはできないか、と考える。しかし昼であるため化けて出るわけにもいかない。

と、そこで彼が投げる石に目が行った。


「だいたい君高校生でしょ? 水切りなんて下らないことしてないで――」


 大急ぎで適当な太さの木の枝を池底から拾い、握る。そして私が枝を構えたのと彼が石を投げたのはほぼ同時のことだった。

 低め直球で七回水を撥ねたのち、微妙に変化して浮き上がる。私は彼が投げた石の弾道をそう読み切ると、目をつぶって枝を振った。鈍い音がして、枝が折れた。そして、


「ぐはぁっ」


 小太りの男の汚い悲鳴を耳に目を開けてみると、そこには頭を押さえてただただ怯える小太りの男の姿と、投球の格好のまま口を開けて驚いている彼の姿があった。どうやら私は石を弾き返すことに成功したようだった。ここ数十年で最も幸せな瞬間だった。あの感触は未だに思い出せば思わずほくそ笑んでしまう。


「た、祟りだー !」


 小太りの男はそう言って悲鳴をあげながら逃げ出して行った。ざまあ見ろ、と舌を出す私。しかし、


「あっ……」


 誤算だった。彼もその男と同じ方向に逃げ出してしまったのだ。

 少し後悔だった。それからしばらく、彼が池に来ることはなかった。

 彼が来ないまま花の季節は過ぎ、三度目の蛍の季節がやってきた。

 そしていつぞやのように蛍狩りを楽しんでいたある夜、ついに彼が颯爽とやってきた。


「勝負だ!」、と徐に石ころをポケットから取り出す。


 いつになく張り切った表情をしていた。なにかあったのだろうか、と勘繰ってみるものの大した変化のようなものは感じられない。強いて言うと、縦じまの服に何故か番号が記されてあるくらいか。

 ともかく私は立ちあがると、池底からとっておきの一本を拾い上げる。

 第一球は低めすぎて振りようも無い球だった。この枝は一球当てたら折れるくらいに弱いし、当てても前に飛ぶことはないだろう、ということで私は見送る。

第二球、当たると思って振った枝は、しかしすっぽ抜けてあさっての方向に飛んで行ってしまった。

驚いたことに彼の球は腰ほどの高さから川を昇る鯉の如くいっきに頭上まで上がっていったのだ。

 見るとにんまりとしたり顔の彼。悔しかったなんてものじゃなかった。そうして私と彼はそれから数か月、毎日五十回ほど勝負をしたのだった。

 それから彼が来なくなって数年が経った。『埋め立て予定地』の看板は朽ち果て、時勢なのか人間を見かけることも無くなり、私はもとのとおり退屈な時間を過ごす日々を送っていた。しかしそんなある日、風に乗って池に落ちてきた新聞にて、たまたま彼の姿を見ることができた。


『前人未到! 50セーブ達成!』


 両腕を挙げて歓喜に湧いているようだが、まだまだ最初に会ったときの泣き顔の面影が残っている。


…… さて、次に会ったときは一球で仕留めてやろうか。


 手近なところに落ちていた木の枝を取って、あの頃を思い出しながら大きく振り抜く。いまなら彼の決め球も打てるような気が、私にはした。

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野球少年と池の神 里塚 @hontohonto

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