第1話 夜明けの邂逅-後編

 デニムのポケットに入れていたはずの家の鍵がないことに気がついた彼方は、たちまち心臓の鼓動が高鳴っていくのを自覚した。

 一体いつから無いのかすら分からない。キョロキョロと自分の周囲を見渡すがそれらしきものは見当たらなかった。

(さすがにこれは焦るって…)

 自宅の方向が分からなくなっても「なんとかなるさ」と、そう焦ることはなかった彼方だが、その自宅の鍵を紛失したとなれば話は別だ。

 高鳴る鼓動とは裏腹に、全身の体温は徐々に熱を失い、血の気が引いていくような思いがしたその時だった。


「どうかしましたか?何かお困りで?」

 冬の夜空のように澄み切って、それでいて消え入ることなく凛とした声音の方に顔を向けると、そこには先ほどまでブランコに座って黄昏ていた、アリスブルーの髪色をした女性が目の前に迫っていた。

「うおぁ?!」

 不意の出来事に思わず上擦った奇声をあげてしまう。眼前に現れた美女は、慌てふためく彼方に小首を傾げながら青碧色の瞳を穏やかに向けてきていた。

 ふわりと揺れ動く青白いその髪からは、金木犀のような甘い香りが優しく漂い、彼方の全身をまた一段と熱くした。

「ん?え、あ…えっと、、、その、かっ、鍵を…落としてしまったみたいで…」

(やべえええええええええ!!!こ、これは!!!コミュ障!!!強制魔法、『コミュ障』を発動してしまった!!!)

 小声かつ早口という奇跡の聞き取りにくさを自他共に認められている?彼方は、あまりに咄嗟の出来事が起こると、上手く言葉が出てこなくなりこうしてどもってしまうことが多々あった。

「鍵?何の鍵ですか?もしかして、家の鍵とか…」

「その通りです。」

「それは一大事ですね。よかったら探すお手伝いさせてください。」

 そう話すや否や、その謎の女性はクリーム色のダウンジャケットの端を肘まで上げ、公園入口に面した歩道をあっちへこっちへと探し始めた。

(な、なんなんだこの人は…)

 彼方にとっては信じられない行動だった。彼方と眼前のアリスブルーの彼女は当然だが面識がない。初対面の筈だ。

 なのに、こんな夜明けに意味もなくブラブラしていたコミュ障不審者のために、一緒になって失くした鍵をなんの利益もなしに探してくれるだろうか?

 彼方の言葉を当たり前のように信じてやまないようにあちこち探しては、時折膝を折り地面を注視する彼女に、彼方は自身の喉奥が熱くなっていくのを感じていた。


「あの!すいません!多分ですけど…鍵、見つかりましたよ!」

 どのくらい二人で探していたのだろうか、彼女の声に顔を上げると、白みはじめていた夜は山の遠くに確認できる程度で、変わりに朝がやってこようとしていた。

「すいません、ありがとうございます。」

 軽くお辞儀をして彼女が見つけたという鍵を確認してみると、小さな蛇のキーホルダーが一緒につながっていた。

 昔何かの景品についてきたもので、特に思い入れもなかったがなんとなくつけていたものだ。それは確かに彼方が落とした家の鍵だった。

「ふー。鍵、見つかってよかったですね。」

「ほんとですよね。この度は大変ご迷惑をおかけしました。また、大変助かりました。」

 大袈裟に額を腕で拭うようなポーズをとって、全てを包み込む月光のように優しく微笑む彼女に対して、彼方も深々とお辞儀をした。本当になんとお礼を言っていいのか分からない。

「いえいえ。これでおうちに帰れそうですか?」

 まるで子供をあやすように微笑みながら落ち着いた声音で囁く彼女の青碧の瞳は、さっきブランコに乗っていた時に見た空虚な作り物のようなものではなく、精気が戻ってきているように感じた。と同時に、彼方は自分が置かれていた現実をすぐさま思い出していた。

「あのー、大変申し上げづらいのですが、実は迷大人になっておりまして…」

 そんな言葉が存在しないことは承知しながらも、恥ずかしさからか咄嗟に自身が今さっき思いついた造語を繰り出してしまう。

 慌てて彼女の顔を覗き込むと、明らかに意味が分かっていないように首を傾げて言葉の意味を考えているようだった。

「えっと・・・迷大人?っていうのは一体…」

「あ、えっと、その・・・迷子の大人バージョンと言いますか…大人なんですけど迷子というか…」

 まっすぐ見つめてくる彼女から反射的に目を逸らしつつ、もじもじと悶える彼方は必死に体裁を保とうと取り繕っていた。

 そんな彼方を見ながら、彼女はクスクスと微笑み、次第に我慢できなくなったのか口角を上げながら笑っていた。

「わ、笑いすぎですよ!!」

 ツボに入ったのか笑い続ける彼女に思わずツッコんでしまう。

 無邪気に笑いながら、たまに口唇の隙間から整った白い歯が姿を覗かせる。その口元まで気品が感じ取られ、本当に同じ生きた人間なのかと疑いたくなるほど均整がとれていた。

「ごめんなさい。お兄さん、面白い人ですね。」

「よく言われます。」

 やっと落ち着いたのか、悪戯な微笑に変わった彼女に彼方は真顔でそう返した。

 すると彼女の口角はまた上がり、今度はお腹を抱えながら笑い始めた。

「絶対嘘でしょ!」

 パタパタと彼方の腕をパーカー越しにぽんぽんとはたいてくる彼女に、また心臓が大きく脈を打った。

 偶然を除いて、女性に触れられたのなんて何年ぶりだろうか。しかもこんな規格外の美しさを持つ女性に。

 真っ白になりかけた意識を何とか呼び戻しつつ何とか我に返ると、彼女に再び向かい合った。

「そうですね、嘘です。」

「もう、何それ。」

 そう言って小さくはにかむと、彼女は徐にダウンジャケットのポケットに手を入れ、その中から自身のスマホを取り出した。

 照れた様子もなくスマホを弄る姿に、彼方は何故か少し寂しさを覚えた。

(男慣れしてんだろうな…)

 そんなことを考えながら、同時にどうやって家まで帰るかの算段を考えていたその時だった。

「じゃ、助けたついでにもう少し助けてあげますか。」

 そう言って彼女は地図アプリを開き、今いる公園の場所と彼方の自宅の凡その位置関係を調べ、彼方に教えてくれた。

「はい、じゃあこれで帰られそうですか?」

「どもっす。重ね重ねありがとうございました。」

 えっへん、と両脇腹に手をやり誇らしげにドヤる彼女に、今度はわざとらしく深々と頭を下げた。

「いえいえ。では、さよなら。」

「はい。」

 山際から姿を覗かせた太陽に彼女のアリスブルーの髪が照らされる。まるでナイロンのように半透明な髪はキラキラと小さな光の粒を生んでいた。

 彼女に軽く手を振り、教えてもらったルートを辿って帰路に就く。最後に彼女から放たれた「さよなら。」の一言がやけに引っかかりながら。

(さよならってことは、もう会う気はない。これっきりの出会いだったって意味だよな…)

 別にまた会う約束もしていなければ連絡先も知らない。もう会うこともないと考えるのは普通の事だ。だけど何故か、彼方の心は小さな痛みを感じていた。


「せめて、名前だけでも聞いておくんだったな。」

 煌々と光る満月の夜、それが彼方と謎の彼女との初めての邂逅だった。

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月夜に出会った君へ 雨川 流 @towa9mmgazette

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