月夜に出会った君へ

雨川 流

第1話 夜明けの邂逅-前編

(生きてんのって、くそつまんねえなあ…)

 死にたいわけではない。嫌なことがあったわけでも、後悔するような出来事があったわけでもない。なのに、ふと生きていることへの絶望感や無力感が込み上げてくることが、昔から多々あった。


 宮前 彼方みやまえ かなたがふと目を覚ましたのは夜中の2時だった。

 冬眠から覚めた熊のようにもぞもぞと布団から起き上がり、半覚醒のままトイレへ向かい用を足す。

 冷蔵庫へ向かいミネラルウォーターを取り出すと喉の渇きを潤し、再び布団へ戻るが困ったことに徐々に覚醒しつつある頭では、いくら時間が経ってもまるで寝付けなかった。

 眠れない夜というのはどういう訳か余計なあれこれを、考えたくない漠然とした不安を、くだらない過去の過ちをいつまでも考え続けてしまう。

 まさに彼方にとっては今がそれで、最近は忘れていた生きることへの無力感が深い闇のように込み上げてきていた。

(俺、何のために生きてんだろうな)

 人間生きていれば一度くらいは、人は何のために生きているのかについて考える時があるのではないだろうか。

 彼方がその疑問に囚われはじめたのは小学3年ごろだった。おそらく周りの友人らより早かっただろう。中学に上がるころには既に、誰といても、何をしていても、心が満たされないという感情が強くなっていった。

(あーこれあれだ。寝られないやつだ。)

 こんな時布団に入ったままでも中々眠りにつくことができないのを、彼方は経験上よく分かっている。

 人間寝られないときというのはどうやっても眠れないものだ。寝ようと思えば思うほど意に反して脳が覚醒していくのが分かる。

「散歩でも行くか…」

 大学入学の際になんとなく購入したまま、既に10年は使い続けているそれなりに思い出のある時計を見ると、深夜3時を指していた。

 当然散歩に行くような時間じゃない。しかし家にいても眠れないし、ネガな思考ばかりが頭の中を延々と蝕む。どうせ寝られないなら、運動もかねて少し外を歩こうと考えたのだった。


―――


「さっむ!!全然春じゃねぇじゃん。」

 直に満開を迎えるであろう桜が、春の訪れを知らせようとしていた。が、とはいえそんな3月の真夜中は、Tシャツに薄手のパーカーを羽織っただけでは流石にまだ肌寒かった。

 彼方の生活エリアは都心から少し離れた住宅街だ。所謂『閑静な住宅街』というやつだろう。

 そのため深夜になっても営業している店はほとんどなく、夜道を照らすのは街灯と24時間営業のコンビニくらいだ。

 とは言え防犯の都合上か街灯の数は多く、足元が見えない程闇に包まれているというわけでもない。

 ただ、深夜とはいえ予想外に明るく感じたのには他の理由もあった。

「すげぇ満月だな…」

 煌々と輝く月の明かりが、優しく穏やかに夜を照らしていた。それは街灯もいらない程の輝きで、歩む道を確かに指し示してくれていた。

 まだ冷たく感じた初春の夜風も、少し歩いた頃にはちょうどよく感じていた。どれほど歩いたのかわからないし、そもそも社会人にとっては貴重な休日に周辺探索に出かけるほどアクティブなタイプではない彼方は、住み慣れたエリアとはいえそもそもの土地勘があまりない。気づいた頃には、既に今どこを歩いているのかさえ分からなくなってしまっていた。

(どうすんだこれ…帰り道分からなくなっちまったぞ…)

 方向音痴特有の無作為方向転換を繰り返しながら歩き続けた結果、いよいよ自宅の方向まで分からなくなってしまった。

 困ったことに持ってきたのは自宅の鍵と財布のみ。

 つまりスマホがない。

 地図アプリが開けない。

 それらから導き出される事実はただ一つ。



・・・



 今現在『迷子』という確固たる現実だ。いや、もう30歳目前であるため『迷大人』というのが正しいか。もっと言えば『迷中年』か...

 そんな皮肉が思い浮かんでは遠く山の峰ががほんのりと白み始めた夜道を一人歩きながら苦笑するくらいなのだから別に焦ってはいなかった。

 どうせ今日は休日なのだから出勤が迫っているわけでもない。ならば別に焦る必要も特段ないだろう。

 そうして歩いているうちは、やはり余計な思考から少し解放されていたことに彼方は気付いていなかった。

「なんだ?こんなところに公園なんてあったか?」

 になりながらもさらに散策のため歩みを進めていると、小さな公園があることに気が付いた。

 一軒家やマンションが立ち並ぶこのあたりには当然子供も多く、小学校や中学校もある。おそらく夕方や休日には子供らが集う憩いの場なのだろう。

 そんなありふれた小さな公園を見かけ何気なしに立ち寄ると、ブランコにぼんやりと人影らしきものを見つけた。

 すぐに確かめなかったのは、人ではなく、人影に見えた霊的なものの可能性も捨てきれなかったからだ。

 アラサーでありながら未だオカルトに耐性のない彼方の胸には、その存在がなんであるか確かめたいという純粋な好奇心と同じくらい、もしもお化けだったらどうしようという子供じみた恐怖心が込み上げていたのであった。

 躊躇しながら考えていると、寝静まり静寂に包まれていた無音の空間の中わずかにキィ…キィ…と金属が軋むような音が混ざることに気が付いた。

(マジかよ…こんな時間にブランコ乗る奴なんかいるか…?)

 ますます深まる懐疑心と抗えない好奇心から無意識的に恐る恐る公園の入り口まで行き、気が付くと敷地の中まで入り込んでブランコの様子を窺っていた。


「え…」

 が何かわかると同時に、彼方は一瞬にして声を失った。

 夜明け間近のブランコにいたのは、髪の長い女性のお化け...ではなく本物の女性だった。

 と言ってもただの女性なら言葉を失いはしなかっただろう。群青と青碧せいへきがまざり白みはじめた空の明かりに照らされた彼女の髪は、それ自体が発光しているかのように青白く、はっきりと存在を放っていた。

 ブランコが動くのと一緒に流れる青白い髪の隙間からは、翡翠をそのまま埋め込んだような緑がかった瞳と、遠くからでも間違えることなくはっきりと分かるほど小さな輪郭が覗いていた。

 ゆっくりと揺らす体の芯は細いながらも非健康的なものではなく、ホットパンツの下からは、その髪と同様にそれ自体が発光しているかのように透き通った真っ白な足が存在を放っていた。

 ただ、作り物のような容姿によるものなのか、それとも何か抱えるものがあるためか、その視線に、瞳の中に生気がなく、ぼーっと遠く遙か先を見つめていることだけが妙に彼方の胸をざわつかせていた。


「綺麗だ…」

 瞬きすら忘れるほどに見入ってしまった。いや、もしかすると思わず声に出てしまっていたのかも知れない。気が付くとブランコの音は止まり、こちらを見つめる彼女と彼方の目が確かに合った。

 跳ね上がる心臓の鼓動とは裏腹に、彼女から目が離せない。ほんの一瞬だったのかもしれない。しかし体感にして1分程度、彼女と見つめ合ったように感じた彼方に、彼女から会釈が送られてくると、ようやく彼方の硬直は解かれたのだった。

「コニチハ。」

 聞こえるはずもないほど小さな声であいさつをし、小さく会釈を返す。 

 何か話しかけようにも咄嗟に話題が出ないのがコミュ障のつらい所だ。そもそも話しかける理由などなく、ただでさえ人がいない真夜中に散歩に出歩き、公園でたまたま出会った初対面の女性に対して、美しいからという理由だけで気安く話しかけようものなら、変質者の烙印を捺されても反論のしようがない。

(帰るか…)

 そう思いおもむろにデニムのポケットに手を突っ込んだその時だった。


「あれ…おいおいまさか。嘘だろ…」

 ポケットに突っ込んだはずの指が一本、そのまま輪を通って外へ出る。開いているのだ。小さな穴が。そしてそこに本来あったはずのものがないことに気付くのに時間はかからなかった。家の鍵がないのだ。

 デニムの後ろにあるポケットからは、いつの間にか彼方の自宅の鍵が零れ落ちていたのであった。

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