RE:ふたりぼっち

藍川澪

RE:ふたりぼっち

「彼女欲しい」

 男は唐突に思った。否、唐突というには若干語弊があるかも知れない。コロナ禍なる名のもとに生活様式が一変して季節は巡り、マスク生活にも慣れてきたものの、飲み会宴会といったものは感染の温床として真っ先に事業仕分けの憂き目に遭った。上司たちにお酌をするのがメインイベントである会社の飲み会は別に良いのだが、合コンや街コン、婚活パーティといった異性との出会いの場としての飲み会も減ってしまった。

 彼女が欲しい。恋人が欲しい。それは男の常々の願いだった。これまで彼女がいたのは学生時代まで。長続きもしなかった。社会人になり、そもそも出会いがなくなってから、学生時代の儚い付き合いを後悔した。彼女たちはさっさと結婚相手を見つけて家庭を持ってしまったのだ。昔の縁を頼ろうにも頼れなくなってしまった。

 ならば致し方なし、新たな出会いを見つけるしかない。そう思った男は、合コンや街コン、婚活パーティに誘われると万障繰り合わせて参加していた。彼なりに努力はしたが、なかなかカップル成立とはいかなかった。それに男性側は金銭負担が大きく、手当り次第という訳にも行かなくなった頃に、コロナ禍でぱたりと開催そのものがなくなったのだ。懐具合が寒くなってきた男にとっては想定外の形とはいえ、戦士の休息にうってつけだった。

 今度はより人と会わない生活が始まった。仕事はリモートワーク中心になり、生活用品や食品の調達を除いては一人暮らしのマンションの一室から出なくなった。最初こそ気楽だとも思ったが、次第に人恋しさの方が勝ってきた。友人たちとオンライン飲み会などもしたが、やはり直接会って話したい。そして彼女が欲しい。恋人が欲しい。自分の隣で、些細なことでもにこやかに笑ってくれる女性がいたらいいのに。そう思うようになった。

 そんなある日、動画視聴か何かの拍子に目に飛び込んできた文句、「ワンタップで気軽にマッチング!」。オンラインで個々に設定した条件をもとに登録した人のマッチングを行う各種アプリケーションがあることは知っていた。これまでの街コンなどの仕組みに慣れていたから興味が向かなかったのだが、人と会う催しが減ったことから、オンラインでの需要が増えたらしい。

 物は試し。人恋しさも手伝って、男はとあるサービスに登録をした。登録完了メールが届き、アプリケーションから「ようこそ!」の通知。

 いくつかのプロフィールと条件を入力したら、さっそく候補が提示される。工夫された写真。分かっていても、こちらを優しく見つめてくるような女たちの写真に高揚した。これを現実で向けられたら、どんなに気分が良いことだろう。

 やがて、一人の女性とメッセージのやりとりを経て、直接顔を合わせることになった。写真の上での容姿は十分に良い。メッセージのレスポンスも早く、話のテンポが合うと感じた。久々のデートだ。出社日の仕事後に夕食を食べることとなったため、その日はなるべく早く仕事を終わらせることにした。


***


(今日のデート、ダルいなぁ……)

 女は終業直後の会社のロッカールームで化粧を直しながらそう思った。彼氏がいないと何となく落ち着かないから、最近はマッチングアプリケーションにハマっていた。コロナ前は女友達のツテの合コンが主だったが、今は合コンのセッティングどころか女友達と飲みに行くのもなんとなく憚られた。それぞれの職場で飲み会に行くななどとお達しが出たりしているし、それらと個人の考えを全て慮って連絡するのは果てしなく面倒だ。その点、インターネット上でのマッチングは、短時間でプロフィールや条件を確認して相手を選別できるのがいい。結婚などを考え出すと相手の当たり外れなどがより厳しくなるのでやはり面倒が出てくるが、女は気軽な付き合いを好んだ。短ければワンナイト、気が合えば気が済むまで、或いは飽きたり軋轢が出てくるまで。

 今日のデートの相手は、何の変哲もないサラリーマンだ。あまりに普通すぎて容姿も学歴も勤務先も覚えていないので、直前にメッセージのやり取りも含めてもう一度確認しておこうと女は考えた。

 ロッカールームを出る前に確認。ベースメイクはツヤ感を残しつつテカリに見せない自然さで美肌に見せてくれる。アイシャドウとアイラインはピンクブラウン系で統一。まつ毛はビューラーでしっかり上げて、マスカラは一度塗り。少し額が透ける前髪の下に平行眉。ラテカラーの髪はウェーブ巻きにして、小ぶりなイヤリングが中に覗いている。メイクの間外していた飾り気のない白いマスクを捨て、小顔効果のあるベージュのものに交換した。これで良し。ジャケットを羽織ってロッカールームを出た。デートはダルくても、メイクが我ながら完璧だったので気分も上がった。

 待ち合わせ場所に向かう電車の中でスマートフォンを開き、デート相手のステイタスとメッセージ内容を確認する。趣味は料理と映画鑑賞、某企業に勤めていて年齢は同じ、最近人恋しさからこのマッチングサービスに登録した。やはりあまりに平凡な男。適当に話したところで普通に話を合わせられそうだが、その代わり面白みはなさそうだった。

 目的地近くの駅で電車を下り、化粧室でリップとチークの最終チェックをした。大丈夫だ。マスクの下でも落ちにくいと謳うだけはある、完璧な色艶。颯爽と改札を出て、目的地である高級ホテルのラウンジへと、女は向かった。


*** 


 男は上機嫌だった。マッチングした女性と、早速次の予定を取り付けられたからだった。

 女性は今風の美人で終始笑顔を絶やさず、男性の緊張がほぐれるのは早かった。次のデートでは流行りの映画を見に行く予定だ。

 しかし次のデートは週末であり、仕事のあとではない。初回のようにスーツで行く訳にも行かないし、何を着ていこうか。インターネットでそれらしいキーワードを検索し、ヒットした記事を片っ端から読んだ。清潔感が大事、というなんとも漠然とした基準をクリアしなければならない。毎日風呂には入っているが、それではダメなのだろうか。それにしてもデート用らしい私服がない、これは盲点だった。相手を見つけることに気を取られ、相手を見つけた後にどう自分を見せていくかということに考えが及んでいなかった。仕方ない、今日の仕事帰りに駅ビルの適当な紳士服店に立ち寄るか。そういうことを考えていると、仕事中の昼休みはあっと言う間に過ぎていった。


***


 女は上機嫌だった。マッチングした男性は、それなりに金がありつつ、女性経験は多くはないようだった。程よい距離で恋愛ごっこをするのにうってつけの人材だ。

 次のデートの約束は週末、流行りの映画を見ることにした。正直映画の内容はどうでもよくて、その後の食事を奢ってもらえればそれで良い。「それなりの彼氏がいる」というステイタスが続いていることが大事なのだ。そのうち考えが変わって結婚などするにしても、相手の候補が常にいることに意味がある。

 スマートフォンが通知を鳴らした。画面を確認すると、定期的にやり取りしている別の相手からのメッセージだった。女はマスクの下で笑った。平日の夜、相手の奢りでホテルのレストランのビュッフェに行かないかというお誘いだった。女はスケジュールを確認し、快諾の返事を送る。相手の候補が常にいることに、意味があるのだ。


***


 男がマッチングした女性とデートを繰り返すこと幾度か、気づけば街には寒風が吹き抜けるようになり、日が暮れる頃にはあちらこちらでイルミネーションが灯り、何らかの店に入ればクリスマスと正月を意識した商品が目を引くようになった。この調子でいけば、俗に言うクリぼっちなる不名誉な烙印は押されずに済みそうだった。

 そうだ、クリスマスの予定を立てておかなければ。今年のクリスマスは土日だ。それでなくてもクリスマスの日のレストランなどの予約は早々と埋まるのだから、今のうちに押さえておくのができる彼氏というものだろう。彼女にメッセージを送り、直後にディナーの評判の高い店を予約した。まだ一ヶ月以上先のことだが、今から楽しみになってきた。プレゼントも用意しなくては。こういう忙しさは嫌いではない。

 それにしても、あの女性はあんなに美人なのに、どうして自分と付き合ってくれているのだろう。一応マッチングをしているのならば、他にも引く手あまただろうに。そう思ったが、男は同時に優越感も覚えた。たとえ彼女が自分と付き合っているのが単なる出会いのタイミングがよかったからにしても、今彼女が付き合っているのが自分であることには変わらない。他の男たちには悪いが、自分にはあんなに美人な彼女がいるのだ。男は他の男たちに対して自分が一段上に立っているような感覚も覚えた。知らず知らずのうちに笑みがこぼれる。

 彼女からはやがてクリスマスの予定を承知する連絡がきた。ただ、昼間は女友達と会う用事があるから、予約の直前に現地での集合で構わないかとの但し書きがついていた。女友達との先約なら仕方がない。女同士でのクリスマスも楽しいのだろうし、自分はディナーの時間を――あわよくばその先の時間も――彼女と過ごせればそれでいいのだ。同性の友人との関係まで束縛するほど狭量な男ではないことをアピールするチャンスでもある。男は待ち合わせ時間の了承についての連絡を女に返した。すぐに、可愛らしいスタンプが返ってきた。順風満帆だ。問題なんてどこにもない。自分は世界でいちばんの幸せ者だ。


 クリスマス当日、男は朝早くに目が覚めてしまった。彼女との待ち合わせまでまだ何時間もある。昨晩は入浴時に念入りに頭を洗って体の隅々まで綺麗にしたつもりだったが、あまりにそわそわと落ち着かないものだから、もう一度シャワーを浴びた。この日のための衣類は一式新調したものだ。彼女へのプレゼントのため、普段行くこともない百貨店のコスメコーナーでブランド品の口紅を買い、有料ラッピングを頼んだ上に紙袋まで用意してもらった。シャワーを終えて着替えたところで、出発するにはあまりに早すぎる時間だったが、家にいても落ち着かないのは変わらないので、どうせなら早めに行って近くのカフェで時間を潰そうと思った。

 家を出て電車に乗る。電車の中は、いかにも休日といった出でたちの人々に加え、心なしか男女の組み合わせが目立つ気がした。これからデートに行くのであろう男女の中に自分も混ざっている。男はマスクの下で顔が緩むのが分かった。あんなに美人な彼女がいるのだから、仕方がないのだ。

 待ち合わせは繁華街に程近い駅前の広場だ。昼時というのもあってか多くの人が集まり、待ち合わせだったり休憩していたりしていた。男はいったん立ち止まってスマートフォンの地図から付近のカフェを探した。いくつか目星がついて、歩き出そうとしたその時、遠目に見覚えのあるラテカラーの髪が見えた。

 男は見間違いかとも思ったが、くすんだラベンダー色のマスクをつけてグレーのチェック柄のコートを着た女の顔は、間違いなく彼女だった。女友達との約束というのもこのあたりでのことだったのか――と納得しかけた瞬間、男は目を疑うことになった。彼女の隣にいたのは、見知らぬ男だった。

 見知らぬ男――男友達だろうか? 聞き違えたか? いや、彼女は確かに「女友達」だとメッセージで言っていた。それなら、集合場所までついてきた兄弟か――彼女は一人っ子だと言っていた記憶がある。じゃあ、あれは誰だ。なぜ、彼女は腕を組んだりなどしているのだろう。自分ともまだ手を繋いだところまでしかしていないのに。あんなに親しげにする男とは、誰だ?

 男は無意識に気配を殺し、女に気づかれない程度の距離から彼女を凝視していた。女は傍の男の腕に腕を絡め、歩き出す。時間はまさに正午を回ったあたり、これから昼食にでも行くのか。歩き出した二人の後ろを、雑踏に紛れながら男はいかにもさりげないふうに尾行した。やがて二人はいくつか小路を折れて、目立たないところにあるラブホテルの入口に消えていった。

 男はそのラブホテルの前に立ち尽くした。ご休憩、ご宿泊、何千何百円、云々。文字が目に入ってくるが、にわかにはその意味を考えられない。頭が考えることを拒否していた。ラブホテルに男女が二人で入って行って、することなんて決まっている。昼食は持っていないようだったし、ルームサービスでも取るのだろうか。数時間をあの見知らぬ男と過ごした彼女は、何食わぬ顔でディナーの時間には自分と会うつもりだったのだろうか。他に男がいるなんて、おくびにも出さずに。なんて器用な女だ。

 いや、感心している場合ではない。約束の時間まであと数時間。まだ時間はある。男は痺れかけていた足を動かし、別の方向に向かい出した。頭は真っ白で真っ黒、熱いようで妙に冷たく、男は数時間を過ごした。

 やがて日が傾いて、待ち合わせの時間がやってくる。男は駅前の広場の待ち合わせ場所に着いた。待ち合わせ時間の二十分前。点灯したイルミネーションに照らされた腕時計を眺めて、人待ち顔をする。他にも似たような男女がたくさん自分の周りにいて、男はその場で声を出して大笑いしたい気分だった。

 そして、女がやってきた。ラテカラーの長い髪は念入りに巻かれて寒風に靡き、街明かりに明るくきらきらと輝いた。マスクはピンク色のものに変わっている。チェック柄のロングコートの下からは、軽やかなシフォンワンピースの裾と白いブーツを履いた足首が覗いていた。男に気づいて待ち遠しかったとばかりに小走りで駆け寄ってくる様子は、とても可愛らしかった。

「早いね。待った?」

「俺も今来たところだよ」

 男は女に笑いかけた。女もよかったと笑みを返した。完璧だった。少し早いけど行こうか、と男は女を促した。女は頷いて、横に並ぶ。手を触れようとはしない。

 男と女は繁華街の道をいくつか歩き、やがて薄暗い小路に入った。女はスマートフォンを片手に、少し不安げに言った。

「ねえ、予約してたお店ってこっちだったっけ?」

 男は答えずに女の方を見た。小路の中にイルミネーションの光は届かず、フィラメントの切れかけた街灯の不規則な瞬きが男の顔を照らすばかりだった。男は黙って女の手を取り、強引ではない程度に、だが無言で先導した。雑居ビルの一階にある古びたエレベータに乗り込み、最上階のボタンを押す。エレベータの中にはフロア案内の一つすら貼られておらず、とっくに過ぎた電気設備のメンテナンスのお知らせの貼り紙があるばかりだった。女は男の雰囲気に飲まれたように、それ以上何も聞こうとしなかった。

 チン、と無機質な音を立ててエレベータは最上階に着いた。非常灯だけが照らすリノリウムのエレベータホールに出て、男は非常階段の扉を開けた。階段を登った先は、ビルの屋上だった。非常口のランプだけが照らす殺風景な屋上で、冷たいビル風が容赦なく吹きつけた。女はコートの前を掻き合わせて、堪えきれなくなったように言った。

「ねえ、ここ、違うでしょ。どうしたの? お店、行こうよ」

「昼間会ってたの、誰?」

 男は静かに尋ねた。まるで成り立っていない会話に、女は上向きのまつ毛を上下に動かした。

「前言わなかったっけ。昼間は女友達と」

「どう見ても男の"女友達"と、ラブホテルに入ってたのか?」

 男の言葉に、女は明らかに動揺していた。そんなこと知らないと強く否定して、女友達との写真のひとつでも見せてくれればいいのに。そんな、絶対バレないと思っていたみたいな顔をして。それじゃあ、肯定しているようなものじゃないか。

「なんとか言えよ」

「それは」

「俺に嘘ついてまで付き合っている男がいたのか」

「彼とは付き合ってない、彼はただの遊び相手で」

「彼氏とは手を繋ぐだけで、遊び相手とは腕組んでセックスまでするのか」

 女は言い訳が思いつかなかったのか、しばらく黙った。男は手に持っていた紙袋から、丁寧にラッピングされてリボンの掛けられた口紅の小箱を取り出した。

「これ、君のために買ってきたんだ」

 差し出された小箱に、女は白いコートの手を恐る恐る伸ばした。女が小箱を受け取ると、男は開けて、と促した。リボンをほどき、ラッピングの紙を剥ぐ女の素手の指は震えている。それが寒さ故なのか、それ以外の原因があるのかはわからなかった。口紅は、百貨店ならまず入っている有名なコスメブランドのものだった。定番の赤だ。

「マスク、外して。それ付けて見せてよ」

 男は自分もマスクを外しながらそう言った。男は自分のマスクをその場に捨てた。女は震える手のままピンクのマスクを外し、赤い口紅を繰り出し、唇に当てた。ピンク色の艶のある口紅の上から、マットな質感の赤が上書きされた。その色を見て、男は笑った。

「ああ。失敗だったな。全然、似合わない」

 男は失笑した。怯えた顔を見せた女に大股で近づき、コートのポケットから出したナイフを力任せに思い切り女の腹に突き立てた。

 女の悲鳴が上がった。その口を塞ぐ。男と女はバランスを崩し、屋上の床に倒れ込んだ。男は片手で女の口を塞いだまま、もう片方の手でナイフを刺し続けた。胸と腹から血が溢れ出す。あまりにも女がもがくから、首にもかすって返り血が男の方に飛び散った。やがて女は力尽きたのか、動かなくなった。男は口を塞いでいた手を放し、女の口元を見た。血の色と、自分の贈った口紅の色が重なっていた。混ざらない二つの赤は、女のショコララテの色の髪や、ピンクブラウンのラメが施された顔には、全く似合っていなかった。大きな目は生気なく宙を見つめ、それを縁取るまつ毛がまだしっかりとカールしているのがいやに目立った。

 男は自分の下にいる女をしばらく見つめ、妙な満足感を覚えた。もうこれで、彼女は自分以外の男のところに行くことはない。自分だけの彼女だ。コートの下に着たワンピースに血がまだらに染みを作り、触れるとべっとりと手が濡れる。温かい。彼女の体温だ。男は女を抱き上げた。意外と重さがある。だらりと垂れる腕を自分の肩に回し、腰を支える。自立しない足が引きずられ、ブーツのかかとがざりざりと屋上の床を擦った。ぎこちないダンスのように男と女は屋上の淵へ向かう。腰の高さにある淵から身を乗り出すと、カクテルのようなグラデーションのかかった空と、街灯りの織りなす夜景が眼前に広がった。

「綺麗だね」

 抱いた女からは返事がない。だが男は構わなかった。二人でこの景色が見られたのなら、満足だ。夜景がそれなりに評判のレストランを予約していたけれど、場所なんて関係なかった。二人で見ているのなら、それが一番美しい景色なのだ。

「そうかな」

 知らない声が返事をした。

 男は声の方を振り返る。屋上の淵に、少年が腰かけていた。先程までは誰もいなかったはずなのに、忽然と現れた。夜に溶けそうな黒ずくめの服装に、白皙の美貌。マスク生活で久しくお目にかかることのなくなった初対面の素顔を、さも当たり前のように寒風に晒していた。薄暗い中で無表情、そして色白ともなると、まるで石の彫刻かビスクドールのようにも見えたが、少年は男と女を一瞥したあと夜景の方に目を戻したので、動かない美術品ではないようだった。

「今、しゃべった?」

 男は間抜けな問いを発した。それほどに、俄には生きている人間だとは信じ難い無機質さのある少年だった。以前街中で見かけた、彫像のパフォーマンスをする大道芸人がいたが、その類だろうか。それにしては人目につかない所にいるが。少年は答えないまま、屋上の淵に立ち上がった。そうして初めて、男は少年が大きな鎌を携えていることが分かった。身の丈ほどある柄に、僅かな光をも拾う刃。その姿が示唆するものは、

「死神、みたいなものだ。君の知識に照らし合わせるならね」

 まるで返事になっていないが、男の疑問には答える言葉を、少年は淡々と発した。


 男は人並みに混乱していた。仮にも人一人を殺した後、最初にお目にかかるのが警察でもなんでもなく自称死神とは。しかし、目の前にいる少年には妙な説得力もあるのも事実だった。少年は再び口を開く。

「それ」

「え?」

 少年は視線だけを女にやった。肩と腰を支えられた女の死体は、「それ」と言われてもおかしくない状態だった。

「心中でもするの」

 少年に言われて、それもそうかと男は思った。心中、それも悪くない。男は陶酔した笑みを浮かべた。

「それもいいな。彼女、放っておいたらまた別の男のところに行きそうだし」

 呟いてからふと、男は彼女の話をこれまで誰にもしてこなかったことに気がついた。彼女ができたことも、誰にも話すタイミングがなかった。この奇妙な少年にくらいなら、話しても許されるのではないだろうか。

「心中の前に、彼女の話をしていいかな」

 少年は答えなかった。ただ立ったまま、男と女を見下ろしている。男はお構い無しに言葉を続けた。

「彼女のこと、好きなんだ。俺は彼女と過ごす時間が好きだった。だから、殺したんだ」

 女が肩からずり落ちそうになり、男は女の体を支え直した。街灯りの影になって、女の血の染みはますます黒々と見えた。女の半開きの目が街明かりに向いた。茶色の瞳に自分と同じ景色が映っているのを見て、男は満足した。

「彼女にとっては、俺のことは男の中の一人に過ぎなかったんだな。俺にとっては、たった一人の彼女でも。俺は彼女のことしか考えていなかった。口紅を買う時も、服を新調する時も、彼女がどう思うかを考えてた。その間、彼女は何人の男のことを考えてたんだろうな」

 彼女が見知らぬ男とラブホテルに消えていった後、男は何一つ迷うことなくナイフを手にし、コートのポケットに忍ばせた。他の男の生々しい痕跡が残った体を抱きたくはなかった。それを消せば、彼女は自分だけのものになると思った。今、人形のように自分にしなだれかかることしかできない彼女は、間違いなく自分だけの女だと確信した。このまま心中すれば、もう二人きりの世界だ。

「心中って、いいことを言ってくれてありがとう。俺は彼女とずっと一緒にいるよ」

 男は少年に笑いかけた。少年は何も言わなかった。男は屋上の淵に上り、女を抱え直した。ビル風が吹き付ける。夜景が星のように視界をちらつく。ぐらりと体が傾いて、重力に従う。これで、二人だけの自由だ。

 不意に、腕の中の温もりがなくなった。腕をすり抜けていくのは冷たい空気だけ。男が最後に見たのは、少年の大きな鎌に絡め取られて串刺しになった女の姿だった。


 目を覚ますと、白い天井。そして、自分を取り囲む見知らぬ白衣姿の人々が、男の瞳に映った。

「生きてる……」

 そう呟いたのは、男の意識だったのか、周りの人だったのか。いずれにせよ、両者の間でその言葉の意味するところに、決定的な隔たりがあることは間違いなかった。

 男は耐え難い痛みを感じた。身体の傷は、そのまま精神の傷だった。指一本動かせず、口には酸素マスクが着けられ、点滴に繋がれた身体は、あの屋上に置き去りになったまま引き裂かれた心と同じだ。

 大きな鎌に貫かれた女の姿が、脳裏をよぎった。ひどく醜い、もはや肉塊としか言えないような状態になっても、男は彼女を欲していた。彼女さえいれば、すべて解決するような気がした。けれど少年は、女を連れ去ってしまった。どことも知れない彼岸からは、女を連れ戻せない。少年の言うことが真実ならば、男はいっそ少年に嫉妬すら覚えた。彼岸に彼女を連れていくのは、自分がしたかったのに。どうして、自分だけを生かした?

 男の慟哭は声にならず、部屋に満ちる無機質な機械音に押し潰された。

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