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 かつてここには産業都市があった。

 文明が衰退してから長い年月がたち、ビルの塗装がはがれ、壁が崩落し、金属の骨組みがあらわになっているものもある。

 いまでは風が吹き抜けるだけの廃墟だが、そんな中心街から離れた住宅地に彼女はいた。

 古びたアパートメントの薄暗い一室。

 ベッドで眠る男のそばに、車椅子が近づいた。

 少女の陶器のような白い腕が、からっぽのコップをサイドテーブルに置く。


「おはようございます、マスター。お水をお持ちしました」


 車椅子の所有票には、カテリーナ・ミリエとあった。

 声をかけられた男は、眉ひとつ動かない。腕や腹には半透明のチューブが何本もさし込まれ、ベッド脇のモニターには青い一本線のグラフが表示されていた。

 カテリーナは、病に伏した彼の世話をしていた。

 食事はチューブを通して送られるため、用意する必要はない。かわりに、室内の清掃や後片付けを彼女が担当する。


「それではマスター、今からお洗濯とお掃除をします。何かありましたら、お申しつけください」


 淡々とそう口にして、カテリーナは車椅子を隣室へ進ませた。心配性だった彼は何度も彼女のことをたずねたので、寝込んだ今でも、これからの予定を伝えるのが彼女の習慣となっていた。


 隣室の片隅には、古びた洗濯機が置かれている。カテリーナはからっぽのカゴに手をのばして────いつもなら、そこにあるはずの洗濯物はなく────何もない宙をつかんで、つかんだものを洗濯槽に放りこんだ。 

 今度は、粉末洗剤の空き箱を手に取り────いつもなら、そこに洗剤が入っているが─────何もない空間を軽量スプーンですくいとって洗濯槽に投入した。洗濯機を稼働させるスイッチを押し、カテリーナは車輪きびすを返す。彼女の背後で、洗濯機は三度ほど大きく揺れて、二度と動かなくなった。


「お洗濯は、三十分ほどで終わります。つぎは、お部屋のお掃除です」


 彼女の腕からほこりを吸引するノズルと、床拭き用のシートが出てきた。先端が黒く汚れたノズルはひとつもホコリを吸い込まず、常に洗浄液で潤っているはずのシートは乾燥していて、床をごしごしと拭くごとに表面を傷つけていった。

 それを意に介したふうもなく、カテリーナは掃除を続ける。

 車椅子のタイヤが何度かベッドにぶつかり、そのたびに眠っている男の体が、まるでモニターのノイズのようにブレた。

 窓を拭こうと腕を掲げたところで、カテリーナの目が洗濯機のほうへ向けられる。


「お洗濯が完了したようです」


 洗濯機のほうへ向かう途中、サイドテーブルにぶつかった。置いていたコップが落下して割れる。カテリーナは、淡々とカップの破片にノズルを近づけた。破片が吸い込まれることはなかったが、彼女はそのまま五秒ほど静止した後ノズルをしまいこんで洗濯機へ向かった。からっぽの洗濯槽から放り込んだものを取りだし、急速乾燥。ひざの上でひとつひとつ丁寧にたたむ動作をくりかえすと、たたんだものを収納スペースに置いた。


 ふと、彼女は目の前に青白いモニターを立ち上げた。モニターはすぐさま警告を示す赤色にきりかわり、エラーメッセージとメンテナンスをうながす言葉が表示される。白い指先をモニターの下から上へすべらせると、男のほうを向いた。


「買い物にいってきます、マスター」


 カテリーナが玄関から遠ざかると、無人を感知した室内灯が消え、ベッドに横たわっていた男の姿ホログラムも消えた。



 この地に人間がいないらしいというのは、カテリーナも体内に埋め込まれたデータで把握していた。もうずっと昔に、ちがう土地へ移住したのだという。


 ほとんど倒壊しかけているビルの向こう側で、荷物の運搬をおこなう重機が無人の工場で働き続けている。

 定められたテンポで、重機の駆動音が響く。

 クレーンが上下する空を見て、カテリーナはその方角へとタイヤを向けた。


 人に忘れられた土地で、彼女は今日も暮らしている。

 自分が壊れかけていることに、彼女はまだ気づいていない。

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B.O.S. すいかなえ @se22xa32

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