25.
「カナメさん……」
床で眠っているカナメさんの顔を見つめながら、その名前を呼んでみる。自分の名前は思いだせないのに、カナメさんの名前はちゃんと覚えている。
わたしは突然、携帯電話の存在を思いだした。ポケットから携帯電話を取りだすと、画面に数字のボタンが表示される。パスコード……。パスコード、なんだっけ。誕生日? 誕生日って、いつだっけ……。
わたしは携帯電話を諦めて、机の上に伏せて置いた。カナメさんが起きあがったので、びっくりして思わずのけぞった。
「起こしちゃいましたか……?」
おそるおそる問いかけてみたが、カナメさんは答えてくれなかった。首をひねって壁にかかった時計に目をやっている。そして、小さく溜息をつく。
「カナメさん?」
さっきより少し大きな声で呼びかけてみたが、返事はない。胸がざわつく。カナメさんは立ちあがり、キッチンでコーヒーを淹れはじめた。手元にマグカップを一つだけ用意して。
「あの……、わたしも、飲みたいです……」
おずおずとそう声をかけるものの、カナメさんはこちらを振りかえりもしなかった。コーヒーを淹れおわると、カナメさんはマグカップを手に、ベッドの真ん中に腰かけた。コーヒーを一口すすってマグカップを机の上に置き、リモコンを手にとってテレビの電源を点ける。わたしはいったいどうすればいいのかわからず、薄い青色のクッションの上に座った。
カナメさんはぼんやりとテレビの方に顔を向けている。わたしは、なにかカナメさんの気に障ることをしてしまったのだろうか。それでカナメさんは怒って、わたしを無視しているのだろうか。いや……。カナメさんは腹が立ったからといって相手を無視するような人じゃない。でも、それならどうして?
チャイムが鳴った。カナメさんはテレビを消してベッドから立ちあがり、玄関へ向かう。カナメさんが開けた扉の向こうには、林さんが立っていた。
「林さん……!」
せめて「あんた誰?」と言ってほしい。そう願いながらわたしが名前を呼んでも、林さんはこちらに目をくれることさえなく、カナメさんと一緒に部屋に入ってきた。カナメさんは再びベッドに腰かけ、そんなカナメさんを見下ろすようにして林さんが立つ。
「どうしたの、ユウ?」
「どうしたのって……。ずっとサークル来てないだろ。電話も繋がらないし、まあその……、心配で見にきた」
「ああ、ごめん……。そういえば携帯電話、サイレントモードのままにしてたかも……。サークルに行ってないわけじゃなくて……、いやまあ、行ってないんだけど……、そもそも学校に行ってないんだ」
「なんでだ?」
林さんの問いかけに、カナメさんは黙りこむ。
「いつまで休むつもりなんだ?」
「さあ……」
「なにかあったのか。その……、俺でよければ、話ぐらい聞くけど」
林さんはどこかぶっきらぼうにそう言った。カナメさんは黙っている。
「そうか、言いたくないならべつに……」
「いや」
言いかけた林さんを、意を決したかのようにカナメさんが遮る。
「なんだか、すごく大切なことを、僕は忘れてしまった気がするんだ」
「大切なこと?」
「どうしても思いだせない。でも、どうしても思いださなくちゃいけないんだ」
林さんは困ったように、小さく溜息をついた。
「わかってるよ、わかってるけど……、それ以外にどう言えばいいのか、わからないだ……」
「こんな狭い部屋の中に一人でいるから、思いだせないんじゃないか?」
——こんな狭い部屋の中に一人でいるから。
わたしは林さんの言ったその言葉を、二度三度と頭の中で繰りかえした。わたしは、この部屋に、いない……。カナメさんも林さんも、わたしを無視しているわけじゃない……。
「いや……、ここで、この部屋で、思いださなくちゃいけないんだ」
「はあ……?」
「とにかく僕は、それを思いだすまで、この部屋から出ない」
カナメさんがきっぱりと言いはなつ。
「勝手にしろ……」
林さんは呆れたように、カナメさんに背を向けた。
「ただ、もし俺にできることがあれば……、そんなものがあるのかは知らんが、とにかくそのときは電話でもしてくれ」
林さんは玄関に向かい、靴を履いて立ちあがり、そこで止まった。なにかまだ言うつもりなのだろうか、と思ったが、結局林さんはなにも言わずに玄関の扉を開けて、そのまま外へ出ていった。
カナメさんが長く息をついた。そして、壁の隅に立てかけてあるギターを手にとり、ベッドに腰かける。机の上の缶を開けてカポタストを取りだし、ギターに嵌める。カナメさんが奏ではじめたのは、いつかこの部屋に来たときに、わたしに聴かせてくれた曲だった。
「空はどこから空なのだろう」
カナメさんが、曲にあわせて綺麗な声で、そっとそっと歌う。
「この手を伸ばせばもう、届いているのかもしれない。あの星はまだあるのだろうか。光だってゆっくり歩いてくる」
まるで自分自身に聴かせるように、あるいは誰にも聴かせたくないかのように。
「泣きたくないのに涙が出ちゃう。君は笑うのが上手じゃないね。けれどそんな君が好きでたまらないよ」
それともひょっとしたら、誰かに聴いてもらいたいかのように。
「いつだって夢を見ている。叶わなくても構わないんだ。君の愛した花が枯れてしまう。そうだとしても水をやろうか」
わたしはただただカナメさんの歌声に耳を傾ける。なるべく息を止めて、一言も一音も聴きのがすまいと。
「もう夜だけど眠りたくない。おはようって言わせてくれないか。そんなに寂しそうな顔をしないで」
カナメさんは目を閉じて、息継ぎをした。
「たとえ世界が君を忘れても、僕はずっと君の傍にいるから」
カナメさんは両手を動かしつづけた。弦を押さえる左手と、弾く右手。
「空はどこまで空なのだろう。いつかはその向こうへ、届くことができるだろうか。あの星はもうないのだろうか。光だって疲れて止まるだろう」
六本の弦とカナメさんの声が奏でるその音楽を、わたしはずっと聴いていたいと思った。
「泣きたいときには涙が出ない。君は生きるのが上手じゃないね。だからそんな君が好きでたまらないよ」
涙が出そうになって、自分の目尻に手をあてた、いや……、あてようとした。
「今日だって現抜かすよ。怒られたって仕方ないんだ。僕の嫌いな花がまだ咲いている。いつまでだって実を結べない」
わたしは、自分がもはやそこに存在しないことを、どうしても受けとめなければならなかった。改めて自分の手を見ようとしたが、うまくいかなかった。もう、わたしの手など、なかったから。
「まだ朝だけど起きたくないよ。おやすみって言わせてくれないか。そんなふうに優しい顔をしないで」
カナメさんはまたぎゅっと目を閉じて、大きく息継ぎをする。
「たとえ世界が君を忘れても、僕はずっと君の傍にいるから。たとえ僕が君を忘れても、僕はずっと君の傍にいるから」
ギターの音がゆっくりと小さくなっていき、そして消えた。カナメさんはギターの上にくずおれ、やがて小さな嗚咽を漏らしはじめた。わたしはそっと、カナメさんの横に腰かけた——いや、腰かけることは、できなかった。手だけでなく、足も、胴体も、もうなかった。カナメさん。そう呼びかけようとしても、声は出てこなかった。
——さようなら。
カナメさんにも、自分の耳にさえも、届かない言葉を必死で絞りだす。それは音にならなかった。
それでも、カナメさんがはっと顔をあげるのが、わかった。
デクレッシェンド 藤野ゆくえ @srwnks
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