たったひとつの本当を

天くじら

たったひとつの本当を

「おはよう」

「んー……」

そんな答えが返ってきて、いつも通りだなぁ、と安心している自分がいる。

このままでいても、何も未来はないというのに。

起きたら朝ごはんを作ってくれてて……とか、おはようって頭撫でてくれて……とか、そんなかっこいいこと何もない。ずっとそうだ。


——このまま一緒にいても、何も未来はないとわかっているのに。


私と翔は、高校の同級生だ。

翔はその頃から成績も運動も中の下、みたいな人間で、私は何も意識していなかった。告白されるまでは。

「愛理さんのことが好きです」

しとしと雨が降っていて、お天気雨や虹とは程遠い空の下、翔はそう言った。

高校生といえば、青春を横臥する時期。そう考えていた私は、彼氏がいないことにコンプレックスを感じていた。

せっかくのチャンスだし……。

そう思って、試しに付き合ってみることにしたのだった。


まあ今と同じで、翔と付き合っていて新鮮さもキュンキュンも何もなかったけれど。デートにちょっと遅れて、「待った?」って聞いたら「うん」って正直に答えるところとか。「バレンタインにあげたチョコ、おいしかった?」って聞いたら、「ちょっとしょっぱかったよ」って答えるところとか。

何もカッコよくなんてない、はずなのに。


不思議と翔は、私を安心させるのだ。

渋谷にいる他の大学生みたいに、いい香水の匂いなんてしないけど。

ご飯に行ったって、「おごる?」って気を利かせてくれたりはしないけど。

大学のテストで赤点をとっても、友達と喧嘩しても、翔に会いに行けばホッとする。何も変わっていないから。


「朝ごはん、何にしようか?」

「なんでもいーよ」

その甘い声を聞いたら、私は翔と離れることができなくなってしまう。

振るなんて、できなくなってしまう。


——私たちは、次の春で大学を卒業する。

今は、2人とも就活の真っ最中だ。


私はずっと、イラストレーターになりたかった。でも、それが厳しい道なのがわかっているから、とりあえず普通に会社員として働きながら目指そうかな、なんて思っていた。

でも、ある日のことだった。イラストを描いてアップしているサイトに、連絡があったのだ。あなたの絵は素晴らしい、ぜひうちの会社で働かないか、というものだ。

もし翔がいなかったら、私は喜んで引き受けていただろう。


でも、その会社の本社は東京にある。何回か連絡を取り、最初の方は事務などもやってもらうため、本社に出勤してほしい、と言われた。

ここは大阪だ。都会とはいえ、東京からはすごく遠い。実際、私も東京に行ったのは一昨年に翔といったその1回だけだった。

別に、翔とは遠距離恋愛で続ければいい、と言われるかもしれない。でも、たぶん私たちは近距離だからこそなのだ。遠距離恋愛になったら、どうなるかは目に見えていく。結局私は忙しくなって連絡をしなくなって……ずるずると別れていくのだろう。


ここにいたところで、見えるのは翔と結婚してそこそこの職に就き、めちゃくちゃ贅沢はできないけど貧乏でもなく、そこそこの幸せで生きていく未来だけだ。

もしイラストレーターとして成功して、翔と別れてカッコいい夫を作って楽しくちょっとだけ贅沢をしながら幸せに生きていく……そんなの夢物語だと言われるかもしれないけれど、思い描かずにはいられない。


「じゃあ、普通にご飯でいいかな」

「うん」


また、私は翔のイケボでもなんでもない声に埋もれていくのだった。


**


「できるだけ、お早めに返事をいただきたいです。こちらとしても、梨川さんに入社していただけない場合、別の人を探さなければならないので」

今日は翔は大学で、私は大学がない日だった。

シーンとした空気の中でなった電話は、この前に連絡をくれた会社からのものだ。


その人が言っていることは、たしかにそうだ。

でも、私には、夢物語な将来かそこそこな翔との将来かなんて、選べない。

あなたの替えなんていくらでもいる、と言われているみたいで、腹まで立ってきた。


「お返事が遅くなってしまい、申し訳ございません。来週末までにお返事する、ということで大丈夫でしょうか?」

そんなふうに、自分の本心なんか隠して人付き合いを優先する自分にも腹が立つ。

「わかりました。お待ちしております」

そんな感じで、私たちの業務的な会話は終わった。


「ただいまぁ」

のろのろとした声が、部屋の空気を緩める。

翔だった。


その声はまるで私の心にできた固い結び目を解くみたいに優しくて、やっぱり私には翔が必要なんだ、と思う。

私はこんなにも、翔のせいで苦しめられているのに。

2つの感情が、心の中でぶつかって渦を起こしていた。


**


「ウソ……?」

スマホに表示されているのは、なんの連絡もないこの前の会社の人のメールだった。

初期料金として、お金を払ったのが、騙し取られたのだ。


最初から、人のことなんて信じちゃいけなかった。

返事を急ぐのだって、全部早くお金を手に入れるためだったんだ。

私が猫をかぶって返事をしたのと同じように、向こうだって金のための一時的な我慢だと思って話していたのだ。


「うわぁぁぁぁぁあ」

こんな時でも、叫ぶことしかできない自分に嫌気がさした。

どうせあなたは、何もできないんだよ、と思い知らされているみたいで。


「どうしたの? ねぇ大丈夫、愛理」

翔の優しい声すら、もう消してしまいたかった。


——今日は、翔と私の付き合い始めた記念日だった。

考えに考え続けて、私は一歩前に進もうと決めた。

翔といるよりも、可能性のある未来を選んだ方がいい。そう思ったから。

この機会に、自分の本当にやりたいことに、翔と別れてでもチャレンジしようと思ったのだ。


それなのに。

私はきっとずっと、翔とは離れられない。

このまま結婚もせず、ずるずると同棲だけを続けていくのかもしれない。


翔の抱きしめてくる手を振り解いて、外に出る。

はぁはぁとする息がほんのりと白かった。


あの日も。私が翔に告白された日も、これくらいの寒い日だった。

「寒い? ごめんね」

私が「試しに付き合うくらいならいいよ」と言った後に、翔は凍える私にそう言った。もちろん、自分の付けていたマフラーは渡さず、である。

それでも、その時、ああ、この人と付き合いたい、と思ったのだ。


自分が嫌な思いをしてまで尽くそうとは思っていない。

でも、寒いことに関して自分は悪くないのに、ごめんねと言ってくれる。

そんな関係が私には心地よかったのだ。


誰のことも信じるべきじゃなかった、と思っていたけど。

本当のことを言ってくれる人は、こんなにも近くにいたんだ。


「何があったのかわかんないけど、俺は愛理のことが好きだ」

この言葉が本当だと、それだけは疑わずに思える。


今、ウソじゃなく、私は翔のことが好きだ。大好きだ。


「ずっとずっと、大好きだからね」

そんな掠れたような声が、どうしようもなく私を安心させる。


「ねぇ翔。結婚しよう。私たち、今年で付き合ってから6年目なんだよ」

その答えは、どっちでもよかった。

私は、本来思ってたのとは違っても、ちゃんと前に進めた。


「もう、そんな経つんだっけ。そっか。付き合い始めた日なんて、忘れてたわ」

そんな的外れな声にちょっとだけ驚く。

「じゃあ、さっきせっかくだしどっか行こって言ったのは?」

「2人とも今日何もないしなーって思って」

「もうっ、忘れないでよ。私はちゃんと覚えてたのに」


これが翔だ。

模範的な彼氏ではないし、たぶん模範的な夫にもなれない。

でも私は、そんな翔が好き。


「結婚、しよっか」

どっちでもよかったとはいえ、その言葉は何よりも嬉しかった。


「大好き」

この言葉は、紛れもなく、本当だ。

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