第3話

初めてマンションに訪れたのは秋だった。風は吹いていないが寒くて、陸斗は薄手のカーディガンを着たのを後悔していた。それだけを鮮明に覚えている。

 引っ越しの荷物を運ぶ手伝いをしただけで、マンションについての詳しいことは、こんなトラブルが起きるまで知ろうとも思わなかった。都心の駅からバス停のある西側に直進をして、ラーメン屋の方を右折して、しばらく風俗街を歩いていると、そこに暗くて日当りの悪い、控えめなペンキで塗られたような青いマンションがあった。

 最初に訪れたときは、母親に連れられて特に会話することもなく、予想よりも早く着いたのを覚えている。テーマパークのアトラクションのようだった。横並びになって歩いている女子のグループが邪魔だった。部屋に到着したときには、僕ならこんな所には住まないけどな、と思ったけれど黙って段ボールから母親の私物を取りだしていた。そこには余計なものが沢山あって、ほとんど娯楽物だった。母親がアニメーションが好きなのは知っていたけれど、いざ整理し始めてみると、うっとおしいくらい残しておこうとする大切なものが多かった。グッズやフィギュアや雑誌や原作の漫画など沢山あった。それらをこだわりがあるのかと思って慎重に扱っていると、

「そんなんじゃ、いつまで経っても終わらないでしょう」

 そう言って彼女は、それらの物を雑に扱っていた。

「後でちゃんと直すから、とりあえず取りだして、適当に並べて」と母親は指示を出した。

 あらかじめ引っ越し業者の人が運んでくれたガラスケースの棚に、一定の間隔をおきながら、カラフルな髪の毛のキャラクターをしまっていった。ゲームセンターにありそうなフィギュアから明らかにクオリティの高いものまで、大きさも様々でとにかく沢山ある。

 何と言っても、ガラスケースは一個ではなく九つもあるのだ。部屋の隙間はすれ違うときに近すぎると感じるくらい狭かった。

 下の方から埋めていって、一番上の段にもフィギュアを置くべきか悩んだ。彼の身長であるなら余裕で届くけれど、母親は背伸びをしても無理そうだった。段差とかを置けば問題はないだろうけど、そんなものは見かけなかったし、前に住んでいた家にもそれはなかった。小さかった頃に彼が段差の上から棚に飛び移るのがマイブームだったとき、滑り落ちて頭をぶつけてから、そういうのは無くなったのだ。

 ある程度のアニメ関連のものを出しきると、次に服が詰まっている段ボールに手をつけた。

 ガムテープを剥がす作業が手間になったので、カッターを探すことにした。殆ど何も持って来なかった自分を、気が利かない奴だと思いながら、雑貨の入っている段ボールを探していた。

「荷物が多いな」

「これでも減らしたんだよ」別の部屋から返事がきた。母親がこんなに耳が良いとは知らなかった。

「カッターナイフを持ってる?」と陸斗はきいてみた。

「持ってない……ハサミならあるけど」

「それでいいや。今、借りてもいい?」

 そう言いながら、彼は母親の元へ向かった。

「物が少なかったら一人でやってますから」と母親は言った。そうしてハサミをくれた。刃がある方ではない、持ち手の方を掴んでそれを受け取った。

「ありがとう。あとは、こっちは服とかだけだから」

「意外と早く終わりそうね」

「細かいのは放置してあるけど」

「それは後でお母さんがやるから大丈夫よ。ええと、タンスに詰める順番は……」

「前と一緒?」

「うん。そうね、それでいいわ」

「了解」

 そうしてビニール袋に洗濯物のように詰まった母親の衣類を一枚ずつ取り出して、丁寧に畳んだ。自分の周りに畳まれた衣類が多くなってくると、その度にタンスに詰めていき、それを繰り返して作業を終わらせた。

「どうする、外食でもする?」と母親がきいてきた。

 彼は時計を確認した。見たこともない新しくてシンプルな時計だった。四角くて数字がないのだ。

「今日は辞めとく」

 彼はリュックを背負って帰ろうとした。

「じゃあ、私は、一人でお酒でも飲みながら贅沢してます」と母親は言った。

「ここのドア、オートロックなの?」

 玄関で靴を履いている時に、彼は言った。

「そうよ」

「初めて見たな」

「指紋とパスワードで開くようになってるの。だから私が居ないと入れない」

「鍵はないの?」

「一応あるけど」

「合鍵は」

「鍵は二つだけ貰ったわ。とりあえず玄関の棚に入れておいた」

 陸斗は玄関の横にあった取っ手を掴んで、棚の中身を確認した。そこには靴が十分な余裕をもって入れてあった。横にずらしたら半分も埋まらない位だった。申し訳なさそうに置いてある透明な丸いケースの中に二つだけ鍵が入っている。

「これ、一個貰ってもいい」

「構わないけど。勝手に部屋に入ったりしないでね」

「うん。家に行くときは連絡を入れるよ。それじゃ」

 彼はリュックサックのチャックの部分に鍵を閉まった。そうしてドアを開いて、その場を去っていった。

「無理はしないように」と母親は最後にそう言っていた。

 陸斗が乗っていたエレベーターは、地震の始まりのように縦向きに揺れた気がした。しばらくそれが続いて、その後すぐに明かりが点いた。思わず目を閉じていた。唐突に目が大きくなると、どんな時間帯であっても早朝となった。

(復旧したのか)

 そう思った陸斗は携帯を手に持っていた。理由はわからないが、さっきまで死体の腹の中のように機能していなかった空間が、とつぜん息を吹き返したのだ。

 エレベーターには階数も表示されている。3の数字が光っていた。

「よくわからないけど。直ったみたいね」と早茉莉が言った。

「ボタンを押してみないと。まだ、わからない」

 彼は8の数字が書かれてあるボタンを押した。すると音を立てながら動きはじめた。

「動いた」と陸斗は事実を口にした。

「動いてるね」

「停電でも起きていたのかな?」

「そんな情報はなかったけど」と彼女は立ち上がって言った。

 エレベーターは一度も止まることなく目的地へと辿り着いた。ドアが開いても解放感は特になかった。

 彼らの目の前には黄色い棒が赤いコーンに支えられて置いてあった。彼らの行く手を阻んでいた、「立ち入り禁止」と書かれた看板が睨みつけるように置いてある。その看板を見たとき、陸斗は楽になった。

「故障中だったのか」と陸斗は黄色い棒を跨いでから言った。

「一階にはこんな看板なんて無かったのに。なんだか騙された気分だ」

「まあ、どうでもいいんじゃない。こうして無事に出れた訳だから」

「それもそうか」

「誰かがいたずらで一階の看板や赤いコーンをすべて撤去したとか」

「そんなに考えることなんてないよ。それじゃ、私の家は五階にあるから。あなたも早くトイレに行った方がいいよ」

 そう言って彼女は立ち去ろうとした。

「五階だったの? ごめん。きくの忘れてた。降りるのにエレベーターは使わないの?」

「また閉じ込められたら最悪だから。階段で行く」

「提案なんだけど、中で起きたことは忘れよう。無かったことにする方がお互いにとって得だろうから」

「同感。さようなら」

「助かる」と陸斗は言って深く息を吸った。

 早茉莉と別れてから母親の元に行こうとした。しかしその前に隣のエレベーターに乗ってから一階で降りた。そうしてさっきまで彼が閉じ込められていたエレベーターを見ると、何もなかった。

(馬鹿みたいじゃないか)

 彼は一階にある共同トイレに入って用を足していた。我慢しすぎたせいなのか、なかなか尿が出てこなかった。すると浮浪者のような人が男子トイレに入ってきた。奥の方まで入って立ち止まった後に、きょろきょろと辺りを見回してから彼の隣にある便器の前にやってきた。

「災難でしたね」と浮浪者は喋りはじめた。

 周りには陸斗のほかには誰も居ない。個室トイレにも誰も入っていなかった。ワイヤレスイヤホンで遠くにいる誰かと話をしているのだろうと彼は断定して特に気にかけなかった。

 トイレが終わりズボンのチャックを閉めていると、陸斗はとつぜん腕を強く掴まれた。

「おじさん、何してんの?」と彼は苛立って言った。「支えられないと、おしっこも出来ないの」

「人間ですから」と言って浮浪者は顔を近づけてきた。 

「汚い、離せよ」

 陸斗は遠ざかろうとしたが、相手の力が強すぎて無理だった。

「痛いって」

「災難でしたね」と浮浪者は言った。

 ふざけている、と彼は感じてもう片方の手で、相手の頭を思いっきり殴った。そうしてワニに咬まれたような腕ごと、体重を乗せて相手を押し倒した。馬乗りになって顔面が変形するまで殴りつづけた。天井を眺めてみたが、カメラらしきものは一つも見当たらない。彼は気が変わってマンションの外に出た。

「ごめん。今日は行けなくなった」とメッセージを母親に送って携帯をリュックの中に閉まった。帰りの電車では椅子に座ることもなく、ドアの近くで外の景色を眺めている。彼は凍りついたように動かなくなった。

(了)

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早茉莉 sa @franc33

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