第2話
エレベーターは依然として暗いまま、どこかの階と階の間で止まっていた。乗ってからすぐに異変が起きたので、ロープが切れて、突然、落下しても平気だった。怪我をするかもしれないが、即死したりしないだろう、と陸斗は考えていた。
くしゃみが出そうになった。マスクをしても彼は腕で口元を隠さないで欠伸やくしゃみをするのには抵抗があった。くしゃみを出すと、静かな空間に音が響いていた。そして普段であったら絶対にありえないのに、鼻水が思いっきり出た。口元のマスクにべっとりと付着している。彼は思わず鼻をすすった。その音は不快だったかもしれない。暗くてよく見えないが、早茉莉の視線を感じた気になって、鼻息をするように中途半端にすすったせいで、余計にマスク内に、べたついている感覚が広がった。
彼は困った。替えのマスクなんて持っていないし、普段から清潔なハンカチやティッシュなんて持ち合わせていないのだ。
そう思ったのにリュックの中を漁りはじめていた。もしかしたら自分でも気づかない内に街頭で配られているポケットティッシュなどが、底の方で潰れながら入っているかもしれない、そんな期待が胸に膨らんでいた。
ここのマンションに辿り着くために何駅か乗ることにした鉄道は混んではいなかった。時間通りにやって来て、彼が降りた駅の電光掲示板の時計を見ても、予定されていた到着時間は分単位で同じなのだ。鉄道は白い車体にインクのような赤色と緑の平行な横線が描かれてある。赤色の方が少しだけ線が太かった。窓は楕円形であり、ガラスのコップに入る前のフルーツジュースに必要な、様々な透明の果物のようだった。しかしながら、窓の形状はどこを眺めても全く同じに見えるので、電流が流れたかのようにドアが閉まって、走り去っていく姿は美しかった。
季節は秋だった。今日は気温が高くて、大きい画面で予報を見ると晴れのマークが並んでいた。彼は帽子を被っていなかったので、建築物に隠れていない箇所での日差しが眩しかった。陸斗は目的地に早く着かないと落ち着かなくて、対象が人である時にその傾向は強くなった。
陸斗の外出時の荷物は変わりない。彼はいつも同じの、黒くて大型のリュックサックを背負っている。中には携帯と財布と自宅の鍵が入っている。それ以外は行く場所に合わせて、指定された物を入れるだけだった。自分から何かを購入することは滅多にない。欲しいものを手にとって店のなかをグルグルと回っていれば、たいして必要じゃないものに思えてきて、商品を元に戻す動作を繰り返していた。しかし、自分の今いる環境が変化するときになると、あとから自分でも理解できないくらいの高い商品をインターネットで購入していた。
実際に商品を眺めて、実物を確認すると、「こんなもの、下らないじゃないか」と思いやすかった。それよりも何日か時間をかけて、動画やWebサイトを参考にしながら、徐々に購買欲を高めるのを好んでいた。おそらく結果は変わらないのだが、自分で調べていると騙された感じがしなかった。パソコン画面の上の方に、大量にサイトの名前が表示されているのを見ていると、綺麗な作文を書いているようだった。表示したり消したりする作業そのものに、自由があるような気になった。勿論それは思い違いであり、彼は整備された道路を裸足で歩いている、貧乏な若者に過ぎないのだ。
「何をしているの?」と早茉莉は近くにいる男の変な動きが気になって話しかけた。普段なら無視をするけれど、今日は特別だった。
「ティッシュが見つからなくて」
まるで本当は、普段からポケットティッシュを持ち歩いているような口ぶりで彼は応答した。
「貸そうか?」
「え、持ってるの」
「二枚でいいよね」
「はい」と言って彼女からティッシュを手渡された。
彼は感情が高ぶった。オルゴールのように優しい声が聴こえてきた。
体を後ろに背けて、陸斗はマスクを外した。そして鼻の周りやマスクの不織布の部分に、二枚あるティッシュを一枚ずつに分けて使用した。完璧とはいえないが不快だったものがそれなりに綺麗になった所で、彼は手に持ったティッシュを早茉莉から受け取ったとき、礼を言わなかったことに気づいた。
「助かった」と陸斗は言った。
「実を言うと、ティッシュなんてもっていなかったんだ」
「それじゃあ、さっきは何をしていたの?」と早茉莉はきいた。
「ポケットティッシュが、知らない内に入っているかもと思って、リュックの中を漁っていたんだ」と彼は説明した。
「初めからそう言えばいいのに」と早茉莉は言った。それで会話が終わった。
彼は時間を確認した。思っていたよりも時間は過ぎていないので、マンションの外には雨が降り始めている気がした。
そっと目を閉じると、知り合いの顔の代わりに、メッセージアプリのように名前とそれぞれが指定したアイコンの縦の羅列が浮かんだ。半分以上の顔は鮮明にイメージできない。陸斗は、自分はこんなにも他人を雑に扱っているのだから、自分も同じような扱いを周りから受けるのは当然だろうと思った。人前で話していると、金属を素手で触ったときのような匂いがした。話し相手がとても安っぽく見えてしまった。
何か話をするべきだろうか、と陸斗は義務のように感じていた。暗くて音もしない場所に閉じ込められていると、簡単に不安な思いが増していった。
早茉莉は携帯画面を横向きにしている。ワイヤレスイヤホンを耳に付けて、女性がメイクをしている動画を見ていた。SNSとかで文字を眺めるのには飽きてしまい、時間の区切りのある動画を求めて指先が自然と動いていた。
その姿を見ていた陸斗は、何をする気にもならなかった。電車で移動中のときや、病院での待ち時間のときも、彼は携帯を眺めていた。特定の事をしているというよりは俯いていられる状態に自分をおいておきたい、という気持ちの方が強かった。
手に持っていた携帯が震えた。彼は着信音が鳴ることに恐怖を感じる。そのため携帯は常にマナーモードにして、バイブレーションだけをオンにしていた。
「きた!」と早茉莉が先に言った。
「母親からだ」と言って彼は電話に出た。連絡をくれるのが案外早いと思った。通話ボタンを押すと、
「つまらない冗談をつかないでくれる」と押し殺したような母親の声が携帯から聴こえてきた。
予想外の反応に彼は困惑した。
「どうかしたの」と早茉莉が心配そうに囁いてくる。
「エレベーターの前まで来たんだけどね、ボタンを押したら、二つともちゃんと動いたわよ」
「本当に?」と思わず彼は言った。
「どこに居るのか知らないけどね、私が自分の作業を邪魔されると、イライラするのあなたも知ってるでしょう。そんな下らないことしないで、早く帰ってきなさい。それじゃあね」
そして、電話は一方的に切られた。
「なんか、無理っぽい」と陸斗は言った。
「どういうこと?」と早茉莉はきいた。
「母親の見たかぎりでは、エレベーターは二つとも正常に動いているらしい」と彼は不安げに言った。「でも、僕たちは閉じこめられている」
「二つなんかじゃない。ここのマンションのエレベーターは三つだったはず」と早茉莉は言った。
そう言われてみると確かに三つあったことを思い出した。
「一番手前のやつに乗ったよね」
「ええ。確かそうだよ。お母様にもういちど電話してみて」
「いや、それは……」
「どうかしたの?」
「母親は自分を曲げない人なんだ。もう既に、正常に動いているのを確認した後だから、何を言ってもたぶん無駄だと思う」
「本当にそうかしら」と早茉莉は言った。
「なんでこんなところで嘘をつくんだよ。実際にそう言われたんだから、そうに決まってるだろ」
「でも会う約束をしたんでしょう。待っていても息子が来なかったら、焦ったり連絡するのが普通じゃないの」
陸斗は相手の発言に驚きを隠せなかった。この女はそんなに長い間、ここに閉じこめられるつもりでいたのか、と。彼はもっと早くに脱出するつもりでいた。
「聴いてます?」と彼女はきいた。
「ああ、もちろん。たしかに君の言う通りかもしれないけど、実際はどうだろう。マンションを間違えただけだと思われるんじゃないかな」
彼は一呼吸をおいて言った。
「君の方は居ないの、連絡する相手とか?」
「私は一人暮らしだから」
「いや、そうじゃなくて。近くに友達とか」
「居ない」
「一人も?」
「たぶん信じてくれないと思う」
「そっか」と陸斗は素っ気なく言った。「まあ、僕も似たようなものだよ」
そうして陸斗はインターネットで、ここのマンションの名前を検索した。初めからこうすればよかったのだと後悔しながら、彼はマンションの名前を知らないことに気がつくのだった。正確には忘れていた。
携帯の位置情報をオンにして、自分の今いる場所を調べた。もしかしたら圏外になっているかもな、と暗い大理石に座ったような期待を覚えながら、彼は画面を見つめた。
一瞬だけ狂ったように知らない場所に現在地が表示された。しかしすぐに訂正されてここのマンションの名前がわかった。
「そうだ、コッファードマンションだった」と彼はいかにも思い出したかのように言った。しかし、こんな聞き慣れない名前であっただろうかと自分の記憶を疑いながら、早茉莉の退屈そうな視線を感じていた。
「いきなりどうしたの?」
「ここのマンションの名前って、コッファ―ドマンションだよね」
「多分そうだけど」
「ネットで調べたら電話番号が出てきたから、今からそこに連絡しようと思って」
「連絡をするって、あなた、ここのマンションの名前を知らなかったってこと?」
彼女は呆れたような調子で言った。
「一度も見た事がないわけではないよ。マンション名を忘れていただけで」と陸斗は言ったが、彼女は話しを遮って、
「あのね、私の頼みをもう一度聞いてくれる?」と言った。
「それはつまり、どういうこと?」
「その電話番号に連絡して欲しくない」と早茉莉は迷うことなくハッキリと喋った。
「なぜ?」と陸斗はきいた。
「明確な理由はあなたに伝えられない。けど、それは駄目なの」
「率直に言って、意味がわからないな」と彼は突き放すように言った。
「君の方に、何か人に言えないような制限があるように、僕の事情だってあるんだよ。さっきから平気そうなフリをしているけど、実のところ僕は尿意を感じているんだ。一刻も早くトイレに行きたい。おしっこが漏れそうなんだ。別に僕としては物陰に隠れて放尿するのが恥ずかしいとか、すごく悪い行いだとはまったく思わないよ。でも、こんな密室空間で見知らぬ男に漏らされたら最悪の気分になるってこと、わかってるんだ。人の行動を制限したかったら、まずその理由を話してくれないと納得できないんだけど……」
「うん。そうだね」
「同意を求めてる訳じゃない」
「駄目なものは駄目なの。おしっこが漏れそうなら、それは我慢して欲しい」
「わかった」と彼は言った。「中学生が組んだようなプログラムの方が、もっとまともな反応をするよ。なんというか、豚とかと変わらないな」
「体だけってこと? それはあなたも同じだと思うけれど、なんでそんな偉そうな態度が取れるの、おかしくない?」
「そうだね。それが正しいと思うよ」と彼は投げやりな態度で言った。その情けない態度に、早茉莉は激昂した。
「なに勝手に、俺が見限ったみたいな感じを出しているの。そんなことするのなら初めから黙ってればいいじゃん。そういう存在は不快なんだよ。頭の中で思い描いたイメージとかけ離れていたからって、それに対して怒りを見せるなんて幼稚すぎるよ。勝手にコントロールした気にならないでよ。あなたみたいな男は、どうせ女の精神なんて幼稚で取るに足らない物だと思ってるんでしょう。女の買うものや欲求はすべて男が創り出したものだって勘違い出来るんだね。確かにそうかもしれないけど、あなたはどうなの? 何かある、何も無くない? 暴力しかないんじゃないの? それか、権力を持つおっさんに従順になるか、それくらいでしょう。ダサい自分を大事に守ってビビってるだけじゃん。魅力が無いんだよ、精神にさ」
「ブヒ、ブヒ、ブヒヒ」と陸斗は豚の鳴き声の真似をし始めた。
そうして陸斗はインターネットで、ここのマンションの名前を検索した。また名前を忘れた。
「そうだ、コッファードマンションだった」と彼はいかにも思い出しかのように言った。しかし、こんな聞き慣れない名前であっただろうかと自分の記憶を疑いながら、早茉莉の退屈そうな視線を感じていた。
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