早茉莉

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第1話

 上昇していたエレベーターが鈍い音を立てて停止をした。やがて明かりが消えて真っ暗になる。その光景に陸斗は驚いたけれど、間の抜けたような変な声は出なかった。手前にいた派手な身なりの女の人は、何の反応も示さないでエレベーターのドアの近くに立っている。背中の見える涼しそうな洋服を着ていた。

 陸斗は非常停止ボタンを視界に入れた。エレベーターにそのようなボタンは存在しないのを理解するのに、数秒を費やした。現在の状況は眠くもないのにベッドに向かう深夜とよく似ていた。

 目線を動かして見つけようとしたのは、受話器の、絵の描いてあるボタンだった。濁った黄土色のような背景に白い受話器が、斜めを向いた形でおいてあり、余り見かけない道路標識のようであったと記憶している。そのボタンは緊急時に外部との連絡を取る為に備え付けてあった。実際にそのボタンを押した経験はなかったが、今はまさに押すべき時であった。しばらく待っていたが、エレベーターには復旧する気配はないのだ。

 エレベーター内にボタンが設置されていなければ、首を曲げて視線を動かさなかった。青い携帯を眺めるように画面一点に視線を集中させて、オンとオフを切り替える動作を、指先や音声信号で伝えることが可能ならば、こんな手間は無くて済むのだ。人間よりも、物や人の移動のために作られた機械の方が、故障した際に復旧の手段はないものかと気に掛けられる。それはコストパフォーマンスの問題だった。人間は二人居るけれど暗いままで死海のように生活音はしない。

 前方にいた女は呑気なものだった。ここのマンションに住んでいて、似たような経験を既にしているのだろうか。緊張感のない静けさが密室空間に起きている。携帯の明かりによって彼女の上半身だけは、ぼんやりと囚人のように見えた。

「すみません」と陸斗は言った。

 緊急時のボタンを押すために、知らない女の人を移動させる必要があった。その女はエレベーター内の、入口前の右端付近に立っていた。早茉莉という名前だった。

「はい」と言って応答した。彼女は小さな声で喋った。

 危害を加えてきそうな人が電車に乗り込んできたかのように、自然と足を動かして一目散に反対側へと向かっている。なるべく事を穏便に済ませるためなのか、頭を下げていた。陸斗は堂々と前の方に進んでから、四角い縁の周りが光っているボタンを押した。が、何の反応もなかった。長く押さないと機能しないのかと思って、しばらく指を付けたままボタンを押し続けていた。それでも結果は変わらずにエレベーター内で酸素が消費されたかのような気分になるだけだった。さすがに窒息死はしないだろうと考えている。そんな事件をニュース番組で拝見したことは今まで一度もない。たとえ光が見えなくとも、きっとドアの隙間辺りから空気は循環している筈だと思う。閉所恐怖症の人たちが身近になった気がした。

(おそらく、僕は怖がっている)と頭で考えることで彼は落ち着こうとした。意識的に考えることは多くの場合において、みっともないとか、情けないとか、そう言われやすいものが多かった。

「よくあるんですか」と陸斗は言った。

 それから言葉が足りなかったと思い、互いに共有している状況を、補足して言い直した。

「このエレベーターは止まることが、よくあるんですか?」と陸斗は言った。

 もしかしたら、閉じ込められている現在の状況に不満を感じて、行動を起こしてまで急いで外に出たいと思うのは、彼だけかもしれなかった。もしくは、ここのエレベーターは定期的に故障をしており、少し我慢をすれば勝手に復旧をするのかもしれなかった。部屋に訪れたときに大きさや整った設備にたいして、値段が安いと感じたのを覚えている。

 彼女がここのマンションに住んでいる場合、その落ち度はすでに了承済みであるという可能性が高かった。部外者がとつぜん現れて、「早く外に出たい」と言われたり、そのような態度を取られたりすると、克服したコンプレックスを何も知らない奴に指摘されるような、相手を軽視して扱ってしまう、良心の欠いた思いを与えてしまう恐れがあった。

「このエレベーターは止まることが、よくあるんですか?」と彼はもう一度きいてみた。

「えっ」

「そんなの私にきかれても……」と彼女は言葉を濁した。急に話しかけてくる相手を上手く断れないような反応をしている。露出度の高い服を着ているその姿は、ソーシャルメディアで見かけるコスプレイヤーによく似ていた。彼は素っ気ない返事が来るものかと期待していた。無視される覚悟で問いかけた。しかし実際には、きちんとコミュニケーションを取ってくれる。それは普段の生活のように非常時ではない時と比べると最高なものだった。ここで何を話そうが何の意味もなく外に出るためにはエレベーターが復旧するのを待つしかない、そんなことは判り切っている。が、陸斗は近くにいる知り合いではない女性が休暇をしている救世主に思えてきた。背負っていたリュックサックを地面に置いて、彼はゆっくりと腰を下ろした。早茉莉はまったく彼に影響を受けずに、まるで、彼なんて存在していないかのように突っ立っていた。

「ここのマンションの人ですか?」と陸斗はきいてみた。

 彼女に対する興味や好奇心よりも、固い床に座って楽な体勢を選んでいる自分が、肯定される口実が欲しかった。

「ええ、一応は、そうですね」と早茉莉は答えた。

「あなたは?」と彼女は天井を向いてきいてきた。陸斗は暗い場所に目が慣れていた。体はエレベーターのボタンの方を向いているが、顔を横にして彼女に事情を説明した。

「母親が一か月前にここのマンションに住み始めたんです。僕は今日を合わせると、ここに来るのは二回目になります。最初は引っ越したときの荷物整理とかで、手伝いに行って、今日は別の用事で来ました」

「なるほどね」と早茉莉は納得した様子で、つまらなかった無料のゲームやアプリケーションをアンインストールする時のように、草原を歩いた孤児のような目をしていた。

「ここの土地や、エレベーターや、マンションについての知識は全くといっていいほどないです」と陸斗は正直に告白した。

「お母さまと一緒に住んでいる人は居ないのかしら?」

 早茉莉は口を滑らしたかのように頬が赤くなって、語尾になるにつれて声が低かった。

(なんでそんなことを訊くんだろう?)と彼は疑問に思いながら別に隠す理由もないので、自分の知っている事実をそのまま話した。

「父親は、僕が高校生のころに不倫をしたらしく、そのまま別れたみたいです」

「もしかして、私、嫌なことをきいた?」と早茉莉は和やかに言った。

「いや、別に」

「なら良かった」

「誰に何を言われても気にしないから」

「タフだね」

「無力なんだよ」

 早茉莉の携帯にはピンク色のケーキの写真が映っていた。窓から差し込む暖かい太陽の光で、普段は見えない空気中の埃が浮かんで見えるのと同じように、彼女は乾燥しながら愛想笑いをしていた。体が細い糸に引かれて、四本の透明な足の存在が気になっていた。普段はその足を無意識に体を支えるための杖のように使って歩いていた。しかし立ちながら待っている時間が増えると、下半身に妙な違和感があった。余計なものが足の先から、伝ってきているという居心地の悪さがあった。顔のたるみや首の回りの肉づきよりも、自分の足が太くなる方が彼女は気になった。ミントの香りの香水でその気分を緩和させるのは、虫を跨ぐような自己満足に近かった。エレベーターの地面は汚いと思っているのか、早茉莉は重心を片方に寄せて突っ立っていた。こげ茶色のカバンを曲げた腕にかけている。その姿に陸斗は無関心だった。彼は目を閉じて、事態が進展するのを待っていた。それから彼女の挙動は明らかにおかしくなった。かかとで音を鳴らしたり、喉の裏に張りつくような喘ぎ声を出している。

 自分の耳がおかしくなったのだろうと思い、彼は冷静だった。しかし、他人の妙な行動の回数が重なるにつれて、おかしいのは女の方ではないのかと疑い始めた。死体を数えるように粗野になっていき、苛立ちが増していった。相手が自分に気を遣っていると感じると、余計にその思いは増した。

「非常時だから、目的があるのならさっさと話してほしい」と我慢が出来なくなって陸斗は話しかけた。彼女は仕方のないような態度を取って返事をした。

「わかった。それではあなたにお願いしたいのだけれど、あなたのお母さまに連絡してくれないかしら?」

「助けを呼ぶためにですか……それならマンションの管理者に直接連絡したほうがいい気がするけど」

「私が、ってこと?」と彼女は携帯を持たなかった方の手で、自分を指さした。陸斗は頷いて返答をした。

「それは無理」と彼女はすぐに言った。

「番号を教えてくれたら、僕が電話しますよ」

「そういう問題じゃない」

「エレベーターの管理会社とマンションの管理者は別なんですか?」

「そんなに早く質問してこないで!」

 早茉莉は大きい声を出した。室内で音の響いた感じはしなかったが、耳に付けたイヤホンから急に変な音色が流れるような、夢のなかで空中を歩いている、日焼け姿の少女が見下ろしてくる想像をしていた。彼は音感に関しては素人だった。街中のお店に入ったときに、永遠に流れる沢山の速いテンポの音楽は合成肉が踊っているとしか思えなかった。肩が動いて、足は段差のない目立たない色の動く歩道に運ばれた。自分以外の誰かが、インターネットにコメントを打ち込んでいた。体中に赤いハンコを押すようなやり取りと、釣り竿を持った男が、少し口を開いて白い息を吐いている。それから陸斗は、言われた通りに母親に電話をかけた。六回ほど通話音が鳴ってから電話はつながった。

「番号とか知らないから」と彼女は誰も居ない場所に呟くように言って、不満そうな顔をした。その後、膝を抱えてしゃがみ込んだ。

 簡単に拭えそうな罪悪感をおぼえながら、彼は携帯を耳に当てている。

「お母さん」と彼は言った。

「あら、どうしたの」と母親はいつもと変わらない静かな口調で言った。

「いま、マンションのエレベーターに居るんだけどさ」

「ええ」

「なかに入ったら、途中で止まってしまって。ここから出れないんだよね」

「大変ね」

「そう、大変なんだよ」

「ちょっと待っててね」

 そう言って母親はすぐに電話を切った。

「たぶん。管理者の人とかに連絡していると思う」

 陸斗は早茉莉に、ついさっき進展したばかりの出来事を報告した。

「理解の早い人だね」

「心配とか、あんまりしない人なんだよ」

「なにそれ?」と彼女は居酒屋にいるように、距離が近くなった感じできいてきた。それは不愉快だった。

「父親が不倫したときも、僕が指摘するまで異変に気がつかなかった位だから」

「他人に興味が無いんじゃない」

「そういうものかな」

「あなたもそんな感じがする」

 そう言われると陸斗は、近くにいる女に服を脱がされた気分になった。思わず腰のベルトをさわった。暗闇のなかで話をすると、自分は自分が思っている以上に安心して話しているのに気がついて、痒くもないのに首の回りを爪でかいた。

「他人に興味のない人が、結婚をして子供産んだりするとは思えないけど、独身のままでいる方が色々と楽だろうし」と陸斗は言った。

「あなたは学生なの?」

「大学生ではあるけど」

 陸斗は、なんでそんな質問をするのかという、理由をたずねそうになる、この場に相応しくない霧のような自分の欲求を抑えていた。

「えっ、二十歳?」と早茉莉は言った。

「違う。二十二歳」

「そっか。じゃあ、私の二個上か。なんだか頭が痛くなってきた」

 そう言われると、陸斗も息苦しさをおぼえた。今日は夕飯を食べるために昼食を軽めにしたが、さっきから食欲が湧かなかった。汗をかいている訳ではないのに綺麗に印字された数を見ると眩暈がした。

 これは避難訓練なのだと彼は思い込もうとした。そんなに熱心になる必要はない。とりあえず黙って言われた通り、体を動かしていれば問題にはならない。非常時であるのに目の前の光景は変化しないし、自分の足跡をつけた森林が燃えたり、大声で騒いでいる暑苦しい人の声がしないから、意識が内側へと向かってしまい、混乱しているだけだった。

 数分後に、携帯から着信の音が鳴るまでは、彼は含み笑いを見せていた。もちろん電話の相手は母親であったが、その様子は彼の思い描いたものとは違っている。

 期待とは大きく外れた現実が待っていた。自分のやっている、もしくはこれからやろうとすることはすべて、眠そうな顔で再生を妨害する一時停止に過ぎなかったのだ。

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