第34話
次の日、山頂の大岩の近くで、
「銀、お前はここを離れるほうがよかろう。
「……」
「お前はまだ、蒼子には勝てぬ。お前が死ねば鈴が悲しむ。成仏できなくなる」
銀を見送る幻海の手には、赤子が抱かれていた。
銀は山の尾根を走っていた。帰るところはない。そこは銀の知らない山だった。鬼の気配もなく、人もいない。完全に一人だった。鈴と出会うまでは、淋しいと感じたことはなかった。しかし、今は無性に淋しいと思った。懐かしい誰かの匂いを嗅ぎたくなった。ふと、足を止めると、今しがた思った、懐かしい匂いが銀の鼻をくすぐった。それは鈴の匂いではなかったが、それに似ている。
「誰だ?」
気配が近づくにつれ、それが誰だか分かった。
「よおっ。生きているようだな?」
「
「まあそう言うな。我が子よ」
姿を現したのは、
「けっ。気色悪い」
銀は、なぜ鬼世士郎がここへ現れたのかと訝し気に睨む。
「蒼子の子が生まれたのだろう。鈴はやはり死んだか?」
その言葉に、銀の目が怪しく光り、口の端には牙が見える。今にも鬼世士郎に襲いかからんばかりだ。
「まあ聞け。鈴のことは残念だった……。ひとつお前に伝えておかねばと思ってな。鈴はもしかしたら、わしの子かも知れぬ。お前との間に子が授からなかったのも、それが原因ではないか……。そう怖い顔をするでない。鈴の母の雪が死んでしまっていた。それも鈴を産んですぐだという。人が鬼の子を産むことが、そのような悲劇を生む」
その話しを、銀は黙って聞いていた。しかしギラついた眼と、怒らせた肩は、平常心でないことを表している。
「話はそれだけか?」
銀は、噛みつきたいのを抑えるように歯を食いしばり、それだけ言うと、鬼世士郎に背を向けた。
「行くのだな? あては……」
鬼世士郎は、あてはあるのか? と聞こうとしたのだろう。しかし、それは意味のない質問だと気付いてやめた。銀は鬼世士郎の告白に何を思っただろう?
きっと何も思ってはいないのだろう。鈴のいないこの世界で、彼は考えることも必要ではなかった。感情のかけらもいらない。
銀を見送る鬼世士郎の目に微かに光るものがあった。
「銀……」
姿が見えなくなっても、銀の気配が感じられなくなっても、鬼世士郎はずっと一つの方向を見つめていた。純血の鬼である鬼世士郎の顔には、初めて父親としての顔が現れていた。
―― 第一幕 鈴の篇 おわり ――
鬼夜叉 白兎 @hakuto-i
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