第31話 大きな成果とティーブレイク
放課後、少し遅れて結人宅にやってきた涼音は、リビングに入ってくるなり真っ先にペティと触れ合いに行っていた。
疲れた分の癒しを求めてか頬擦りしたりと普段より接触が激しい気もするものの、それにペティが気を悪くした様子はない。
なんなら幾分かペティの方からも涼音に触りに行っているので、互いに触れ合おうという意識があるのは見ていて大変微笑ましかった。
「今日はお疲れ様。色々噂されたり聞かれたりして大変そうだったね」
オーブンのアップルパイが焼き上がるのを待っている傍ら、結人はキッチンの端に寄りかかってリビングに声を掛ける。
お疲れ様、というのは今日一日の学校生活を通して気疲れしたであろう涼音に対する慰労だった。
朝の出来事があってから、『小鳥遊さんに兄がいるらしい』という話は少なくとも学年中にはあっという間に広まった。
一個人の兄妹の有無なんて大した話題でもないだろうに、それが驚きの早さで広まったのだから人気や知名度というものは恐ろしい。
幸いにも涼音の自然な対応のおかげで、周囲の人間が兄の存在そのものについて疑問を抱いている様子はなかった。
誰しも新たに明かされた事実に少し驚きを示すだけで、そのまま飲み込んでくれたようだった。
ただ、疑われなかったのはよかったが、真新しい情報が周囲の好奇心を搔き立ててしまったらしい。
放課後、涼音の席周辺には女子で構成された人だかりができていた。
聞き耳を立ててみたところ、どうやら彼女らは涼音の兄や兄妹間の雰囲気について知りたがっているようだった。
色々と聞かれている涼音を大変そうに思いながらも、表向き無関係な結人は何もできない。
それに、帰り支度を終えて尚も微動だにせず聞き耳を立てているのは傍から見れば不自然だろう。
そういった思考の末、自宅で涼音を労わることを免罪符に、結人は一足先に教室を後にしていた。
結人に声を掛けられ、ソファに座ってペティを撫でていた涼音は短めの深呼吸をしてから、だらっと脱力して肩を落とす。
「……正直、かなり疲れました。まさかアドリブで色々答えるのがあんなに大変なことだとは思いもしませんでしたね」
「ほんとよく頑張ったと思う。ちなみに放課後のやつって何聞かれてたの?」
「ほとんど兄についてですね。年齢と名前をはじめに、普段どんなことをしている人なのか、交際相手はいるのか、とそんな感じでした」
「質問のラインナップが無遠慮でしかねえ。集団心理と好奇心ってすごいな」
呆れて肩をすくめる結人に、涼音は困ったように眉を下げて同意を示した。
「ええ、本当に。まあほとんどは架空の兄のプライバシーと私の無知を理由に答えませんでしたけど」
「ほとんどは、ってことは……」
「はい。性格や人間性など個人情報と関係のないものは、私が客観的に見た結人くんをそのまま参考にしていくつか答えました」
「なるほど。んまあ、それはそれでリアリティがあってよかったんじゃないかな」
「そうですね。おかげで皆さん私の答えに満足しているようでした。……あ、一応参考にさせていただいたので、なんて答えたか結人くんも知っておきます?」
「いや、いいよ。大丈夫」
涼音のことだから、悪いことは言ってないだろうし言わないだろう。
むしろ架空の兄を貫通して褒められたりむず痒くなるようなことを言われて恥ずかしさで悶える未来が結人には容易に視えた。
「本当にいいのですか?」
「うん。涼音さんのことだから架空の兄の面子も守ってくれてるだろうし、わざわざ聞く必要ないかなって」
珍しく食い下がる涼音に再び遠慮して返せば、涼音は「……わかりました」となぜか伏し目がちにしょんぼりとした空気を纏う。
(……何か言いたいことでもあったのかな)
気掛かりから言及しようとしたがそれも束の間、涼音は何か新しい話題を見つけたのか、「あっ」と何か思い出したような素振りと表情で顔を上げた。
「そういえば今回の一件で私とオフの結人くんが一緒に外出しても、兄妹ってことで済むようになりましたね」
「……言われてみれば確かに。結構大きな成果だよなあ、それ」
今回の件で涼音が直々に兄だと明言してくれたおかげで、今後同じ学校の生徒に一緒にいるところを見られても勝手に兄だと思ってもらえるだろう。涼音の苦労も減るだろうし、良い成果を得られたのではなかろうか。
結人としても、今は涼音の買い物に同行して荷物を持ったりしているだけなので、兄妹という見え方に落ち着いて色々と都合が良かった。
では何がこの成果をもたらしたのかと言えば、それは涼音の対応力だろう。
今朝の涼音の話術や機転を思い返して感心しきりの結人に、当の本人である涼音はふんわりと微笑む。
「結人くんのおかげです。私は以前に結人くんが兄を偽ったのを思い出して流用しただけですから」
「それでも朝のはすごかったと思うな。彼氏を否定しつつも心当たりはあるって言い回し、『じゃあ彼は何者なの?』ってなるだろうし。全体的に涼音さんの話の持って行き方が上手かったんだと思う」
「ありがとうございます。今朝のやり取りに関しては彼女が上手く誘導に引っかかってくれて助かりました。おかげでクラス全体に兄の存在を知らしめることができましたし」
「……まさか、全て作戦通りだった?」
「まあ、そうですね。放課後は大変でしたけど」
自分の作戦で疲れる羽目になったからか、涼音は自虐気味に苦笑いを溢す。
それに対して結人が笑って流すか真面目に労わるかで迷っていると、焼き終わりを告げる電子音がオーブンから聞こえてきた。
「ごめん、ちょっとオーブン見てくる」
二択の難問を放棄してキッチンの端に寄りかかるのをやめた結人は反対端のオーブンに足を向ける。
タイマーの表示がゼロになったオーブンの中を屈んでガラス越しに覗き込めば、スティック状の生地が程よく小麦色に染まっているのが見えた。
想定通りの出来栄えに頷いて、結人はワークトップに予め用意しておいたオーブンミトンを手繰り寄せて両手に着ける。
オーブン上部の取っ手を掴んで手前に倒すと、それまで狭い空間に閉じ込められていたものが一気に溢れ出てきた。
焼き菓子はこの瞬間が堪らない。
解き放たれた熱に、程よく焼き上がった生地の香ばしさとそれに包まれたとろけるような林檎の甘み。
出来立ての風味をこれでもかというくらいに全身で感じるこの瞬間は、結人がお菓子作りで楽しみにしている瞬間の一つだった。
「……アップルパイですか?」
オーブンから天板を取り出してIHコンロの上に並べていると、いつの間にか隣に来ていた涼音が興味深そうに天板を見ながら聞いてくる。
「そう、ペーパーで巻いて食べるスティックタイプのね。もうすぐ用意できるから涼音さんは席に座って待ってて。あと飲み物は紅茶になるけど大丈夫?」
「大丈夫です」
「ミルクティーでいい?」
「はい。お願いします」
「オーケー」
涼音はミルクティーだろうな、と予想して結人は既に茶葉を多めに使ったポットでアールグレイを作っていた。
それを普段使っているカップ二つに、濃さが均等になるよう交互に注いでいく。
結人が自分のカップに牛乳だけを、涼音のカップには牛乳と砂糖を入れてメニューは完成を迎えた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
涼音は小皿とカップを受け取って早速アップルパイを口に運ぶ。
小さく開いた口がアップルパイを食むと、サクッと小気味良い音が聞こえた。
咀嚼する口元は程なくして緩み、口角が上がる。
「美味しいです」
「どうも。涼音さんってほんとに美味しそうに食べるよね」
「実際美味しいですから。それに結人くんの料理がそうさせているのですよ?」
表情を緩ませながら嬉しい賛辞を送ってくれた涼音は、次にミルクティーを一口飲んでほっと息をついた。
「温かくて落ち着きます……」
涼音は身体をだらっと弛緩させながら、独り言のように目を閉じてしみじみ呟く。
【疲れた時には甘いもの】という言葉を時に見聞きするが、いくらか気が和らいだ様子を見るにその効果は確からしかった。
「とりあえず一息つけてるようで良かったよ」
涼音を労わるという目的を果たせた満足感から笑いかけると、涼音は「おかげさまで」という一言に小さく微笑みを添えた。
始まったばかりの高校生活が密かに充実し過ぎている petrichor @Shima_pety
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