ゲーム・オブ・ヒグマ

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ゲーム・オブ・ヒグマ

 初夏の日、私立高校国語教師のタツルが校庭を横切っていると、濃緑の葉が茂るケヤキの大木の下に4人の生徒がいた。彼らのリーダー役、保科が声高に話した。まるで、タツルに聞こえるように。

「この間、コリン・ウィルソンの現代殺人百科を読んだんだ。ウィリアム・マクドナルドというオーストラリアのホモの殺人鬼は、犠牲者のペニスを切り取っていた!」

 ドッと笑う。こちらを凝視する、その冷たい視線。16歳の高校2年生、保科、山本、和泉の男3人と小池という女。いずれも学内でも成績優秀、運動能力も優れ、家庭も裕福だ。35歳で独身のタツルは、ゲイであることをカミングアウトしていないが、彼らの嗅覚は鋭い。先生が公園で同年代の男性と仲良く歩いていた。男の友人同士で普通にあることだ。だが、確かに彼らが目撃したとき、その相手とタツルは交際していた。親密な同性間に醸される微妙な空気は、隠しようがない。彼らのホモフォビアの対象にタツルがなった。種の保存に役立たない、無価値の存在というわけだ。

 陰惨な事件が起きたのは、間もなくだ。タツルは朝、母の悲鳴で、目が覚めた。2階のタツルは階段を駆け下りて、庭にいる母に走り寄った。母は震えていた。枝葉を広げるハナミズキに、茶色っぽい小さな動物がロープにぶら下がっていた。子犬だ!首にロープが巻かれ、腹が引き裂かれている。血が滴り、地面に内蔵の一部が落ちていた。よく見ると、それは周辺の肉とともにえぐり取られたオスの性器だった。


 北海道の夏は爽やかだ。蒼天に、そびえるような柱状節理の絶壁が、タツルを迎えてくれた。旭川に近い層雲峡温泉だ。安い温泉旅館で、明日からの大雪縦走に備え、さっそく特有の匂いがある単純硫黄泉に浸かり、宿の浴衣を着て、すっかりくつろいだ。趣味のトレッキングに来て、しみじみ良かったと思った。あの保科たちの冷ややかな視線からも解放される。

 テレビの天気予報に耳を傾けた。数日間、夏の高気圧に覆われて、良好だ。次のニュースで心臓がでんぐり返った。タツルの住んでいる町の繁華街にある、ちょっとは名の知れたゲイバーのマスターが殺された!タツルも2、3度顔を出したことがある。小太りで口髭を立て笑顔の絶えない愛嬌のある人だった。ニュースでは年齢は47歳。マスターは店内のカウンターの中に倒れ、鋭いキリのような刃物で心臓を刺されていた。金属製のアイスペールの溶けかかった氷の中に、切り取られた被害者の肉体の一部が残されていた。被害者の口には、サインペンで走り書きされたメモ用紙がねじ込まれていた。

「腐ったブタは死ね!」

 翌朝、空は澄み切っていた。タツルは登り始めた。針葉樹林のエゾマツ、アカエゾマツ、トドマツの原始林が鬱蒼と広がる。とりわけ、枝を傘のように伸ばした円錐形のアカエゾマツが濃い緑の針で天を衝く。大雪山は北海道の屋根だ。国立公園に指定され、中央にお鉢平という広大な旧火口がある。それを取り巻いて峰々が雄大な山容を連ねる。最高峰は標高2290メートルの旭岳。中腹から水蒸気が噴き出す。アイヌの人たちは、大雪山を神々の遊ぶ庭、カムイミンタラと崇めた。

 森林限界を経ると、北の山の厳しい風雪に歯を食いしばって耐えるハイマツの群が目に入る。高山帯の地面を這うような樹木だ。枝が土に着いた所から新しい根を伸ばし、幹が枯れても、その先の枝は生き残り、逞しい。

 第1日目は、ブヨ沢というサイトで泊まり、第2日目は、広大な沼ノ原に野営した。ここは湿原に池塘が無数に点在している。タツルは、ソロトレッキング用の青いテントを張り、満天の星の下でLEDランタンの灯りで夜食を取った。150ミリリットル入りのステンレス製スキットルで、好きなラフィロイグ10年を口に含む。うまい!テントのシュラフに潜り込み、いつの間にか寝入った。

 朝の湿原を覆う霧は幻想的だ。午前4時15分、夜は明け、大雪の大気はヒンヤリと清々しかった。タツルはテントをたたみ、行動を開始した。急斜面を登って、落葉広葉樹林のダケカンバの樹間を抜け、目の前に開けた五色ガ原は、白と緑の2色で彩られている。ハクサンイチゲの大群落だ。果てなく続く、この花はキンポウゲ科で、高さ20センチほどの多年草。五つの花弁の可憐な花だ。

 途中であいさつを交わした年配の夫婦が、今年は、この周辺でヒグマが出没するので注意したほうがいいよ、と親切に教えてくれた。夫婦が歩いて来たルートの標識にも、ヒグマのサインポストがあったそうだ。標識の木製ポールにヒグマが身体を擦りつけると、何本もの体毛が引っかかる。ヒグマが自分のテリトリーを誇示している。逆にいうと、そのサインポストを目にすることは、人間がヒグマのテリトリーに侵入していることになる。

 タツルは5年前の夏を思い出した。やはり、このルートをトレッキングしたとき、母親とはぐれた幼いヒグマに、突然、出会った。もう目の前、数メートル先だ。そのコグマは、登山道の真ん中で、タツルをジッと見ている。タツルも、遭遇した際の対応策で、ビクッとも動かず、その眼を見詰めた。ヒグマの双眸をのぞき込んだのは、初めてだ。瞳の奥に好奇心というか、外界に興味を示す生命の炎を、タツルは感じた。同時に、畏敬の念を抱いた。彼らがこの地の主なのだ。タツルの脳天から足元に電気が走った気分だ。その間、何秒だろう。ヒグマは登山道わきのササ原に姿を消した。

 第3日目、最後の野営地に着いた。タツルはテントを手早く張り、夕食を取って満天の星空の下、最後の夜を楽しんだ。残り少ないスキットルのラフィロイグを口に含み、ほろ酔い加減でシェラフにくるまってグッスリと寝込んだ。目覚めは早かった。タツルは、名前を呼ばれて、寝ぼけて返事した。外に人がいる。こんな場所で、この時間にだれが?テントの入り口のジッパーを下げ、顔を出した。外は薄明だ。強烈なライトが目を直撃した。

「ライト、消して!」

 タツルは叫んだ。パッと消えた。すぐには周囲がわからなかった。次第に、夜明けの微光の中で、4人の人影が像を結んだ。男子生徒の保科、山本、和泉、それに女子生徒の小池だ!

「きみたち…」

「先生、びっくりしたでしょ」

 ライトを手にした保科が冷たい表情で、タツルを凝視した。4人は、それぞれ色違いのコットンの長袖とTシャツをレイヤードして軽装のクライミングパンツ姿だ。あまりの驚きで、タツルは声が続かない。

「大自然の夜明けは、カイカ~ン。空気、気持ちいい~」

 小池だ。その場の雰囲気に似つかわしくないほど、朗らかだ。保科と小池は、ロッククライミングに抜きん出ていると評判のペアだ。

「先生のトレッキング、日程とルートを学校に提出したでしょう。それを見て、ぼくらも一緒に、楽しみたくてさ」

 バスケット部に所属し、1メートル90を超える長身の和泉が手にしたA4の紙を、タツルにかざした。確かに、それは大雪縦走の入山届と同じように学校に出したものだ。

「きみたちが、なぜ、それを持っている?」

「教頭に、先生のことを訊いたら、コピーしてくれたよ!」

 ボクシング部の精悍な山本だ。

「教頭?」

「そうだよ」

 山本が平然と答えた。

「教師の個人スケジュールを教頭先生が生徒に教えるわけはない」

「ハハハ、ウソ、ウソ。なあ、保科」

 山本は保科に顔を向けた。

「先生、ぼくら学校のコンピューターシステムにハッキングしてるんです。先生は、メールでスケジュールを送信したでしょ。それを閲覧させてもらった。簡単です。学校のシステムのセキュリティは、この時代、小学生でも破れますよ」

「それは犯罪だろう?」

「バレたらね」

 保科は笑みを浮かべる。

「先生、身支度してください。ちょっと、付き合ってほしい。お願いします」

「お願いします。先生!」

 保科に続いて、3人が笑いながら頭を下げた。タツルは黙ってテントに引っ込んだ。頭の中は混乱していた。彼らの目的はなんだ?生命の危険はあるのか?あまりに予想外で、不気味で、どう対応していいか、わからない。昨夜確認したが、ここはスマホが通じない。

 ハンドルに刃を折りたたむ携帯用のフォールディングナイフは持って行こう。なんに必要だ?わからない。ブレードは7センチと短いが、いざというときには…殺傷沙汰が一瞬、頭を過った。まさか!タツルはナイフをトレッキングパンツの内側に作った手製のポケットに忍ばせた。

「先生、早くしろよ!」

 山本の苛立った声だ。

「いま、出る」

 タツルはゆっくりと外に踏み出すと、早朝の草露で靴が濡れた。周囲は濃い霧だ。寒々としている。

「少し歩く」

 保科が先頭で歩き出した。

 タツルは保科と和泉に挟まれ、小池、山本と続いた。タツルの前後の2人の背が高く、壁に挟まれているようだ。登山道を外れた。かなり急な下りの斜面に、すでに赤いザイルが用意してあった。この命綱を伝い、タツルは保科に従った。白骨化したハイマツの穴で足がとられ、たびたび立ち止まって体勢を整えねばならなかった。その都度、前後の2人は、タツルに視線を向けて薄笑いを浮かべた。

「こんなルートを外れた所を行くと、ヒグマに襲われるぞ。クマ除けの鈴も付けてないじゃないか」

 タツルは教師としてのプライドで強がった。

「鈴?あれは臆病者のアクセサリーです」

 保科は軽くいなした。

「ヒグマなん、ひと捻りだ」

 山本が後ろで声を上げた。

「きみたちは、ヒグマの恐ろしさを知らない」

「先生は知っている?」

 下る保科がタツルを見上げた。

「森の中でも時速40キロで走るそうだ。逃げても追いつかれる」

「座学でしょ」

「それで充分だろう。理性的な人間は、事前に、リスクを避ける知恵を持っている」

「先生は偉い!ハハハ」

 保科は、再び歩を速めた。

 約1時間、朝霧はすっかり晴れた。彼らの目的地のそこには、緑葉のミヤマハンノキの樹林を遠目に、黄色のテントが二つあった。

「着きました」

 保科が足を緩めた。

「腹、減ったあ」

 しんがりの山本がタツルたちを追い越し、野営地に走り込んだ。眼鏡を通して目を凝らすと、遠くの尾根伝いに、ゴマ粒のような登山者の姿が一人、見える。

「先生、これに掛けてよ」

 保科が小さな赤いトレッキングチェアを、タツルの前に開いた。

「疲れたでしょ。コーヒー、入れます」

 それまでと一転して、とても丁寧だ。目は冷めている。小池がシングルバーナーのガスストーブに平たいケトルを載せ、火力を強めた。静かな草原に、バーナーのゴーッという音が風を切って、やけに響く。

「インスタントだけど、プレミアムだから、美味しいよ。朝はやっぱ、この一杯ね」

 小池が、熱い湯をホーローのマグカップに注いだ。タツルは、その所作を黙って見ていた。ポニーテールの似合う、ロッククライミングで汗を流し溌剌とした女子生徒が、なぜ、4人でつるんでいるのか不思議でならない。たぶん、保科を愛しているからだろう。マグカップを手にしたまま、タツルは沈黙した。彼らはレトルトパウチの材料を手早く湯せんし、金属製の器でカレーライスを食べ始めた。タツルにも勧めた。いらないと首を振った。

「これから体力、使うよ。先生の勝手だけど」

 小池が冷やかに呟いた。早朝の大気を深呼吸した。自分を落ち着けたい。いま、起きている現実を、まだ直視できない。これは、いったいなんだ?

「これを見ろ」

 保科が沈黙を破った。手にアイパッドがある。軽くタッチした。画面から声が流れる。

「いらっしゃい」

 カウンターに、あの殺されたマスターがいる。

「ごめんなさい。もう閉店です。あらあ、学生さんね。未成年でしょう?」

 マスターは笑って応対している。画面は、顔をクローズアップする。明らかに、恐怖を感じ始めている。目が怯えている。

「人を脅かしてもダメよ。ここにお金なんか、ないよ」

 マスターの声しか録音されていない。撮影者は一言も発しない。

 画面が揺らいだ。マスターは両目を見開き、口から泡を吹いている。胸にアイスピックが突き刺さっている。壁に背を押しつけ、しばらく立っていたが、足元から崩れた。アイスピックが抜かれる。筋肉が傷口をふさぎ、血は噴き出さない。開いた口に、白いメモ用紙が捻じ込まれる。

 和泉が、A4大の透明なジッパーストックバッグをタツルにかざした。朝日に煌いて中に赤い血が、微かに付いたアイスピックが入っていた。タツルは、飲まないままマグカップを手にしていた。さすがに、それは手から滑り落ちた。言葉は出ない。

「びっくりした?」

 小池が、タツルの目をのぞき込む。

「この店、先生も客だろう?」

 保科が嘲る。

「このマスターと先生、いい仲?」

 山本が目で笑う。

「全然、抵抗しなかった。ホント、あっけなかった」

 和泉がストックバッグをタツルの顔に触れんばかりに、ブラブラと揺らした。

「もう一つ」

 山本が、右手を上げて透明なバッグを太陽にかざした。料理用ハサミだ。刃に血が残っている。

「これで、あそこをちょん切った。小っちゃい」

「子犬のみたいよね」

 小池が相槌を打った。あの庭の陰惨な事件だ。タツルはただ、4人を睨みつけた。せいぜい、それで精いっぱいだ。相手の非道、冷血を罵る言葉を胸にためたが、さすがに高校生のこの連中が、こんな殺人を平気で犯している信じがたい事態に、ここに至っても半信半疑で正気を保とうとしていた。

「ぼくたち、こういうヤツらは嫌いだ。唾棄すべき連中だ。先生も同類!」

「そうだ!」

 保科に3人が声を合わせた。

「浄化すべきだ!」

 和泉だ。

「人間じゃない!」

 山本だ。

「先生のペニスも小っちゃい?」

 小池がプッと噴き出した。タツルはやっと、息を整えた。これは、教師として諫めなければならない。

「先生、もうなにも言わないで。だいたい、言いたいことわっかている。そうだろう、みんな?」

 保科が、仲間に同意を求めた。

「もちろん!」

「民族浄化のジェノサイドは、世界中で起きている。それからみたら、ぼくたちのお掃除は、ささやかだ。ホントにささやかな、社会貢献だ。そうだろう、みんな?」

「そうだ!」

「まともな人間なら、先生たちの行為はおかしい、と思っている。でも、口に出すと、とやかくクレームをつけられるので口を閉じているだけだ。サイレント・マジョリティーは先生たちを理解なんかしていない。ぼくたちが、その気持ちを代行しているわけさ。そうだろう、みんな?」

「その通りだ!」

「違う!」

 タツルはやっと、口を開いた。

「黙れ!」

 保科が一喝した。

「先生の意見は聞いていない!」

「きみたちは人間の尊厳を汚している」

「はあ?」

 保科はギョロッとタツルを睨んだ。

「尊厳?それは、人間に使う言葉だ。先生たちは、それに値しない。だから浄化されて当然だ。そうだろう、みんな?」

「当然だ!」

「先生、ウサギ狩りのゲームだ。生き残るチャンスだ」

 タツルは、なんのことかわからない。

「先生はウサギ、ぼくら勢子せこに追われて狩られる」

 どういうことだ?

 山本が、茶色のキャンバス生地のバッグから、革ケースに入ったサバイバルナイフを取り出した。ケースから抜き出し、タツルの目の前で空をシュッと切った。ニヤニヤした。重量感のあるナイフは、刃渡りが20センチはある。ハイステンレス鋼のブレードは強靭そのものだ。切っ先は鋭いドロップポイントだ。ナイフを振り下ろされただけで、たぶん、タツルの細い骨は砕ける。和泉が、テントから緑味を帯びた黒いクロスボウを3丁持ち出した。

「これ、コンパウンドクロスボウって、もっとも威力がある代物だ。スコープ付きだから的中力抜群。初速は秒速118メートル。鉄のやじりが付いた20インチのカーボン矢で、たいがいは一発で仕留める」

 タツルを見て、ニヤリとした。全長は90センチ、幅50センチはあるだろう。殺傷能力は、タツルには想像ができない。小池は革ケースからサバイバルナイフを抜いて、親指で、あのランボーも使っていたギザギザした刃先の感触を試している。背の高い和泉が、頭にウェアラブルカメラを装着した。

「保科、記録の準備、OKだ!」

「先生、20秒待ちます。その間に、逃げ切れれば、生き残るチャンスだ。この斜面をずっと駆け上がると、尾根伝いの登山道に出ることも可能だ。それまでに、このスコープで狙ったクロスボウで射殺される確率は、たぶん99%だ。あっちのミヤマハンノキの樹林に向かったら、少しは時間を稼げる。選択肢はどちらかだろう」

「本気か?」

 タツルの声は上ずっている。

「もちろん!」

 4人が一斉に叫んだ。自分の身を守る武器は、トレッキングパンツに隠した刃渡り7センチの折りたたみナイフだけだ。スコープ付きクロスボウやサバイバルナイフの敵ではない。あとは、覚束ない逃げ足しかない。

「逃げ切れないと、殺されるわけだ」

「当然!」

 また、4人は声を合わせる。

「最後に一言、いいか」

「どうぞ、先生、おっしゃりたいことがありますなら」

 保科が丁寧にお辞儀した。

「おまえたちみたいなクソガキは、地獄に落ちろ!」

 タツルは自分でも驚くほど大胆に、保科の足元に唾を吐いた。保科が気色ばんだ。端正な顔が、みるみるうちに、赤くなった。怒りが沸騰している。

「カマ野郎、社会から抹殺されて当たり前だ!」

 山本の視線が右の腕時計に落ちた。

「ゲームの開始だ!」

 タツルは一目散にミヤマハンノキの樹林を目指して走った。20秒だ。生き残れるのか。考えていられない。

 心臓が破裂しそうだ。まだ、4、50メートルも離れていないだろう。後ろを見る余裕はない。あのスコープで狙われたら、ひとたまりもない。20秒は一瞬だ。タツルの左耳たぶすれすれに空気を裂いて矢が飛んだ。それは標的を見失い、ササ原に消えた。

「チクショウ!」

 だれかわからないが、叫んでいる。ビュン!今度は、右の二の腕をかすめた。ミヤマハンノキの樹林に、タツルは飛び込んだ。その瞬間、左の足元数センチ後ろに、矢がブスッと鈍い音を発して地面に突き刺さった。背丈ほどもあるササ原と樹林の陰に身を隠した。ササの薄い鋭い葉は、カミソリだ。腰をかがめて進むタツルの両手の甲、両耳、両頬、首筋に血がにじんだ。痛みより殺される恐怖だ。

 ほとんど平坦な地点だった。これが登りなら、日ごろ鍛錬もしていないタツルはとっくに力尽き、彼らの餌食になっていただろう。心臓は高鳴り、汗が全身から噴き出した。タツルの背後からササ原をかき分ける音がした。彼らは迫っている。額の汗が滴り、目に入る。タツルは、その汗を血が幾筋もにじんだ右手で拭い、ササ原の間を突き進んだ。うっそうとしたササだ。ごく近くを人や動物が通り過ぎても互いに気づかないほど密生している。それだけが、タツルのいま、生き残る手立てだ。

 ビュン!身体が前につんのめった。同時に右の肩甲骨に激痛が走った。思わず、その痛みに左手を伸ばした。矢が刺さった!

「当たり!」

 あれは、和泉の声だ。目いっぱい、はしゃいでいる。振り返る余裕はない。タツルは痛みをこらえ、必死に前進した。生暖かい血が右肩から背中に沿って流れ落ちた。ビュン!赤い矢羽が、右こめかみの辺りをかすめた。

「チクショウ!」

 また、和泉だ。この密生したササで、的確にタツルの動体をとらえている。もう、逃げ切れない!ササをひとかき、ふたかきした。直径2メートルはあるアカエゾマツの倒木が目の前に現れた。二つに朽ちて折れた間から、その陰に回った。ビュン、ビュン!矢が2本、立て続けに倒木の上方に突き刺さった。この木がなければ、タツルの胴体は、この矢で射られ、絶命だ。

 絶望感に襲われた。右腕がしびれた。喉はカラカラだ。このまま、ここで仕留められても仕方がない。これ以上、進めない。違う。まだ、助かる方法はあるはずだ。タツルは頭を振って、ノロノロとササをかき分けた。数メートル進み、ジッと身を固くした。追跡の音だ。タツルは息を潜めた。

 明らかに彼らの一人が、タツルの数十センチ鼻先を横切った。ササの茎の間から、オレンジ色のショートスパッツが見えた。アリが顎から口に這い上がった。タツルは腹ばいで動けない。

「先生、手間取らせたね。これでウサギ狩りは、ゲームオーバーだ」

 突然、保科の勝ち誇った声が降ってきた。

「録画はOK!」

 ウェアラブルのカメラを頭に装着した和泉の声だ。弾んでいる。

「先生、ほら、顔を上げて。死ぬ前の目が、映像には大切だ。お仲間の、あの目を思い出して」

 タツルは地面で、両目を閉じ、頑なに身を縮めた。絶体絶命だ。そのとき、一瞬の空気の変化。タツルを見下ろしていた保科たちはたぶん、思わず振り返ったに違いない。重い唸り声だ。タツルも薄目を開けた。山本が、そっとササを両手で押し開いた。

 ヒグマだ!それは四つん這いになって頭を低くし、左右に揺り動かしたかと思うと、突然、立ち上がった。強烈な朝日が背後から、ヒグマの全身を照射した。太陽のフレア爆発のように、体毛が金毛に輝いた。高さは2メートルを超えた。体重200キロは、あるに違いない。体力が充実した夏のヒグマは、小さな双眸が燃えていた。

 4人は一歩、後退りした。その間、数秒だ。ゆっくりと手元でクロスボウを構えた山本が、矢を放った。それは、ヒグマの首の辺りをかすめた。

「チクショウ!」

 山本の小さな叫びと、ヒグマの驀進は同時だ。ヒグマは、手近にいた他の者には目もくれず、山本に突進した。山本は、サバイバルナイフを抜いた。だが、それは巨体のヒグマの前で、無駄な抵抗だ。左の前肢が山本の首を払った。バキッ。首の骨が確かに折れた。ヒグマは山本の顔に噛みつき、血しぶきが飛んだ。タツルの顔に生暖かい血が降りかかった。バキバキと頭蓋骨が噛み砕かれ、抉られる音が響いた。

「このヤロウ!」

 保科だ、無謀にもサバイバルナイフを手に、ヒグマの背後から突進した。しかし、ヒグマの敵ではない。ヒグマは、保科の左腿を右前肢で引っかき、血が噴き出した。ササの緑の葉が、赤い鮮血に染まった。和泉がクロスボウで狙った。ビュン!矢は、左首下に命中した。小池もクロスボウで矢を放った。ドビュッ!鈍い音だ。赤羽の矢はヒグマの右目の上に突き刺ささった。ヒグマは怯んだ。と、小池はササを押し倒して、逃げた。ヒグマは、右目の辺りを右前肢で撫でまわしていたが、それも数秒だ。立ちすくむ和泉に襲いかかった。

 和泉の口から血反吐が飛び散った。同時に,ボキッと背骨が折れた。青いコットンの長袖とTシャツの重ね着した長身の身体が腹の辺りでくの字だ。まだ、意識があった保科は腹を裂かれ、小腸、大腸が引き出された。鮮血のヘモグロビンに含まれる鉄分の臭い、夏草のむせ返る臭い、裂かれた腸から彼らが食べたカレーの香辛料の腐臭も微かに漂う。

 タツルは、頭を抱え、地面で丸まっていた。吐き気がした。次は、タツルの番だ。ヒグマの湿った強烈な体臭が鼻をついた。もう、逃げられない。顔を覆った両手の甲をザラザラした舌が舐めました。タツルは、あまりの恐怖と矢の出血で気を失った。


「ゲーム、終了!」

 青と白の鮮やかなバイカラーのヘリコプターから降り立った50がらみの男が言い放った。ヘリコプターの機体には、「ONE MORE GAME」と大きな黒いアルファベットが描かれている。男の横で、若い女がアイパッドを見ながら、男に報告した。

「視聴者2500万人。いいね、97%」

「ほお~そんな数字か」

 登山道の傍らに、タツルと、あの巨体のヒグマが横たわっていた。ヒグマは、すでに息絶えていた。あの凄惨な現場から、ここまで数百メートルはあるササ原の登りだ。ヒグマの口に、タツルの赤いギンガムチェックの左襟が千切れて残っていた。

「企画書には、ヒグマの登場はありませんでした」

「ウサギ狩りなんて月並みな企画だと思っていたが、ヒグマの登場で想定外の盛り上がりだ。先生が殺されるはずだったのに、ガキどもがやられるとはな」

「確かに」

「逃げた小池を、このヒグマがしつこく、追いかけたのは…われわれが、あの少女を助けたほうが良かったのか、いまも迷う」

「いいえ。彼らは敗者です。介入は必要ありません。彼女の陰部が抉られる瞬間は、視聴率アップに貢献しました」

「このヒグマが、この男を登山道まで引っ張り上げて息絶えるとは、オレもつい、涙ぐんだよ。やっぱり、動物は人間より、視聴率を稼ぐ、お手本だ」

「ドローン、すべて回収しました!」

「4人の遺体は、すべて収容しました!」

 スタッフが次々と報告した。

「この先生は、どうしますか?」

 女が、男の判断を待った。

「まっ、キャラクター性には乏しい男だが、何はともあれ、この番組で生き残った勝利者だ。視聴者から、次のゲームに参加を求める声が殺到するだろう。死なせるわけにはいかない。救急ヘリチームに引き渡せ」

「了解です!」                   了             

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