山登りにスーツケースは必要か?
渡貫とゐち
備えあれば。
舗装されていない砂利道から、足音ではないガラガラ音が響いてくる。
小さな岩に腰かけ、一休みを入れていた俺の後続を歩いていたのは、三十代に見える男だった。彼は俺と同じく、背中にリュックサック、お腹にはウエストポーチ……首には、手の平サイズのポーチを吊るして、なぜか両手で、それぞれスーツケースを握り締めている。
スーツケースの車輪が、ガラガラと砂利を弾きながら転がっていたのだ。
彼は腰を下ろしていた俺に気づいて、軽く会釈をしてくれた……、荷物の多さに呆然としてしまったが、挨拶されたのだから返さなければならない――軽く頭を下げる。
…………、いやいや、ちょっと待て!
「あの!」
思わず声をかけてしまった。
別に、登山をするのに決まった形があるわけではないが……(推奨される格好はあるだろう……、それは先駆者が『こうした方が良い』と実体験を踏まえて言っているだけであり、義務ではない……。死者が多数出ている過酷な環境の山ならともかく)、
だとしても、緩やかな坂道が続くこの山でも、スーツケースを二つも持ちながらする登山が、少なくとも正解でないことは確かだ。
修行? 鍛錬なら、分からなくもないけど……、
しかし、疲労困憊の顔で、ガリガリ体型の男性がすることではない気がする……。
汚れと傷が目立つスーツは、年季が入っているし……彼の顔もやつれて、角度を変えて見れば病人にも見える。
自分から望んでやっていることだとは思えなかった。
「……はい?」
振り向く男性……。呼ばれてから反応するまでに、少しの間があったな……疲れのせいだろう。スーツケースを二つも持って登るからだ。ここ、結構な高さだぞ?
「……スーツケース、いりますか?」
二つも、と聞こうとしたが、一つだったとしてもいらないだろ、と思って、質問を軌道修正した。登山をするならリュックサックに収まる荷物に抑えるべきだろう……、
考えの押し付けではなく、重くもなく、軽くもなく、なにかあった時に道具で対処できて、重過ぎないから動きやすくもある格好が、最も登山に向いているのではないか――。
素人の俺でもそう思うのだから、周りが同じ方向を向いている以上、大外れでもないはずだ。
前例に倣う、集団の心理があるとは言え、やりづらければ自然と変わっていくものだ……それがないってことは、浸透したスタイルだということだ。
スーツケースを引いて登山をする発想は、まずない。
「まあ……備えあれば憂いなし、ですからね」
気持ちは、分からないでもない。
もしかしたらなにかが起こるかもしれない!? と思えば、対処できる道具を持っておけばいい……。実際に問題が起きなくとも、起きた時に対処できると思っておけば、心配事が一つ減るのだ……、ストレスがなくなれば動きやすくなるのは事実。
心労も荷物の一つである。
ただ、心労を減らすために荷物を増やしていたら意味がない気もするが……、
増やした道具の方が二つも三つも多くなれば、結果、荷物は増えていることになる。
心労が物として計算されない以上は、荷物は増えていくばかりで、減ることはなく、いずれカバンがパンクしてしまうのは目に見えて分かることでもある。
それでもカバンに詰め込んで――スーツケースにまで手が伸びてしまった。
彼からすれば、これでも減らした方なのかもしれない……。
ギリギリのところで妥協したからこその、『二つ』のスーツケース……。
「それは、そうですけど……、その荷物のせいで膝を壊せば、あなたはここで脱落しますよ……? 荷物は減らすべきです。
さすがに手の平サイズのポーチだけで登れとは言いませんが、リュックサックの一つに収めるべきですよ。必要なものだけしまえば――」
「道具にも面積があるということはご存じですよね? 軽いものばかりを詰め込めば、リュックサックに収まりますが、面積が大きなものが二つも入れば、リュックサックは限界を迎えます……。
優先したいものの面積が大きければ、あなたと同じ考えでも、スーツケースを引く形になるだけですよ。
詰め込んでいるように見えても、中身はスカスカです。まあ、風船を入れているわけではないので、重さはきちんとありますが」
小さいものをパズルのように隙間なく詰めれば、リュックサックで足りるだろうが……、大きなものはいくら『向き』を変えてもほとんどの面積を使ってしまう……、そうなるとリュックサックだけでは足りない……絶対に。
「優先したいものを諦めれば、スーツケースどころかリュックサックも必要ないですけど……ただ、優先したいものを優先できない人生に意味がありますか?
この道から外れて落ちた方が、楽なのではないですか……?」
「それは……」
道にさえいれば、後続が助けてくれるかもしれない。
道の先で亡くなった者の持ち物が、滑ってくるかもしれない……。
でも、道から外れれば終わりだ。
二度と、この山に登ることはできない。
もしも登れたのだとしても、きっと今の自分とはまったく違う自分だろう。
すると、俺たちの真横を通り過ぎる女性がいた。
彼女は荷物の一つも持っていなかった……、ただし、それは手にも肩にも『持っていない』だけで、周囲を浮遊するドローンが、荷物を吊るしてついていっているからだ。
リュックサック、ポーチ、そしてスーツケースだ。
備えた量で言えば、男性と同じ……。ただ、彼女の場合はドローンという『金』なのか『権利』なのかを利用して、楽に山を登っている……、男性とは、持って生まれたものが違うのだ。
「……恵まれた人間は、たくさんのものを抱え込んでも、膝を壊す心配がないみたいですね」
「…………」
「いえ、隣の芝生は青く見えるだけで、その芝生にだって、心配事や苦労はあるわけですからね……なんのストレスもなく生きているわけではないのでしょう……。
私たち貧乏人には分からない大変さがあることは重々承知です」
だから責めるつもりはない、と言いたいのだろうか。
そう言い訳しているだけで、嫉妬という武器で斬りつけたい気持ちはあるのだろう。
……嫉妬されることを、あの女性はきっと受け入れているのだろうけど。
「さて、私はいきます。
ここで休んでいても荷物が減るわけではありませんからね」
「……俺が少し持ちましょうか?」
社交辞令だった。
もちろん、相手が断るだろうことを見越して、別れの挨拶へ繋げるための歩み寄りだった。
男性も理解していたし、だからこそこれは、予定調和だった。
「お構いなく。私の荷物を預けられるのは妻だけです……まあ、昔も今もこれからも、こんな私の隣に立ってくれる女性など現れるとは思えませんが」
大荷物を背負った男の背中は小さかった。
備えた分だけ、求められる力も増えていく……、それは荷物を持ち上げられる筋力に限らない。たとえば、知識であり、経験であり、金であり権力であり――、
弱者は備えることすら満足にできないのだ。
だからこそ、この山は最難関と呼ばれている……そう、『下らない山』だ。
この道はどこへ続いている?
山頂はあるのか?
そして俺たちは、いつから登り始めていた?
気付いたら登っていた……親に手を引かれて。
そして今、一人で立っている――登っている。
隣には誰もいないし……仮にいて、手を繋いだとしたら、相手が持っているものを共に背負うことになる。
共有できるものがあればできないものもある……、カバンの面積は決まっているし、必要なものだけを詰め込むことになれば、自分の『気持ち』は切り捨てられていく。
猫の手も借りたいけれど、だったら一人の方が楽……なのか?
荷物が少なくとも、膝が壊れる時はくる。
だって俺たちが登っているのは山であり……休みなく体が酷使されているのだから。
荷物がなくとも衰える。
登れば登るほど、俺たちは終わりへ向かっているのだから。
―― 完 ――
山登りにスーツケースは必要か? 渡貫とゐち @josho
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