第4話 無人都市:水没した街
ウィルがかつて扉のひとつを開けたとき、世界そのものが水没していた事がある。
「うお。なんだこりゃ」
不用意にも一歩踏み出そうとして、目の前に広がる水平線にびくりと足を止めた。
慌てて足元を確認する。幸いなことに、扉と繋がる先はなんとかコンクリートがあった。少し躊躇したものの、ちょうどいい足場とばかりに降り立った。真四角の、そこそこ広いコンクリートの足場だった。ぐるりと囲むように柵がある。
だがそのすぐ下は水没していた。妙な作りだと思ったが、柵が設置された場所から少し身を乗り出した途端に理解した。
――深いな。
水面はきらきらと光り輝くばかりで、その下は深い闇が沈んでいた。
水没したコンクリートはすっかり水棲生物の住処と化していて、藻とフジツボがゆらゆらと揺れている。窓であったはずの場所からは魚が悠々と出入りしていた。かろうじて建物だったとわかるくらいだ。つまりはこれはただの足場ではなく、コンクリートで作られた建物――おそらくはビルかなにか――の屋上だったのである。更に後ろを見れば、出てきた扉がこういう建物にありがちなアルミの扉だったのもあった。それから、まだ水面から突き出ているビルがいくつかあったからだ。何階建てなのかはさておき、水没しているのは確かだ。
あたりを見回すと、入ってきた扉の後ろ側の柵が外されていて、そこに手作りの橋が渡されているのに気付いた。どうやら世界が水没してもなお、生きている誰かはいるらしい。ウィルは橋に近づいて、少しだけ足をかけた。きしきしと音はするものの、まだ橋としては使えるようだった。慎重に体重を乗せ、上に立つと、橋の先にある塔のようなものを見た。
手作りの橋は、何度も手直しされた跡があった。何度も蛇行し、途中で曲がった釘を打ち付けられ、水没したビルの屋上を有効活用して支えを作り、奇妙な塔の窓まで続いていた。外された窓枠に手をかけて、中に入る。
近年まで使われていたようだが、いまはすっかり苔にまみれていた。おそらく最初はレストランで、水没してからはエントランスか何かで、そしてもう誰もいない。
――つまるところ、この世界は。
かつては地面があり、ビルがあったところを、何らかの要因でここまで水没してしまったらしい。少なくともビルを作れる知的生命体、端的に言えば人間は居たらしい。だが形跡はあるものの肝心の実物が見当たらない。死体すら無かった。死体は水の中に投げ入れてしまう風習でも生まれていれば別だが。
エントランスを見回していると、奥で開け放たれた扉の向こうにも空間があった。出てみると、エントランスとして使われたレストランよりも更に広い空間だった。柱を中心にして、ぐるりとガラス張りで囲まれている。
ああ、と直感的に理解した。
おそらくこの塔は、いわば展望タワーのようなものだったのだろう。
「つってもなあ、もう水平線しか見えないな、こりゃ」
窓の向こうを見回してみたが、これといったものはなかった。
その役目はもはや一般人への観光の為ではない。あちこちに積まれた荷物は濡れて乾いた形跡のあるものもある。斜めに傾いたテーブルに、ひっくり返った椅子。ぐしゃぐしゃになった紙。底に黒ずみだけが残ったコップ。古びた双眼鏡。
これは大したものは無いかと思っていると、柱の裏側に更に上へ向かうための階段が見えた。そういえばまだ上がある塔だった事を思い出す。一応足を乗せてみる。少なくともウィルの体重を乗せてはくれるようだった。らせん階段を登っていくと、上は更にこじんまりとした空間だった。誰かの寝室になっていたようで、隅の方に木箱が不自然に並べられて、毛布が置かれていた。近くにはテーブルがあり、その上にノートが一冊置かれていた。
『この塔を見つけた人へ』
これ見よがしに、ノートの中には栞が挟んであった。
そっと、栞の場所を開く。
それは自分以外の誰かにあてた手紙だった。
『西の方で噴火があり、大地が新しく生まれたという噂を聞きました。ぼくたちは船を作って、そこへ行ってみようということになりました。大地とはどんなところなのでしょうか。どんな感触がするのでしょうか。そのために目印を付けておきました。もしもこれを見つけたあなたが、同じように――』
ウィルは途中で読むのをやめ、ノートの前のページを開く。
そこには、この世界がどうしてできあがったのか。かつて何が起きたのか。それらの研究が進められていた。かつてはこのあたりにも人がいくらか住んでいて、この残された海上都市で生活していたことがうかがえた。
この姿無き旅人はどうなったのだろう。
無事に西の大地とやらにたどり着けたのだろうか。
――こいつは戻しておいた方が良さそうだな。
寸分違わず、元の通りにしなければならない。
でなければ、このノートの主が再び現れたとき、余計な希望を与えてしまうだろう。
この世界が元いた世界なのか考えるまでもなく、自分はまさにこの世界にとって異物なのだと肌で感じ取っていた。長く居られもしないくせに、下手に交わるのは余計な混乱しか生まないのだ。特にこんな、滅びかけて先行きがわからない世界においては。
この手紙を受け取るのは自分じゃない。
――帰るか。
長居は無用だった。
濃紺色のマントを翻して、階段を静かに降りてゆく。
旧レストランまで戻ってくると、行きと同じように橋に体重を乗せて、なんとか渡りきる。そこには自分を待ち構えていたかのように、アルミの扉が開け放たれたままたたずんでいた。軽く頭を掻き、変なものが入ってくるまえに立ち去ることを決意した。
扉に手をかけ、恐ろしいほどに静かな水没した街を一度だけ振り返る。
滅びかけた――あるいは生まれ変わろうとする世界に別れを告げて、見知った館へと戻った。
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