第4話 主よ、愚昧なる御身の子らに手を伸べよ

 既に日は西のかたへと没している。辺り一帯が血の池に沈み込んでいるかのようだ。これほど赤々とした夕暮れも珍しい。もっとも、それもじきに夜の闇の中へ没するのだが。


 あれだけ押し寄せていた人だかりも今やまばらなものとなり、後片付けを執り行う者たちを除けば、辺りで見かけるのはそのほとんどが職場から家へと向かう職人達程度のものだ。

 だからこそ広場の中心部に向かい立ち尽くしている者達の姿は妙に目立つ。皆が皆口々に何事かをつぶやいている。その中からやがて一人、二人と踵を返す者も現れる。


 兵長はこれまで引き結んでいた口元を緩めた。嘆息がもれた。


 広場の中心近くにいたためだろうか。顔が火照っているのがわかる。熱が届いていた、と言う事は、恐らく焼けていたもののかけらもまたこの身に浴びていたのだろう。


 広場の中心にはうずたかく積もったふた山の炭があり、炭の合間には人骨の存在が伺える。


「イスラームの女悪魔と、かどわかされた異端者か」


 呟くだけで、それ以上のことは何も考えられなかった。


 炭の山に歩み寄る。何回も水が撒かれたためしきりに蒸気が立ち上っている。炭の匂い、あるいは焼けた脂の匂いが妙に強く鼻腔を撃つ。


「相変わらず、辟易とさせられる匂いですね」


 兵長の隣りで一人の工夫が呟いた。


「そうだな。だが」


 まだまだ付き合いは続かざるを得ないのだろうよ。

 言おうとして、あまりに笑えない話だと気付かされた。結局口には出せずに終わる。工夫は一瞬怪訝そうな面持ちを見せたが、直後遠くから棟梁の怒鳴り声を喰らい、慌てて兵長のもとをはなれた。


 消し炭に目を向ける。修道士たちが祈りの歌を歌いながら、火箸で炭やら骨やらを拾い始めている。あらかたの大物が片付いたら残った灰がかき集められ、川に流されることになる。そうすれば、二人が甦ることは二度とない――審判のときにすら。

 兵長はやおら炭の山に手を伸ばし、焼け残った手指の骨を拾い上げた。


「何をなさるのです?」


 修道士が聞いてくる。兵長は骨を示し、


「一本程度だ。貰っても構わんだろう?」

「恐らくは。しかし、そのようなものを何に?」

「少々、な」


 修道士に礼を述べてから辺りを見回した。

 立ち尽くす者らは、何かを呟いている。鎮魂の歌なのだろう。異端者と呼ばれ、焼かれた者に対する。そのようなことがどれほど己の身を危うくするか彼らは承知しているはずだ。その上でなお、彼らは哀悼の意を隠そうとしない。


「何とも言いがたい光景だな」


 立ち尽くす者々の中からひときわ憔悴している男を見出す。サウロである。目立たぬところにいたとは言え、人目も憚らず広場の中心に向けて祈りを捧げているのが見て取れた。

 骨を持ったまま足を向ける。サウロが気付く様子はない。すぐ傍にまで近付いても、やはり気付かない。二、三度「サウロ殿」と声をかけ、ようやく反応が表れた。半ばにごった瞳が声の主を探り当てると「兵長様」と曖昧な言葉がもれる。


 寒気が走る。まるで生気を感じられない。


 兵長はわずかに逡巡したが、やがて意を決してサウロに骨を差し出した。


「君が必要とするかどうか分からなかったが、念のため拾っておいた。――形見だ」


 ほとんど条件反射といった態で受け取ると、サウロはそれを握り締めた。ペキ、と小さな音がする。手を開けば、あえなく骨片は二本に折れていた。

 声にならない声。地に膝を落とす。


 掛けるべき言葉が見つからない。むしろ何を言ったところで無意味なのではないかとは思う。

 だが、そのまま捨て置こうとは思えなかった。理解できてしまうのだ。過日サウロが詰め所に苦悶の跡を顔に刻んだまま現れたときから、このような有様になるのは見えていた。サウロの主に対する尊敬、あるいは崇拝ぶりは皆人が知るところだった。そのサウロが、どのような葛藤を経てであれ主を売りに出た、と言うのだから。


「兵長様」

「何だ」

「悔いる事はない、お前は正しい――別れ際の、主の言葉です」


 兵長自身耳にした言葉だった。連行の間際、引っ立てられる主の姿をどうしても直視できないからと背を向けていたサウロに対する、あまりに力強く、あまりに穏やかな。


 尋問のときの事を思い出す。


「貴方が正しく、サウロが正しいように、また私も正しくあろうとしたのです」


 その言葉を思い起こせば、たちまち難解な謎解きを迫られた気分になる。答えを聞こうにも、もうそれは炎とともに散り、得られる事もない。


「ひとたび炎に呑まれれば、教会の僕もイスラームもない。形を失い、後には骨が残るだけだ」


 われながら詩的なことを嘯いていると思う。内心苦笑せずにはおれない。


「君の主は、この町からイスラームの者達が脱出できるよう手引きしていた。してみると我々もイスラームも、かれには変わらぬ存在だったのかも知れんな」


 骨片が目に入る。

 サウロを責め苛み、そして他ならぬ兵長自身の心をいたずらに揺さぶり続ける言葉の一つ一つが、今となってはひとかけの破片に過ぎないのだ。あるいは言葉そのものが気のせいだったのかもしれない、とすら思う。だが直後にはそれが単なる自分の願望に過ぎないと否応なしに気付いてしまう。


 ――言葉は、消えない。


「主よ、愚昧なる御身の子らに手を延べよ」


 サウロが顔を上げる。


「かれの最期の言葉だ。炎の中で、繰り返し唱えていた。――いったい、どのようなことを考えながら彼は果てたのだろうな」

「恐らくは、言葉の通りなのでしょう」


 言って、立ち上がる。


「兵長様」

「何だ」

「私は、誰を恨めばよいのでしょう」

「――さてな」


 曖昧な表情があらわれた。自嘲、と言うのとも少し違う。口許は笑っているようにも見えるが、引き攣っているという印象のほうがよほど強い。


 小さく頭を垂れるとサウロは歩き出した。おぼつかない足取りだ。いつ倒れたとしてもおかしくはなさそうだった。

 その小さな背中に声を掛けようか、と迷う。以前兵長が進むべき道に迷っていたとき、他ならぬかの人に道を示してもらったことを明かし、かの人の死を、サウロ一人で背負う必要は無いと伝えたかった。


 口を開く。声は出ない。ともなれば、もう黙って見送るしかない。


 サウロの背中が路地の闇に溶ける。


 既に残照すら色褪せ、町はその息を潜めている。兵長は改めて広場を見遣った。それがいたこと、それがあったことはいまや地面に残っているであろう焦げ目程度しか証するものがない。その僅かな痕跡とて、この闇溜まりの中ではとても正確な位置などつかめたものではない。


 兵長は十字を切った。そして広場をあとにした。




 ――ピレネーの峰々に抱かれ、その石碑はある。

 十数世紀もの時を隔てた今となっては、文献らしい文献も散逸し、その男がいたことを知るものも最早その石碑しかない。

 だがそこに刻まれているものとて、男が残したとされる一句でしかない。

 すなわち――……

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主よ、愚昧なる御身の子らに手を伸べよ ヘツポツ斎 @s8ooo

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