第3話 サウロの苦悶
これで良かったのだろうか、居間でサウロは一人自問する。
かねてより塞ぎこみがちとなっていた主が晴れやかな面持ちを取り戻せたのは歓迎すべき事なのだろう、しかしそのおおもとが邪教の教えだというのであれば話は別だ。
そう捉えるのが、正しいはずなのに。
「目を覚ます思いでした」
あの日主は静かに、しかしどこか熱に浮かされるかのように語りだした。
対するサウロは、内心で天を仰いでいた。女が家に運び込まれたとき、既に嫌な予感はしていたのだ。
「彼女の言葉には愛があり、真実がありました。枝葉こそ違えど、確かに彼女が育まれた地にも正しき教えはあったのです」
正しき教え、という言葉にどきりとする。よりにもよって邪教を称えるとは!
サウロにはこのまま主が経典を捨てたとしても不思議ではないように思えた。主はどこまでも純粋な教会の徒である。そのひた向きさ、真摯さ、気高さの前で己の未熟を恥じ入った事は一度や二度ではない。そのような人間がひとたび間違った教えに傾倒でもすれば、一体どこまで転がってゆくことだろう。
その出会いは、間違いなく主を変えた。
まず覇気を得た。元々不安そうにしているところは滅多に見せなかった人ではあったが、ここ最近になってますます揺らぎがうかがえなくなってきたように見受けられる。
そのためだろう、寝食も忘れて、精力的という言葉ですらなお控えめすぎるほど外で何がしかの活動をしているようだった。常日頃の留守を任されているサウロであるから、外に出た主が何をしているかなど分かりようがない。分かりようはないが、
「いま、とても私は充実しているのです」
嬉々として語るその頬がこけ始めているのには嫌でも気付かずにおれないのだ。
元々主はそう体力のあるほうではない。むしろ多少の無理をすればすぐ体を壊すほどだった。ともすれば、今の時点で既に体をおかしくしている事すら考えられるのだ。とは言えあのような有様であれば、自愛を勧めても聞く耳など持つまいが。
女を放逐すればよい、と言う考えに至るのはさして難しい話でもなかった。そもそも人々に教えや祝福をもたらすべき者の家に異教徒の、しかも汚された女が匿われているという話自体が異常なのだから。だからサウロはその行いこそがむしろ正義なのだ、と思い込もうとする。
だが、それも毎度果たせずに終わる。
例えば、この家から女を連れ出す折に自分が女を連れ歩くところを隣人に見られでもしたならば。既に女については巷間の噂となっているような節がある。主は荷車に布を被せて女を運んできた。この家に何が運び込まれたのか、と言う事自体は知られていないだろうが、大慌てで荷車を押す主の姿を見たと言っている者は枚挙に暇がない。そこへ自分が噂に決定的な、しかも最悪な証拠を与えでもすれば、よからぬ結果が待ち受けているのは見えている。そう考えるととても連れ出す事は出来そうになかった。
その他にもいくつかの打算的な理由はあった。また女を追い出すことがどれだけ主への打撃になるかも想像に難くなかった。しかし、それらが所詮付帯的な理由でしかない事は明らかだった。結局のところサウロを最も苛んでいるものは、罪の意識だった。
課せられた役割を果たしていただけとは言え、結局のところ女の身の回りの世話をしていたのはサウロなのだ。努めて女の事情には立ち入るまいと心がけてこそきたものの、主に対して心を開いた為か、向うから自分のことを話してきた。そのために嫌でもこれまで女がどのような生活をしてきたか、どのようなことを考えてきたか、と言った事を知ってしまった。女にまつわる諸々ごとを聞いてしまえば、いつまでも思い入れを持たぬまま接する事などできよう筈がなかった。
そこに、極めつきは女の一言だった。
「ありがとうございました」
始めの内こそ何の気持ちが湧くでもなかったが、時を追うにつれてその言葉がサウロの心中に重くのしかかって来るようになった。苛立たしさ、と呼ぶべきだろうか。だがその気持ちをぶつける先もなく、主に打ち明けるにもどこか気が引け、結局気持ちばかりが鬱積していった。
世話を始めた頃のうちにもっと冷淡な態度で臨んでいればよかったのだ、後悔がよぎる。だが後悔が罪の意識を消す事など決してありえない。
天井を見る。
その向うにいる主と女は、いまどのような話を交わしているのだろう。分かるのは二人の間に、サウロでは到底理解しようのないつながりがあることだけだ。
ただ話を耳に入れただけでも女が持つ教養の深さには気付かされた。裕福な家庭に生まれたから、と言っていたか。だが少なくともサウロは教養を備えた貴婦人と言うものの存在を聞いたことがない。当然の話だ。智恵とは男に宿るべきものであり、女がそれを求めたとておよそ害にしかならない。主より聞いた創世記にある失楽園のくだりが、何よりそれを明らかにしているではないか。
ひとたび冷静さを取り戻せば、いま主が置かれている状況がどれだけ健全ならざる物なのかが明らか過ぎるほどに分かる。智恵を手に入れた女は気高きものをいともたやすく堕としめうるのだ。主だけが例外になるなど、何故言い切れるだろう。そのことを思えば、やはり自分は正しかったのだ、と言える。
――そのはずなのに。思いは堂々巡りとなる。
アーメンを唱える。普段当たり前のように唱えていたアーメンが、いまはこうも遠く、こうも空々しい。正しい事を正しい事と肯ぜず、ゆえに頼り得るとされる者の姿が、あまりにもはかなく思える。
頭髪をかき乱そうとした、まさにそのとき。
背後で、突然玄関の戸が空いた。
「待たせたな、サウロ殿」
野太い男の声。
来るべき時が来た、心臓が早鐘を打つ。サウロは深呼吸する。相手に心中の動揺を出来る限り悟られるまい、と試みる。それがどこまで効をなすのかは全く想像がつかなかったが。
振り向く。帯剣した数人の警邏の兵たちが玄関の向うに並んでいる。声の主は、その真中に立つただ一人飾りかぶとを抱えていた壮年だ。
「兵長様」
生唾を飲む。果たして次の言葉を、よどみなく言い切ることが出来るのか。
「お待ちしておりました。通報いたしましたイスラームの女悪魔、及び女悪魔にかどわかされた異端者は、只今階上にて言葉を交わしております」
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